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2005/04/30

アブダルハミード著『月』

 扱う本は、シリア人であるアマール・アブダルハミード著の現代小説『』(日向るみ子訳、アーティストハウス刊)である。
 恐らくはアマール・アブダルハミードという名前を聞いても、ピンと来る方は少ないだろう。
 小生も、たまたま昨年、新聞の書評で扱われているのを見て、ほとんど好奇心で読んだだけなのである。従って、予備知識はまるでない。新聞の書評が全てである。
 書評では、「85年の東京国際女子マラソンで、東独の一選手が股間を朱に染めて街を掛け抜けたことを」という文章から始まっていた。書き手は詩人の矢川澄子氏である(矢川澄子氏については末尾の注を是非、参照願いたい)。
 続けよう。「解説者は言葉を失った。あれはおそらく経血というものがテレビに映し出された最初ではなかったか。成人の半数の悩みの種である月経は事ほど左様に黙殺されてきた」
 小生も、テレビでその映像を見た。生々しい映像であり、こんな画面をテレビが流していいものか、戸惑った。暗黙の世界のものであり、現実に起きている事態なのだが、表立っては語れない事柄であった。
 そう、本書の原題(英語)は「Menstruation」なのである。
 直訳すると、「月経」となる。直接は名指しできないその事柄を、「月のもの」などと婉曲表現することがあるが、訳本のタイトルは、まさに「月のもの」を意味する『月』なのだ。
 しかし、だからといって、別に本書が月経に悩む女性の告白本といった類いの本ではない。
 そうではなく、欧米から見たら旧態依然たる文化に生きる社会に見えても、実は、欧米に負けず劣らずレズやゲイや、近親相姦や不毛な愛が日常的に繰り広げられていることを、必要以上に露悪的になることもなく描いた小説なのである。

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野間宏著『暗い絵 顔の中の赤い月』

 別頁に扱うのは、野間宏著『暗い絵 顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)である。
「赤い月」というと、なかにし礼著『赤い月』を若い人などは連想するかもしれない。「日本の中の中国・赤い月」を参照させてもらうと、「旧満州の夕日は、真っ赤に燃えるような輝きを発しながら地平線に沈み、見る者の心に焼き付く。そんな雄大な風景を、なかにし氏は「太陽がまだ中天にあるうちから赤々と色を帯び始める。……地平線に降れる時には、あたりの空は黄金色になり、大地の水分をすべて蒸発させてしまいそうな勢いだ」と表現している。それほど大陸の夕日は心象風景として心に刻み込まれる」ということのよう。
 但し、同サイトによると、なかにし礼著の『赤い月』の表題「赤い月」は、「「ヨハネの黙示録」第6章にある「第六の封印を解き給ひし時、われ見しに、大なる地震ありて日は荒き毛布のごとく黒く、月は全面、血の如くなり」から」だという。
 推測になるが、野間宏著の『顔の中の赤い月』は、、「「ヨハネの黙示録」第6章」の転記させてもらった一文からイメージを借りて来ているのだと思う。
 余談だが、上掲の「日本の中の中国・赤い月」というサイトの説明を読んで、なかにし礼著『赤い月 上・下』(新潮文庫)も読みたくなった! 
                         (05/04/30 up時付記)

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ハーバート・ビックス著『昭和天皇』

 ハーバート・ビックス氏著による『昭和天皇 上・下』(講談社刊)をようやく読了した。昨年、上巻を読み、今年早々には下巻を入手していたのだが、春先から読み始めて一ヶ月ほどでやっとのことで読み終えたのである。
 中身が重いものだけに、面白いと思いつつも流し読みはしたくなかったのだ。
 著者のビックス氏について、このサイトに紹介がある。
 
 本書は、「日本の戦争戦略の形成と、中国における軍事作戦全般の実行の指揮に積極的な役割を演じた。一九四一年には、天皇と宮廷の側近は、陸海軍の強硬な対米英戦支持者と結んで、太平洋戦争に道を開いた」という立場で書かれている。この見方に賛否は当然分かれるだろうが、著者が自らの立場を明確にしているというのは、読むほうもそのつもりで読むので、好ましいことだろう。
 歴史の書は、特に近代となると無数の文献がある。専門家でもその全てに目を通すのは至難の業で、実際にはかなり焦点を絞って研究し文献を渉猟するしかない。

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小林忠著『江戸の画家たち』

 小林忠著『江戸の画家たち』(ぺりかん社刊、〔新装新版〕)を読了した。小林忠氏の本を読むのは、『墨絵の譜 1』(ぺりかん社刊、同書の2もあるが未読)以来だ。
 小林忠(こばやし ただし)氏については、「学習院大学哲学科」を覗かれると、略歴や研究分野、著書、趣味などがご自身の手により、示されてある。
 著者の仕事中の勇姿も。
 在籍される大学や学科などを移籍される可能性が、それに伴って、情報が削除される可能性も皆無とは言えないだろうと思われるので、研究分野だけ以下、示しておく:
「日本近世・近代美術史、とりわけ江戸時代の絵画を研究対象としています。江戸時代は、長期にわたる国内の平和と安定の中で、東洋・日本の美術の伝統を深く内熟させ、充分に醗酵させた時代でした。また、厳格な身分制の中で各層の美術がそれぞれ独自に開花し、展開すると同時に、京都と江戸の両都市を中心として各地に地域の特色を盛り込んだ美術が興って、その多様さには目をみはるものがあります。狩野派や土佐派などの御用画派、琳派や浮世絵などの民間画派、そして文人画や洋風画など知識人層に支持された絵画傾向など、あれやこれや魅力的な対象に目移りがして困惑させられるほどです」
(転記終わり)
 本書『江戸の画家たち』の表紙の画像や目次をネットで見つけた。

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2005/04/28

小田島雄志著『駄ジャレの流儀』

 今朝(16日)、車中でラジオ(NHK)を漫然と聞いていたら、話題は駄洒落の話。小生の好きな話題である。Mアナウンサーがさる方にインタビューする形で話が進んでいる。結構、間に駄洒落が飛び交う、スリリングな展開。
 一体、誰へのインタビューなんだろうと訝しんでいたら、その相手とは、小田島雄志氏だった。真っ先に思い浮かんだのは、ああ、あの『駄ジャレの流儀』の…であった。
 『シェークスピア全集Ⅰ~Ⅷ』の翻訳で1980年度芸術選奨文部大臣賞を受賞され、さらに95年には紫綬褒章も受章された英文学者である小田島雄志氏なのに、真っ先に浮かぶのは『駄ジャレの流儀』(講談社刊)だというのは、氏に失礼だが、ま、聞いていたのが小生だったのだから、教養の問題からして仕方のないことだ。
 さて、扱う題材がダジャレだけに、できるだけ真面目にこのエッセイを続けることにしよう。
 この名著についてはかなりのことが語られている。例えば、「現代日本語におけるダジャレの研究」なる論文を上梓されている坂本千草氏が、「ダジャレの研究」という頁において、丁寧に分析されている。
 坂本千草氏によると本書は、ダジャレの研究書ではない。

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2005/04/23

金達寿著『古代朝鮮と日本文化』

 白川静氏著の『後期万葉論』(中公文庫刊)を読んでいたら懐かしい書に言及されていた。それがこの金達寿著『古代朝鮮と日本文化』(講談社核術文庫刊)である。
 買ったのは92年の暮れだったか。古代史や考古学への関心が再熱していた頃で、古代日本に関わる本を物色していて行き逢った本だった。読了しても大概の本は、ダンボール箱に詰め込んでしまうのだが、この本はいつかは再読するような気がして、書棚に詰め込んでおいた。
 その書を久しぶりにひもといてみたのだ。
 三浦佑之・現代語訳『口語訳 古事記』を巡る感想文の中でも触れたが、江戸時代になり、鎖国されているとはいえ、世界の激動ぶりが国内の有識者には伝わっていて、国内で安閑としていらえる時代の終焉を自覚し始めていた。
 いな、むしろ、この日本も世界の植民地競争の波に浚われる恐れが多分にあると、危機感を高めていたのである。
 その中で、日本とは何かが問われ始めた。数多くの藩に分かれて、それぞれが「クニ」意識に凝り固まっている。決して、日本という統合された国家が意識されているわけではない。国家というより、むしろ、天下である。
 天下とは何か。そんな議論をここでするつもりはない。ただ、海の向こうの朝鮮も中国も、まして急激に勃興しつつあった西欧の貪欲な食指を意識するはずもない。あくまで、地続きの島国全体が世界であり、その上を天が覆い、天が地の下にいる我々を見守る。

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秋山 弘之著『苔の話』…「ひかりごけ」

 秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めたということで、前日の季語随筆・番外編「苔の話あれこれ」では、「苔」の周辺を主に季語との関連で若干、探ってみた。本書については、読みかけだったこともあり、「はしがき」の一部を紹介するのみに留め、中身には触れないでおいた。
 本書から「苔」の生態その他についてあれこれ説明するのも小生の手に余る。
 それよりも、「苔」というと連想する文学作品の筆頭の「ひかりごけ」に焦点を合わせて見たい。言うまでもなく、武田泰淳の小説(戯曲)である。
 本作品は、所謂「「ひかりごけ」事件」に話の糸口を得ている。その事件の詳細は:
「ひかりごけ」事件
ひかりごけ事件

 見られるように、「「ひかりごけ」事件」は本当にあった事件なのである。
 武田泰淳は、この実際にあった事件を知床半島・羅臼の地元中学校の校長に聞くことから小説を書き出している。
 小説(戯曲)「ひかりごけ」の粗筋は、例えば、「ひかりごけ - goo 映画」などで読める。
 また、例によって当然ながら、「松岡正剛の千夜千冊『ひかりごけ』」も採り上げている(「ひかりごけ」新潮文庫)。
 この小説はメタフィクション的な構造を有していて、小説の中の登場人物が突然、書き手になってしまったりする。「ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である」
 そう、とても奇妙な構造の小説なのだ。

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秋山 弘之著『苔の話』(1)

 昨日から秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めている。図書館で書棚をざっと眺めて回っていて、パッと目に飛び込んできたので、即、手に取った。
 それほどだから、小生は苔に興味がある…のかどうか分からないが、既に手には借りられる冊数の本を抱えていたのに、一冊を棚に戻して本書を代わりに借りることにしたほどだから、その行動からすると、興味がないとは言えないはずなのである。
 読み始めているといっても、車中での待機中の齧り読みなので、まだ冒頭の辺りをうろついているだけだが、でも、楽しみつつ読めている。自宅では、スティーブン・レビー著『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)を読み出してしまったので、『苔の話』は車中で読みとおすことになりそうである。
 ちなみに『暗号化』は、「ハッカーに関する本などで有名なサイエンスライターのスティーブン・レビーが、インターネット時代の暗号技術を取り上げて、一般の読者向けに解説した、全体で500ページ近い大部な本である」ということで、エシュロンも出てきたりして、ひたすら好奇心で読んでいる。

 苔というのは、一般的にはそれほど人気のある対象ではないのだろう(と思われる。確かめたことはないので、断言はできない。もしかしたら、日本人だと密かに愛着して方が案外と多いのかもしれない)。
 苔など、下手すると、黴(かび)や錆(さび)の仲間扱いされかねない(掌編「黴と錆」参照)。
 が、日本のような湿気の多い、山も木々も多い土地柄だと、ともすると花や木々以上に馴染みのある生き物と言えるかもしれない。
 そもそも、「苔」という漢字自体が、苔の性質を表しているような気がする。小さくて目立たず、その存在を花を咲かせたりして大袈裟に自己主張するわけではない…そう、植物としては雑草と比べてさえも、とても無口な存在なのだ。クサ冠(カンムリ)にムクチと書いて「苔」と、名は体を現しているわけである(無論、これは小生の戯言なのだ。読んで、コケた方もいたりして)。

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2005/04/19

三浦佑之『口語訳 古事記』

 三浦佑之氏による現代語訳『口語訳 古事記』(文藝春秋社刊)を二週間ほどを掛けて、ゆっくり読んだ。
 ゆっくり読むのがいいのか、それとも物語や語り口に合わせ、一気に読むのがいいのか、分からず、小生は時の都合が許さないこともあり、一日に二十から三十頁ほどのペースで読むことになった。
 小生は、既に『古事記』は幾度となく読んでいる。近年だけでも、数年前には、次田真幸全訳注による『古事記 上中下』(講談社学術文庫刊)を読んだし、つい、二年ほど前にも、倉野憲司氏校注による『古事記』(岩波文庫)を読んでいる。
 『古事記』は『日本書紀』と比べ、物語性が豊かで、読んで面白く、せっかく読むならいろんな方の手になる『古事記』を愉しみたいと思い、今度、昨年評判になった三浦佑之氏の手になる『古事記』を読むことにしたのだ。
 この現代語訳の特徴は、物語の中に語り手であるご老体を登場させて、物語の中で筋の特徴や注意点を最小限入れ込むことで、本文だけで、物語の面白さを感じとれるようにした点だろう。
 それでいて、傍注や地名・人名や系図などの資料も十分に備わっているので、突っ込んだ読み方をしたい人、出来る人にも配慮してある。
 なるほど、最初に『古事記』を読むなら、この本からがいいと素直に思える。

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2005/04/13

網野善彦著『蒙古襲来』

 思いっきり話が変わるが、小生は今、網野善彦著『蒙古襲来―転換する社会』(小学館文庫)などを読んでいるが、6日夕方のNHKテレビでまさにこの話題そのものを扱った番組を放映していた。
「その時歴史が動いた 「異説!蒙古襲来」すれちがった日本と大帝国の思惑▽皇帝クビライの野望」という題名で、「その時歴史が動いた◇日本に襲来した元が撤退した1281年の弘安の役の真相を探る。鎌倉時代の日本を脅かした蒙古襲来は、元の皇帝クビライの領土拡大の野望によるものと考えられてきた。しかし大陸側の史料を読み解くと、クビライは当初、海洋交易の理想を実現するため日本との平和的な国交締結を求めていたことが分かった。だが外交経験に乏しい日本は元の真意を見抜くことができず、鎌倉幕府は態度を硬化させて元への返書を拒み、自ら元との対立を招いてしまった。やがて念願の南宋併合を果たし大海洋帝国に変ぼうした元は、抵抗を続ける日本を最初の攻撃目標として選び、大艦隊を博多へと差し向ける」といった内容。
 小生は、故・網野善彦氏のファンなので、彼の本を折々に読むのが楽しみである。
 その意味でタイムリーな番組を提供してくれたNHKさんに感謝だ。
『蒙古襲来』についての感想文を書くかどうか、分からないので、今のうちにメモしておく。
                         (2005.04.07記)


[本稿は、季語随筆「朧月…春の月」から書評関連記述の抜粋です。メモだけなので、後日、中身に触れたいのだけど…。]
[このたび、書評とはいかないものの、なんとかメモに上積みだけはすることができた。別頁へどうぞ!(05/04/17 記)]

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横井清著『的と胞衣』

 横井清著『的と胞衣 中世人の生と死』(平凡社ライブラリー ←品切れ!)を読了した。この本も図書館通いをしたからこそ発見した本であり、また、著者であると言える。
 まずは図書館の書棚に並んでいる本書の背表紙のタイトルにある違和感めいたぎごちなさを覚えた。だからこそ、選んだ。特に、「胞衣」は惹かれるテーマでもある。が、「的」は、何だろう。弓矢で射る的(まと)のことなのか。パラパラと捲ってみると、とりあえずは、予想通り、射的の的であることは間違いない。
 けれど、何故に「的」なのか。本のテーマとして採り上げる何があるのか。
 が、何冊あるのか分からない図書館の蔵書を眺めていると目が眩む思いがする。読みたいと思わせる本は、それこそ限りない。敢えて手にとり、しかも、借りるかというと、今、数冊の本を並行して読んでおり、既に借りる予定の本を更に数冊、小脇に抱えているだけに、さて、どうしたものかと躊躇われてしまう。
 と、本書の「後記」を覗いて見た。すると、その終わりに「一九八八年七月十七日 富山市長江の宿舎にて 横井清」とあるではないか。

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岡野 弘彦著『折口信夫伝』

 岡野 弘彦著『折口信夫伝―その思想と学問』(中央公論新社)を読んでいる。著者の岡野弘彦氏のことは本書を手にとるまで、小生には全く未知の人だった。まして歌人だなどと、知る由もない。
 が、本書を見出したことは、小生には発見だったことは間違いない。別に本書で著者が2001年和辻哲郎賞を受賞したからでは、無論、ない。著者の師である折口信夫への学問と人間とへの深い理解と、なんといっても愛情が読みながら、つくづくと感じられ、しかも、子弟愛特有の恩師一辺倒のべたつきもない。
 それは、筆者(1924年生まれ)が学者であるということもあるが、師である折口(1887年まれ)とは年齢が四十歳も違うこともあり、師の家に同居して師の生活や人間に直に触れていたとしても、さすがに冷静な目を保っている訳である。
 本書の内容について、小生のようなものが書評をするのも気が引ける。まずは、例によって出版社の宣伝文句を示しておくと、「人間を深く愛する神ありてもしもの言はゞ、われの如けむ。戦後日本のあるべき姿に沈痛な思いをよせた折口。その学説を継ぐ著者が、緻密な知的追求と激情を秘めた詩的で求道的な思索とが交錯する師の内面をみつめ直し語り尽した力作伝記」ということになる。

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ハナ・ホームズ著『小さな塵の大きな不思議』(続)

 過日、ハナ・ホームズ著『小さな塵の大きな不思議』(岩坂泰信監修、梶山あゆみ訳、紀伊国屋書店)を読了した。
 本書に啓発され、既に若干のことは書いたが、得られた知見は多く、できれば特に関心を引いた箇所だけでも引用しておきたいが、それでもことによると本書の大部分を転記するはめになりそうなので、断念。
 ただ、そうした知識もさることながら、まだ、肝心な点に触れていないので、本書を図書館に返却する前に、要諦と思われる部分だけ、簡単に記しておきたい。
 その前に、小生には初耳のターム(専門用語)をメモしておきたい。
 それは、「パーソナル・クラウド」という概念である。「家の中で、塵がとくに濃くたちこめている場所」というのは、実は人間なのである。花粉症騒ぎもまだ終息には至っていないが、家庭(会社や店舗など)に花粉症の原因とされる花粉を持ち込まないため、建物の中に入る前には、着ている物をよく払うべし、とか、靴は日本では玄関で脱ぐからいいようなものだが、それでも、玄関に入る前にドアの外で靴の裏を拭うべしとか、ウール系の生地は花粉を吸い込み溜め込み易いから、なるべく花粉がつきにくい素材(生地)の衣類を選ぶべし、などと言われたりする。
 要は、人(ペットや持物)にこそ、花粉が附着しやすいからだが、同じ事が屋内でも現象しているということだ。
 モノを掴み叩き運び割りくっ付け選び磨き擦り開き…、そのどの動作も埃を巻き上げるか、発生させる。
 ここまではパーソナルというより、家庭内では余儀ない塵、埃ということになる。
 が、問題はこの先にある。

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立川昭二著『江戸病草紙』

 季語随筆日記「竹の秋…竹筒のこと」の中で、立川昭二氏のことに言及した。なので、メルマガでは公表したがHPなどでは未アップの「立川昭二著『江戸病草紙』あれこれ」をこのブログサイトに載せる。
 せっかくなので、若干の補足もしておきたい。
Amazon.co.jp: 本 江戸 病草紙―近世の病気と医療」より、出版社側の宣伝文句を:

江戸時代を生きた人びとは、病気をどのように見つめ、それとどのようにつき合ってきたのだろうか。彼らはいかなるむごさとやさしさのなかにあったのだろうか。この時代、もっとも恵まれていた将軍の子女でさえ、大半が乳幼児期に死亡し、ひとたび疫病が猛威をふるえば大量の死者を算し埋葬さえおぼつかなくなったが、その痛苦と畏怖の彼方にはいのちの痛みをわかち合う「文化」があった。過去の痛みを追体験し、現代において病むことの意味を問い直す力作
(転記終わり)

 さらに、目次などを:

 お松の場合
 馬琴の場合
 庶民の証言
 外国人の証言
 飢餓と疫病
 異常気象とインフルエンザ
 痘瘡
 梅毒
 結核
 コレラ
 食生活と病気
 寄生虫病と風土病
 女と子どもの病気
 精神病
 鉱山病
 医療環境
 平均寿命―どれだけ生きられたか

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2005/04/08

坂口安吾著『桜の森の満開の下』

 坂口安吾著『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫)を読んだ。本書は、表題作を含む短篇集である。例によって、本書の謳い文句を掲げておく:
 
 なぜ、それが“物語・歴史”だったのだろうか――。おのれの胸にある磊塊を、全き孤独の奥底で果然と破砕し、みずからがみずから火をおこし、みずからの光を掲げる。人生的・文学的苦闘の中から、凛然として屹立する“大いなる野性”坂口安吾の“物語・歴史小説世界”。
                           (転記終わり)

 本書を読んで、改めて坂口安吾の歴史への造詣の深さや拘りを再認識した。さすがは、『日本文化私観』をモノするだけのことはある。作品にも歴史に仮託した物語が多い。
 さて、彼に付いて触れるべきことは多い。

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2005/04/04

ハナ・ホームズ著『小さな塵の大きな不思議』

[季語随筆日記「山笑ふ・花粉症・塵」(2005.03.13)より]

 過日、シドニー・パーコウィツ著『泡のサイエンス―シャボン玉から宇宙の泡へ』(はやし はじめ/はやし まさる訳、紀伊国屋書店刊)を読了した。
 この本は、森羅万象(ナウマンゾウとは読まない、「しんらばんしょう」である)が素粒子の次元から宇宙全体の構造に至るまで、この世界がいかに泡に満ちているかを縷縷、語ってくれる。
 その中で、海の波(潮)が飛沫となり空中に飛散して大気中に広がり、それが雨粒の芯(核)となっている、という話があった。その量たるや膨大なものだという。
 その連想だろう、図書館に行ったら、ハナ・ホームズ著『小さな塵の大きな不思議』(岩坂泰信監修、梶山あゆみ訳、紀伊国屋書店)という本が目に付いた。

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2005/04/03

内田春菊著『息子の唇』

 小生は内田春菊ワールドが好きなのだろうか。書店でも、目新しい女性作家の本は一度は買って読むが、二冊目に手を出すことはめったにない。その例外の一人が、内田春菊であるという事実はある。
 漫画の本も、つい、何冊か買ってしまったし、文庫本も(さすがに単行本を買うほどのファンじゃない)『ファザーファッカー』(文春文庫刊)『やられ女の言い分』(文春文庫刊)『口だって穴のうち』(角川文庫刊)と買って読んできた。既に全て紹介済みである。
 今更、彼女の紹介を小生がするまでもないだろう。
 ただ、比較的最近の作品集である本作は、内田春菊的男性非難の度合いがわりと薄れている。もしかしたら彼女は、男性関係において安定期にあるのではないかと憶測されたりする。
 勿論、『息子の唇』は小説であり、小説に登場する女性の語り手は(なかには男性が語り手となっているものもある)、決して単純に内田春菊本人に重なるはずもない。が、小説の全体的雰囲気として、何となく今までの辛らつさが薄れているように思える。
 男性の語り手という形で「若妻にやる気をなくさせる方法」とか、「太れ僕の料理で君よ」とか「働く妻にやる気をなくさせる方法」なども、多少なりとも自立志向があり男性に対しても尽くす気がある女性にとって、なにがうんざりする男性の態度なのかを逆側から映し出すという手法であり、実際には男性批判の小説なのだが、そうした工夫をすること自体に、何かゆとりのようなものを嗅ぎ取ってしまうのだ。

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三木成夫著『人間生命の誕生』

 小生の敬愛する三木成夫氏の著を読み始めて10年ほどになる。何処かの書店で名著『胎児の世界』(中公新書刊)を見つけ、ざっと読んで、これは間違いない本だと直感し、即、購入し、一気に読んだ。
 その頃、小生は窓際族で精神的にも瀬戸際にいた。会社ではもう身の置き所がないことは分かっていたが、さりとて自分に身の振り方を考える知恵などない。
 92年の頃には、一応は役職にありスケジュールの押し詰まった仕事を一人で抱えて、毎日遅く帰宅し、夜、寝入ろうとしても心臓が異常な動悸を打って苦しく、眠れない、そんな日々が続いた。
 もともと生活力のない人間だったが、それでも根気のよさのようなものがあって、ひたすら一人で耐え忍んでいた。何を耐えていたのか、自分でも分からない。
 とにかく生き延びることのみを考えていたのかもしれない。
 そんな頃に上掲の本を見つけたのである。胎児の世界…。

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シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常』

 リチャード・E・シトーウィック著の『共感覚者の驚くべき日常』(山下篤子訳、草思社刊)を読んだ。
 本書については、小西聖子氏(東京医科歯科大学難治療疾患研究所被害行動学助教授 平成5年より同大学犯罪被害者相談室でカウンセリングを実施)によるがあるので、それを参考にしてもいい。
 まず、共感覚とは何か。
「共感覚とは、ある刺激を受けたとき、本来の感覚に他の感覚が伴って生ずる現象で、印刷された言葉や数字が色となって感じられたり、香りが形を伴ったり、話し言葉が虹色に見えたりする。」
 引用は下記のサイトから:
言葉や音に色が見える――共感覚の世界
 小西聖子さんの評にもあるように、「共感覚は直接的感覚で、自分で選択することはできない」
 何かの色を見ると、必ずある決まった形や色や音を思い浮かべてしまう。それは、強制的にそうなってしまうわけで、決して、当人は比喩表現をしているわけではない。
 実感を述べているのだ。
 その実感を言葉で表現するのは難しいので(実際に表現すること自体が難しいということと、そうした共感覚を持つ人は少ないという意味で)、常識的な感覚を持つ人には、奇矯な表現、衒った比喩を駆使しているかのような誤解を受けやすい。
 従って、従来は精神科や神経科へ相談に行っても相手にされなかった。何か精神的な問題を抱えているか、でっち上げているかとさえ思われたりする。何故なら、最新鋭の機器を使って検査しても、身体的な異常も徴候も何も見つからないので、治療の施しようがなかったのだ。
 あるいは、その前に、理解も診断も叶わなかったのである。
 音韻と感覚というと、すぐに思い浮かべるのは、アルチュール・ランボーあるいはシャルル・ボードレール、という人がいるかもしれない。小生もその一人だった。尤も、シトーウィックによると、ランボーやボードレール(詩『照応』)が共感覚の持ち主だったかどうかは分からないという。

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安達 正勝著『二十世紀を変えた女たち』:シャネル

 安達 正勝著『二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ』(白水社刊)を読んでいる。
 キュリー夫人など、他の女性達のことは、別の機会(があったら)触れてみたい。
 この四人の女性達、世界の中から著者が選び出したのかと思ったら、そうではなく、二十世紀のフランスから選んでいたのだった。キュリー夫人がフランス…。勿論、ポーランドの出身である。が、活躍したのはフランスだったのだ。
 四人が四人とも興味があるが、今は、シャネルの章を読んでいるので、今日は彼女をちょっと採り上げたい。
 といっても、ファッションにもド素人の小生、ファッションについての薀蓄を語ろうというのではない。それでは騙りになってしまう。とりあえずは、彼女の人生と発想法に焦点を合わせる。
 ココ・シャネルについては、ネットで十分過ぎるほどの情報を入手できる。
 例えば、「ココ・シャネル Coco Chanel(1883-1971)デザイナー  自分を貫き通しモードの世界で女性を解放した獅子座の女」というサイトを覗くのもいいし、関連書籍等の情報も豊かな「ファショコン通信 」の中の「シャネル:CHANEL」を覗くのもいい。
 あるいは、シャネルの表舞台への登場の契機ともなったベル・エポックなど、もう少し突っ込んだ形でシャネルのことを知りたいというのなら、またしても、「松岡正剛の千夜千冊『ココ・シャネルの秘密』マルセル・ヘードリッヒ」を覗くに如くはない。
 今は、松岡正剛のサイトからの参照などはしないが、ただ一点、「日本のお姉さん、おばさんたちがシャネラーになったのは1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルの主任デザイナーになってからのこと、それ以前はそんなことはおこりっこなかったはずである」ということ。
 つまり、今のシャネラーのシャネルではなく、あくまでココ・シャネルの目指したものに関心の焦点を合わせたいのである。

 ここでは、上掲書からの引用で、彼女についての全般的なことを示すに留める:

続きを読む "安達 正勝著『二十世紀を変えた女たち』:シャネル"

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板谷 利加子著『御直披』

 今年三月、ある事件がテレビ・ラジオ・新聞ほかのマスコミを賑わした。事件だけだったら、悲しいかな有り触れすぎていて、普通だと話題にもならなかった。
 その事件とは、「知人男性を車のトランクに監禁するなどし、逮捕監禁致傷罪に問われた元会社員神作譲被告(33)が15日、懲役4年とした1審・東京地裁判決を不服として控訴した。 」
 これだけの犯罪内容だったら、荒んだ日本社会においては日常茶飯事だし、敢えて採り上げるのも躊躇う。
 が、「神作被告は1988年の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の準主犯格(犯行当時、17歳)だった」という点が、他の事件とは様相をまるで異にさせているのだ。
 この事件の記事は、既にリンクから外されてしまったようで、データが表示されない。犯行内容は以下:

 知人の男性が、好意を寄せている女性と交際しているのではないかと思い込んで、男性を脅した。この際、女子高生殺人事件を持ち出し、「おれは少年の時に10年懲役に行った。女を監禁した」とすごんだ。さらに、同5月、東京都足立区の路上で、この男性に「女を取っただろう」といいがかりをつけ、車のトランクに押し込んで、埼玉県内のスナックで約5時間監禁し、暴行を加え、約10日間のけがをさせた。
 検察側は、犯行の際、男が被害者の男性に対し、コンクリート殺人の当時の様子を笑いながら話したり、「事件で警察官や検事を丸め込むノウハウを学んだ」と言っていたと指摘しました。
                           (転記終わり)

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の「経過
 この犯行の「詳細

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」は、犯行内容があまりにひどすぎる。だからこそ、社会問題化されたのだし、ワイドショーなどの恰好のネタにもなっている。
 けれど、日常茶飯事のように起こるレイプ事件の被害者の感情は、あまり語られることはない。
 その前に、魂の殺人とも称されるレイプの被害者の心情は、男には理解しえないのかもしれない。
 別窓に示す書評エッセイ(原題:「『御直披』という言葉に篭められたもの」)は、「02/03/31」に書き、「03/02/23」にはホームページにアップしたもの。
 何も「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のような猟奇的な蛮行の被害者ばかりの心情が悲惨なのではない。マスコミでは猟奇ネタでないと、殊更採り上げないほどに感覚が麻痺しているのではないかと思われる。この場合、麻痺しているのは報道に携わる側だけではなく、報道を求める側も麻痺してしまっているのではと危惧する。
 多くは泣き寝入り(あるいは自殺)に終わるレイプ被害者の心情の一端を垣間見ておく必要があるのではないか。
 特にレイプ事件の場合、敢えて告発すると、所謂、セカンドレイプという現実が待っているとされる。
 原文は3年前に書いたものであり、注記も2年前のもの。今なら、多少は違う書き方をするかもしれないが、できるだけ引用を多めにと心掛けて書いたこともあり、敢えて公表当時のまま、ここに転載しておく。

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