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2005/04/23

秋山 弘之著『苔の話』(1)

 昨日から秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めている。図書館で書棚をざっと眺めて回っていて、パッと目に飛び込んできたので、即、手に取った。
 それほどだから、小生は苔に興味がある…のかどうか分からないが、既に手には借りられる冊数の本を抱えていたのに、一冊を棚に戻して本書を代わりに借りることにしたほどだから、その行動からすると、興味がないとは言えないはずなのである。
 読み始めているといっても、車中での待機中の齧り読みなので、まだ冒頭の辺りをうろついているだけだが、でも、楽しみつつ読めている。自宅では、スティーブン・レビー著『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)を読み出してしまったので、『苔の話』は車中で読みとおすことになりそうである。
 ちなみに『暗号化』は、「ハッカーに関する本などで有名なサイエンスライターのスティーブン・レビーが、インターネット時代の暗号技術を取り上げて、一般の読者向けに解説した、全体で500ページ近い大部な本である」ということで、エシュロンも出てきたりして、ひたすら好奇心で読んでいる。

 苔というのは、一般的にはそれほど人気のある対象ではないのだろう(と思われる。確かめたことはないので、断言はできない。もしかしたら、日本人だと密かに愛着して方が案外と多いのかもしれない)。
 苔など、下手すると、黴(かび)や錆(さび)の仲間扱いされかねない(掌編「黴と錆」参照)。
 が、日本のような湿気の多い、山も木々も多い土地柄だと、ともすると花や木々以上に馴染みのある生き物と言えるかもしれない。
 そもそも、「苔」という漢字自体が、苔の性質を表しているような気がする。小さくて目立たず、その存在を花を咲かせたりして大袈裟に自己主張するわけではない…そう、植物としては雑草と比べてさえも、とても無口な存在なのだ。クサ冠(カンムリ)にムクチと書いて「苔」と、名は体を現しているわけである(無論、これは小生の戯言なのだ。読んで、コケた方もいたりして)。

 大急ぎで付言しておくが、「苔」は春の季語ではない。あくまで、たまたま「苔の話」という本を読んでいるので、せっかくなので、ちょっとメモ書きだけしておこうと思い立ったまでである。
YS2001のホームページ」から、苔関連の季語をピックアップしてみる。
「苔茂る(こけしげる)」という夏の季語があり、「梅雨の頃に一段と色合いを増し、樹木の緑に映えて美しい苔」だという。「苔清水(こけしみず)」という夏(時候)の季語もある。「苔の花(こけのはな)」という「苔類などの隠花植物の胞子を花にみたてたもの」といった夏の季語もある。これには、「花苔(はなごけ)」という別名もあるとか。
「苔桃(こけもも)」という夏の季語で、「ツツジ科の常緑小低木」があるかと思えば、「苔桃の実(こけもものみ)」という秋の季語もある。
 さらには「青苔(あおごけ)」という「青々と茂った苔、また、その花」といった夏の季語もあるようだ。
 また、「夏の季語(自然編-種類順)」を覗くと、「苔滴り」という夏の季語があることを教えてくれる。「滴る(り) 山滴り」などの類語があり、「夏、崖や岩の苔を濡らして、滴り落ちる清水」を表するのだという。
 せっかくなので、「季語の風景」から「夏の霧 黄滴のなか 宿る小宇宙 」と題された素敵な画像(写真部・河村 道浩)とエッセイなどを覗いてみるといいかも。

「霧が流れてきた。樹間のあちこちから、フワッと、突然に出てきたようなそんな不思議な現れ方だった。あたりは白っぽい緑の紗幕(しゃまく)となり、やがて白一色の世界となった。振り返っても、何も見えない。湿った空気の冷たさに皮膚が震えた。
 霧は、だが、意外に早く流れ去った。そのあとふと気付くと、倒木の苔の中に黄色い小花が咲いていた。ヒメレンゲの仲間らしい。花びらや赤い蕊(しべ)のまわりにたくさんの細かな水滴が見え、その一つ一つに森の木立が映っていた」と、さすがに山崎しげ子氏の文章は味わい深い。

 苔というと、苔寺を即座に連想される方も多いかも。苔寺とは、行基の開創と伝えられる
古刹西芳寺の別名である。世界文化遺産に指定されているとか。「約120種の苔が境内を覆い、緑のじゅうたんを敷きつめたような美しさから苔寺とも呼ばれる」のだという。
 こうした古刹の庭園を見ると、庭の美しさは木々や花々ばかりではなく、案外と、この緑の絨毯の故にこそ、床しさと美しさと落ち着きを漂わせてくれるのかもしれない。

 さて、秋山 弘之著『苔の話』に戻る。まだ、さわりしか読んでいないので、本書の中身に触れるつもりはないが、ただ、読み始めていいなと感じさせたのは、冒頭の「はしがき」である。
 この「はしがき」を読むだけで、中身への期待を抱かせてくれる。苔という馴染みがあるといえば、時にうんざりするほど馴染みがある、けれど、その生活史や生態ということになると、ほとんど知らない世界について、詳細に薀蓄を傾けられたりすると、それまでの関心が急に萎えたりする。
 でも、「はしがき」の文章を読むと、読みやすさ、つまりは叙述される内容へ読者を誘う上での配慮も行き届いているのではと思わせてくれるのだ:

 ものの見方や心の感じ方が、育った環境に影響されるのだとしたら、「日本人」の感性は、川や山といった命を持たないものばかりでなく、そこにいる自然の生き物たちとの関係にそのいしずえがあるにちがいありません。そしてすべての生き物に、安住の住処(すみか)と命をつなぐ食物を与えているのが植物なのです。森や草原といった広がりを持った環境を見るとき、まず初めに目に映るのは、木や草、そしてシダといった体の大きな植物たちにちがいありません。しかし、腰を下ろしてじっくりと地面を眺めるならば、ずっと小さいのだけれども、実に不思議な魅力に富んだ苔たちの世界がそこに広がっていることに気づくことでしょう。
 意識しないと気づかない世界。そう、ゆっくりと落ち着いた気分であることが、苔とつきあううえで大切なのです。一度この感覚を得られれば、道端にも、街路樹の幹にも、校舎の屋上にも、その目で見てみればあちらこちらに苔がいることに気づきます。ふだん私たちは彼らをただ見過ごしてしまっているだけなのです。それは苔が、ほかの植物たちと比べてずっと小さな体をしていることが理由なのですが、実は苔が持つ数々の不思議な性質も、この体が小さいということに由来しているのです。細胞の表面にちりばめられた不思議な模様にも、また朔(さく)の縁取りの構造の妙と、胞子を飛ばす際の実に理にかなった絶妙な動き。はっと驚かされる工夫が、小さな体のあちらこちらに秘められています。それはあたかもコンピュータの集積回路のようです。残念ながら人間の目ではちょっと倍率が足りませんから、詳しく観察するには虫眼鏡が必要なのですが、安いものでも大丈夫。これ一つあればぐっと世界が広がってゆきます。
 苔を求めて苔庭を訪れるなら、梅雨の時期にかぎります。たっぷりと体中に水を染み渡らせ、いきいきとした苔たちが、濃淡実にさまざまな緑の色で、しっとりと雨に打たれています。どんよりとした空の色も、かえって苔の魅力を増すようです。夏の盛り、晴天の日が続くと、見かけがすっかり変わってしまいます。干からびてしまし見るからに哀れな姿をさらしているのですが、実はここにこそ、地球の歴史の中で苔が苛酷な環境を生き延びてきた秘密が隠されているのです。
                            (転記やめ)

 以下、「はしがき」の全文を転記したいが、そうもいかないだろう。
 これだけ読むだけでも、掴みはOKである。

 話は錯綜して申し訳ないが、コケルという時の「コケ」は「苔」と何か関係があるのだろうか。例によって「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」を引いてみても、「転ける/倒ける」であり、「(1)安定を失って倒れたり転がったりする。ころぶ。(2)あまり良からぬことをする。(3)女が男に体を許す。(4)芝居が当たらず客が不入りになる。」とあるばかりで、苔との関連を認めてはいない。関係がないから認めないのか、沽券に関わるから、本当は腐れ縁があるにも関わらず、知らん顔を決め込んでいるのか、小生には判断が付けかねる。

 では、「コケにする」という時の「コケ」は「苔」と関係があるか否か。同じく、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」を引いても、「大辞林(国語辞典)内に該当する項目が見つかりませんでした」となるばかりである。
 もしかしたら、小生が上で疑うような言動を吐いたから、気分を害してしまったのか。
 困った時の「語源由来辞典」で調べてみると、「こけにする」は、「虚仮にする」と表記されるのであり、「馬鹿にすること。あなどること」の意で、「虚仮にするの「虚仮」は、仏教用語」なのだとか。
 ああ、そういえば、そうだった。
「虚仮威し」も、語源・由来は同じようなもののようだ。
 辞典の中を覗き回っていたら、「苔衣(こけごろも)」という言葉が見つかった。「苔の衣」に同じという。「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」には、意味は記されておらず、「―なほ袖寒し身の上にふりゆく霜を払ひ捨てても/続千載(雑上)」という歌を例示するのみ。
「けふの日や替てもやはり苔衣」(一茶)や「浦風にわが苔衣ほしわびて身にふりつもる夜はの雪かな」(増基法師)などの句や歌がネットでは見つかるが、どうやら「「苔衣」とは、脈絡によって「喪服、僧服、法衣」を意味するようだ。
 お茶杓の銘(6月・水無月)にも「苔衣」があるらしいが、ここまで来ると収拾が付かなくなるのでやめておく。

 最後になるが、「苔の話」を読んでいたら、「マン盆栽パラダイス」なるものがあることを知った。マン盆栽とは、フィギュア (人形)と、盆栽鉢を使うことが約束ごとのミニ盆栽。これは、樹やフィギュアも大事な要素だが、苔も眼目のようである。
 要は苔とも戯れることのできる盆栽だったりするわけである。

 尚、お口直しにというわけでもないが、エッセイのサイトに「日の下の花の時」を載せた。いよいよ小生の好きなツツジの季節だ!


[本稿は季語随筆「苔の話あれこれ」(2005.04.20)からの転記です。]

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