シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常』
リチャード・E・シトーウィック著の『共感覚者の驚くべき日常』(山下篤子訳、草思社刊)を読んだ。
本書については、小西聖子氏(東京医科歯科大学難治療疾患研究所被害行動学助教授 平成5年より同大学犯罪被害者相談室でカウンセリングを実施)による評があるので、それを参考にしてもいい。
まず、共感覚とは何か。
「共感覚とは、ある刺激を受けたとき、本来の感覚に他の感覚が伴って生ずる現象で、印刷された言葉や数字が色となって感じられたり、香りが形を伴ったり、話し言葉が虹色に見えたりする。」
引用は下記のサイトから:
「言葉や音に色が見える――共感覚の世界」
小西聖子さんの評にもあるように、「共感覚は直接的感覚で、自分で選択することはできない」
何かの色を見ると、必ずある決まった形や色や音を思い浮かべてしまう。それは、強制的にそうなってしまうわけで、決して、当人は比喩表現をしているわけではない。
実感を述べているのだ。
その実感を言葉で表現するのは難しいので(実際に表現すること自体が難しいということと、そうした共感覚を持つ人は少ないという意味で)、常識的な感覚を持つ人には、奇矯な表現、衒った比喩を駆使しているかのような誤解を受けやすい。
従って、従来は精神科や神経科へ相談に行っても相手にされなかった。何か精神的な問題を抱えているか、でっち上げているかとさえ思われたりする。何故なら、最新鋭の機器を使って検査しても、身体的な異常も徴候も何も見つからないので、治療の施しようがなかったのだ。
あるいは、その前に、理解も診断も叶わなかったのである。
音韻と感覚というと、すぐに思い浮かべるのは、アルチュール・ランボーあるいはシャルル・ボードレール、という人がいるかもしれない。小生もその一人だった。尤も、シトーウィックによると、ランボーやボードレール(詩『照応』)が共感覚の持ち主だったかどうかは分からないという。
ランボーの「詩人はあらゆる感覚を狂乱せしめることによって未知のものに到達し、見者とならなければならない」という主張と彼の生き方に痺れた方も多いのではなかろうか。
余談だが、ディカプリオ演じるところのランボーが話題を呼んだ(?)映画、『太陽と月に背いて』を御覧になった方もいるかもしれない。
[「ランボーの手紙」はいつ読んでも刺激的だ:
「ランボーの詩」を読みたいなら]
さて、そのランボーの詩「母音」の中にある、「Aは黒、Eは白、Iが赤で、Uが緑の、Oは青」というのに当惑した経験があるのでは。
が、実際的には本書で扱われる共感覚とは違う。前述したように、詩的表現でも比喩でもなく、ある色を見ると必ずある一定の音や匂い、あるいは形を感じる。そこには本人の自由が効く余地がないのだ。ある食べ物(味)を食べると必ず尖がった形や色を感じてしまうのだから、当人は結構、辛いらしい(あるいは楽しい場合もあるとか。常人より遥かに微細に感覚の世界を実体験しているのだから)。
当然、詩的な表現(比喩)と違うだけではなく、マリファナなど薬剤を使った目くるめく感覚の変幻の世界とも違う。
薬物を使っても感覚の異常体験は味わえるらしいし、本人にはコントロール不能の感覚の鮮明さや多彩な世界が実感できるのだとしても、それは変幻して止まず、どんな感覚にどんな色や形が現れるのか、全く予想できない(らしい)。
が、共感覚者には、過去の経験からして、この味にはこの色や形とか、決まっているのである。
さて、では、そうした共感覚は、一体何なのか。何かの異常なのか、それとも人間の脳や神経や感覚について何か示唆するものがあるのか、それが問題だ。
まさに、共感覚は脳や感覚や神経について、実に豊穣な世界を教えてくれると本書の著者シトーウィックは云うのである。
共感覚の世界を探求するのに、小西聖子さんも語るように、ある種、推理小説的な展開になっているし、そこが本書を読書する醍醐味となっているので、小生も触れない。
この感覚を持つ人は、従来は10万人に一人とも言われていたが、段々研究が進むに連れ、実はもっと多く、数万人に一人、あるいはそれ以上だとも言われているようだ。今までは、あまりに奇矯に思われ、人に(それどころか医者にも)変人扱いされるのがオチで、子供の頃の苦い誤解と虐めの体験などから、秘するようになる人が多いらしいのである。
共感覚者の驚くべき世界、その典型がルリアの報告した事例だろう:
A・ルリア著『偉大な記憶力の物語―ある記憶術者の精神生活』(天野清訳、文一総合出版刊)
こうした共感覚を持つ人に、画家のカンディンスキーや、作家のV・ナボコフがいる(『ナボコフ自伝』大津栄一郎訳、晶文社刊)。共に刺激的な創造的な芸術家だ。
本書の中で圧巻であり、また、刺激的な知見だったのは(あるいは既に常識なのかもしれないが)、皮質と辺縁系の理解だろう。
人間の脳はその表面を皮質が覆っている。まさに一番新しく発達した部分である。
その部分に古くから脳科学者らは記憶や視覚や聴覚の座を捜し求めてきた。また、まさに人間らしい高度な思考や分析の能力の秘密を探ろうとしてきた。
なるほど、確かに皮質は脳の新しい部分であり、高度な機能を果たしている。が、本書の中で著者は、実は皮質に覆われている辺縁系を高く評価する。皮質が高度に発達したとしても、それは辺縁系との相関関係の中で発達したのだ。その辺縁系は、著者によると、情動の世界を担っていると云う。
著者は、その情動の世界こそが人間にとって大切なのだと説くのだ。皮質というのは、脳の全面を覆ってはいるが、実は厚さ(薄さ!)がせいぜい1ミリか2ミリ程度なのだ。氷山の一角という言葉があるが、とてもそんな比喩では足りないくらい、水面下(皮質下)の辺縁系は質量共に膨大であり豊穣な役割を果たしていると力説する。
認識や理解や分析の皮質が過度に重視される傾向があったが、人間味というのは、まさに辺縁系にこそあるのだ。それがまさに情動なのである。
詳しくは本書にあたってほしい。一読に値する本だと思う。それにしても、もっと早く翻訳を出して欲しかったね。原書は93年なのだ。
(03/03/27)
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