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2005/04/03

板谷 利加子著『御直披』

 今年三月、ある事件がテレビ・ラジオ・新聞ほかのマスコミを賑わした。事件だけだったら、悲しいかな有り触れすぎていて、普通だと話題にもならなかった。
 その事件とは、「知人男性を車のトランクに監禁するなどし、逮捕監禁致傷罪に問われた元会社員神作譲被告(33)が15日、懲役4年とした1審・東京地裁判決を不服として控訴した。 」
 これだけの犯罪内容だったら、荒んだ日本社会においては日常茶飯事だし、敢えて採り上げるのも躊躇う。
 が、「神作被告は1988年の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の準主犯格(犯行当時、17歳)だった」という点が、他の事件とは様相をまるで異にさせているのだ。
 この事件の記事は、既にリンクから外されてしまったようで、データが表示されない。犯行内容は以下:

 知人の男性が、好意を寄せている女性と交際しているのではないかと思い込んで、男性を脅した。この際、女子高生殺人事件を持ち出し、「おれは少年の時に10年懲役に行った。女を監禁した」とすごんだ。さらに、同5月、東京都足立区の路上で、この男性に「女を取っただろう」といいがかりをつけ、車のトランクに押し込んで、埼玉県内のスナックで約5時間監禁し、暴行を加え、約10日間のけがをさせた。
 検察側は、犯行の際、男が被害者の男性に対し、コンクリート殺人の当時の様子を笑いながら話したり、「事件で警察官や検事を丸め込むノウハウを学んだ」と言っていたと指摘しました。
                           (転記終わり)

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の「経過
 この犯行の「詳細

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」は、犯行内容があまりにひどすぎる。だからこそ、社会問題化されたのだし、ワイドショーなどの恰好のネタにもなっている。
 けれど、日常茶飯事のように起こるレイプ事件の被害者の感情は、あまり語られることはない。
 その前に、魂の殺人とも称されるレイプの被害者の心情は、男には理解しえないのかもしれない。
 別窓に示す書評エッセイ(原題:「『御直披』という言葉に篭められたもの」)は、「02/03/31」に書き、「03/02/23」にはホームページにアップしたもの。
 何も「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のような猟奇的な蛮行の被害者ばかりの心情が悲惨なのではない。マスコミでは猟奇ネタでないと、殊更採り上げないほどに感覚が麻痺しているのではないかと思われる。この場合、麻痺しているのは報道に携わる側だけではなく、報道を求める側も麻痺してしまっているのではと危惧する。
 多くは泣き寝入り(あるいは自殺)に終わるレイプ被害者の心情の一端を垣間見ておく必要があるのではないか。
 特にレイプ事件の場合、敢えて告発すると、所謂、セカンドレイプという現実が待っているとされる。
 原文は3年前に書いたものであり、注記も2年前のもの。今なら、多少は違う書き方をするかもしれないが、できるだけ引用を多めにと心掛けて書いたこともあり、敢えて公表当時のまま、ここに転載しておく。

原題:「『御直披』という言葉に篭められたもの」 (03/02/23up)

 一昨年の秋のことだった。近所の書店に立ち寄り、車での休憩時に読める軽めの本を探した。休息といっても細切れにしか取れないので、じっくり読めるわけではないし、休憩の大半が夜になるので、十分に明るいとはいえない室内灯でも読める手軽な本となると、どうしても、エッセイの本を探すようになってしまう。
 すると『御直披―レイプ被害者が闘った、勇気の記録』(角川文庫刊)という見慣れない聞き慣れないタイトルの本が目に飛び込んできた。
 『御直披』って何だ?
 早速、棚から抜き取って手にしてみた。
 すると、筆者として神奈川県警察本部性犯罪捜査係長 板谷利加子とある。サブタイトルには、「レイプ被害者が闘った、勇気の記録」とあり、帯には「傷ついたレイプ被害者と、彼女を支えた女性刑事との心の交流」とある。
 裏表紙には、
「レイプは魂の殺人だ。それを公にできず、人知れず苦しんでいる被害者は、数知れない。
そんな中、「御直披」(あなただけに読んでいただきたいのです。)と記され、著者の元に届けられた一通の手紙。それは傷ついた被害者が、犯罪に立ち向かおうとふりしぼった勇気の一歩であった……。
性犯罪捜査官の著者に支えられ、そして共に闘い、犯人に対して強姦罪としてはまれにみる有期最高刑・懲役20年の判決を勝ち取った被害者の魂の軌跡と、著者との胸を打つ心の交流を綴った、感動のノンフィクション」とある。

 御直披とは親展と同じ意味を持つ言葉なのだ。それを敢えて御直披と記すということは、つまり(あなただけに読んでいただきたいのです。)という意味合いが篭められているということ(そして被害にあった女性が相当に教養の深い人だということをも)示しているわけである。
 当然、被害者の身元は伏せられている(一応、文中では、松井とされているけれど)。被害者が最初に刑事に送った手紙を読むと、その女性は本人の手紙によると「私は二十六歳、独身で、現在ある大手企業に勤務しております。高校卒業後富山から上京し、都内で一人暮らしをしています」と記されている部分に小生は、一瞬、釘付けになった。実は小生は富山出身の人間なのだ。そしてこの女性は26歳である。小生の娘(自分にはいない)の年齢だったとしても、可笑しくはない年齢なのである。
 この二つの点で、ちょっと身につまされるような実感を覚えつつ、読み進めることになった。富山という古臭い、閉鎖的な風土性、狭い世間、何よりも後ろ指を差されることを恐れる気質。今も暗然と貞操観念なるものがある年齢以上の男どもの間には鎮座している…。
 彼女が会社の事情もあり、女としての立場もあるが、何より田舎の両親のことを思うと告訴は論外と考えるのが普通なのである。冬の重く垂れ込める陰鬱なる空に魂を静かに摩滅させ、埋もれさせていくしかないのだ…。
 しかし、考えてみれば身元が伏せられているわけで、富山の女性であるかどうかも、虚構なのかもしれないのだ(では、なぜ富山にしたのか、理由が分からなくなる)。

 さて、女性刑事との女性の手紙を通じての交流は、実際に読んでいただくしかない。二人の交流の間に女性刑事である板谷氏は母親を亡くすことになる。それでも二人は交流を絶やさない。犯罪は立件され男は重い刑を科せられる。
 だからといって、女性の心の傷は癒えるわけもない。
 本書の中の最後の手紙では、女性は新たな年に向けて気持ちを入れ替えようと、田舎の実家にふと帰ってみたことを書いている。

「最初に愛、そして躊躇、逡巡、好奇心、羞恥、美、歓び、快楽、それが一転して暴力、恐怖、憎悪、怒り、悲哀、嫉妬、苦痛――。
 お正月に実家に帰ってきました。雪の積もる神社の階段を用心深く一歩一歩登りながら、一足ごとに、こんな言葉を思い浮かべていました。残りの二段のところで立ち止まり、「屈辱、復讐」と口に出しながら大きく息をして、自分の足元から目を上げれば、そこには子どものころに遊んだ境内が、雪のなかに横たわっています。
(略)
 男の人がそばに近寄ってきたときの身の毛もよだつほどの気持ち悪さというものから、あんなことはもう自分にはいらないという決意、どんな恋愛小説や映画を見ても、そういう部分に接するたびに湧き上がってくる嫌悪と悲哀。
 確かに私たち強姦被害者の前では、人生に存在する扉のうち、一つの扉が確実に閉じられてしまったのです。(略)
 郷愁と、新たな年に向けて心も気持ちも刷新するために帰ってきた故郷でした。けれど、そんな表面的な決意はたったひとつの出来事によって覆されてしまいました。
 (略)
 初めて人を好きになったのもこの街でした。(略) 一度の強姦、たった一度無理矢理犯されただけ、早く忘れてしまいなさいと言うけれど、あれが忘れられる経験でしょうか。なにかあるごとに電流のように流れるあのときの映像、二人の男性に交互に犯され、見ず知らずの男性の、近づくことさえ嫌な男性に身体中を触られ、フェラチオをさせられ――、露悪的になっているとお思いでしょうか。
 けれど、私はあれ以来新聞などで、強姦の記事を読むたびに、そのあまりの実態のなさに、これは違う、こんなものじゃないとの憤怒に襲われるのです。マスコミの記事を責めているわけではありません。その実態を知っている私には、その記事の向こうにある現実がまざまざと見えてくるのです。
 (略)
 心機一転のつもりで帰ってきた実家でした。家族の温もりのなかに身を丸めて浸かっていたい、こう思って帰ってきた実家でした。けれど守られているとの安心感もつかの間に過ぎませんでした。
 夜、歯を磨いている私の背後でバタンと音がしたとき、咄嗟に「しまった」との思いが身体を貫きました。いえ、その前に、背後にある風呂場の扉が開く気配を背中に感じたときにはもう予感を感じていたのかもしれません。洗面台の大きな鏡に父親の、裸の父親が映っていたのです。目の前に見る男性の裸。それが目に入ったとき、私は歯ブラシを持ったまま、その場にしゃがみ込みそうになるのをかろうじて抑えていました。
 父親も男なのだ。
 当然といえば当然の認識に、大きく動揺したのです。父親も男なのだ、ペニスを持った男なのだ。守ってくれる父親もペニスを持ち、性の衝動に突き動かされる一人の男性なのだ。そのショックをどのように表現したらいいでしょうか。
 (略)
 夜中に輾転反側して、外が明るみはじめるや否や家を飛び出してしまいました。どこをどう歩いたのか、気がつくと神社の境内にきていたというわけです。神社から過去に誘われるようにして高校の前を通り、土手の道に来たころには、もう夕方近くになってしました。私はきのうのショックを、淡い、きれいな思い出で覆おうとしていたのかもしれません。
 ああ、もう帰らなくてはと目をあげたとき、いままさに沈もうとしている太陽が、白く覆われた山々と、そこを流れ落ちるようにかかっている雲を紫色に染めている光景が飛び込んできました。その壮麗な風景を見ているうち、私はこれまでにない大きな怒りに捉えられていました。なぜ私なの! なぜ私があんな目に遭わなくてはいけないの! これまで一生懸命生きてきただけなのに。私を犯した二人の男、男というもの、そして私をこんなところまで追い込んだすべてのもの、自分、そして私の周りにいるすべての人間、自然、宇宙、いま目の前にある自然――、これらすべての存在するものに対していいようのない激怒がこみあげてきたのです。
(略)
 はっと我に返ったときには、夕日は夜の暗闇に沈もうとしており、これまでの感情は嘘のように消えていました。荒波のあとの海がなにごともなかったように、おだやかに人を誘うように、ある透明な寂しさのただ中にいる自分に気づいたのです。「もう、いい」
 どこからかこんな声が聞えてきました。もういい、なにもかももういい。それは決して投げやりな気持ちから出た言葉ではなく、あらゆる執着とこだわりを含んだ混沌からやっと抽出されて出てきた一滴のしずくでした。
 (略)
 実家に帰ってよかったことがひとつだけありました。それは小学生のころのことを思い出したのです。
 小学校の夏休みの宿題に自由課題というのがありますね。自分で考えて、自分で作ったものを提出するものです。夏休みが終わると、クラスの皆は、だれがどんなものを作ったのかと興味津々だったものです。
 五年生のときだってでしょうか。男の子はラジオを作ったり模型の船、飛行機、昆虫採集、女の子は押し花や貯金箱、なかにはひとりで作ったとは思えないとても立派なものを持ってくる子もいました。そのなかのひとつに、いろんな端布(はぎれ)を組み合わせて作った人形があったのです。
 使い古した布を繋ぎ合わせているため人形の足の部分は同じ肌色でもその色が微妙に違うのです。それに洋服、パッチワークなんてシャレたものではなく、ただただあり合わせの布をはぎ合わせてあるのです。小奇麗にできた提出物のなかでその人形はちょっとした異彩を放っていました。
 明らかに自分の手で、不器用ながら一生懸命に針を刺していったに違いないその縫い目。彼女の針を刺すときのようすが目に浮かぶようでした。間違って指を突いては、少し顔をしかめて指の血を舐める。端布と端布を組み合わせては、手にあまる大きな裁ち鋏で切っていくときの真剣そうな目つき。
 小学生の私は、その人形を見たとき、自分のものでもないのになぜかとても恥ずかしい思いを抱いたものです。ほかの宿題が既成の、たとえていえばよそいきの匂いがしていたのに、その人形は手作りの、それも決してじょうずとはいえない手作りの生々しい匂いがぷんぷんしていたからです。
 でもなぜか、ほかの作品のことは忘れても、その人形の顔や表情、洋服の色合いといったものはいつまでも忘れられませんでした。
 私は、いま自分がそのときの継ぎはぎだらけの人形のように思えるのです。一度は壊れてしまった私を、一生懸命、自分が選んだ端布で、自分の力で、指に針を刺しながら繕っているのです。
 でも、その人形はどこにも売っていません。ちょっと変なところも間違ったところもあるかもしれないけれど、自分で作り直そうとしている世界でただひとつしかない人形なのです。
 平凡な結婚をして、子どもを産むことが夢でした。夕方のにわか雨にあわてて洗濯物を取り込んだり、部屋中に散らかった子どものおもちゃをため息をつきながら片付けていく、平凡な毎日にほんの少しの物足りなさを感じながらも、溢れだした洋服の収納に頭を悩ませる、そんなささやかな夢が、一番の望みでした。そんな小さな夢さえ木端微塵に壊されてしまいました。
 ほかの二十六歳の、傷つけられることのないまっさらな女性には、私はもう戻れません。でも小学生の私が、ちょっと変わったところがあるなと思いながらも、いつまでも忘れることができなかったあの人形のように、いつかだれかが心を留めてくれることもあるのではないか。
 この先、私は愛する男性に巡り会えるのか、会えないのか、それはわかりません。だれかに巡り会ったとしても、スムーズには進まないのかもしれません。
 巡り会ったときからこそ、本当の苦しみが始まるのかもしれない。
 でも、それもあれも、そのときになってみなければわからない。でも、私は自分を、このさまざまな想念で継ぎはぎだらけになった自分を誇りにしたいと思います。さまざまな端布で直していきながら、いつかは本当に、だからこそきれいだと思えるように、何度でも繰り返し作り直していこうと思っています。
 それができたら、もう一度ささやかな夢を、万が一の可能性かもしれないけど、再び夢だけでも見られるようになるかもしれません。すべてが夢を見ることから始まるように、私もそこからまた始めてみようと思ってます。
 (略)
 私にできることがありましたら、なんなりと申し付けてください。またどんなに忙しくともお身体だけは大切にしてください。
追伸 今回の事件の発端は私だったんだということで、自分を責めていることに対し、お姉ちゃんは思いやりにあふれた言葉をかけてくださいました。
 私が、こんな私でもできることがあるはずだと、ずっと考え続けています。被害を受けたものだけがわかることもあるはずだ。私が苦しくて、苦しくて何も手につかなかったとき、誰かたった一人でも、この気持ちをわかってほしいと痛切に願ったことがあります。ほかの被害者に対し、私は、そんな一人になれるかもしれないと思いました。
 被害者に向けての手紙を書きました。もし、誰か一人でも私の手紙を必要としている人がいれば、お姉ちゃんの判断により、彼女の渡してほしいのです。
 いまの私にできることは、これくらいしかないのです。
                              佳恵
 利加子お姉ちゃんへ                         」

   本書の末尾には、彼女が書いた<苦しんでいるあなたへ>と題された「手紙」が掲載されている。
 ちょっと長い引用となったが、これでも彼女の最後の手紙の半分なのである。その端折った部分には、高校時代の彼女の初恋が切なく描かれている。
 こうした事件、そしてその被害者である女性には、語るべき言葉はない。特に男としては、ずるいかもしれないが、黙りとおすしかない。男は、ともすると性的な(盲目的な)パワーの噴出による暴発寸前の日々を特に若いころには送る宿命を負っている。少なくとも健全なる男としての欲望が漲っている男性なら、誰しも寝苦しい日夜を輾転反側しつつ過ごした経験を持っておられるに違いない。
 ほんの一歩、道を外れたら、それを押し留める自制心というのは、なきに均しい。だから、大概の男は、何かしら情熱を振り向ける対象を懸命に探すのだし、それがなければ自虐的なまでにゲームや勉強や競争や反抗に喧嘩に走る…(勿論、性への情熱ばかりが原動力じゃないんだろうど)。
 とにかく女性への性的欲望を、まるであっちこっちからいきなり突き刺さってくる熱い槍をかわすように、身を翻し、身を捩り、なんとか鎮撫にあい努めるわけである。
 だから、強姦をする奴は男として掟破りをした奴ということになる。みんななんとか我慢しているのに、女性を不当な形での圧伏から守ろうとしているのに、勝手なこと、女性の人間性を人格を傷つけることをしやがってと思う。
 そうは言いながら、同時に、どうしようもない性的衝動を感じていることを否定したら、それは男として偽善になるか、たまたまあまりにも女性に持てるか、女としての女性にそもそも関心がないかなのである。
 そのギリギリのところで、なんとかしのぎつつかわしつつ頑張っているのだが、疲れるのだね。絶えず神経をすり減らしているようで。
 それにしても、夜中にこんな文章を懸命に書き写す自分って何なんだろうと思ってしまう。
 ま、一度は本書を御一読願えればと思います。

                                          02/03/31 03:46

 [こういう素材を前にすると、非常に戸惑うものを覚える。レイプは絶対に許せない犯罪だと思う。自分に娘が母が恋人がいるとして、その誰かがレイプされたら…、などとは考えるのもおぞましい。が、これは絵空事ではなく、また何かのお話のための空想でもない。現実に起きた、起きている、起きていくだろう現実なのである。
 が、一個の平凡な男として、自分は現実にはしない。また、幸いにもしなくて今日に至ることができた。きっと、これからもしないに違いない。
 けれど、感情として、あるいは男の肉体的欲望に向き合った時、つい衝動的になり場合によっては、機会があったら、どんなことを仕出かしたかしれないとは思う。ギリギリのところでレイプないしレイプ紛いの行為をしなくて済んだ、沸騰する欲情の滾りに我を忘れることはなくて済んだというに過ぎないのだ。
 つまり、特に若い頃はもうどうなってもいい、難しいことは後で考える、とにかくやりたい! という念、欲望一色になってしまいがちなのだ。少なくとも自分の経験からすると、そうだったことを否定しようがない。滾る立つ欲情に眠れぬ夜々を過ごした男性は多いのでは。
 自分はたまたまセーフだったよ、ということなのである。ああ、あの時、あと一歩で一線を踏み越えそうになったけれど、なんとか思いとどまることができた …という、冷や汗モノの思いに多くの男は駆られたに違いないのだ。
 少なくとも健全な肉体を持つ男ならば。そんな度し難い欲情に駆られなかった奴は、きっと肉体的には男ではないのだ。
 誤解しないで欲しいが、大概の男は、理性においてはやってはいけないと重々分かっている。しないし、しなかったはずである。が、欲望はある。時に誰彼構わず沸々と湧く肉の滾り、肉の雄叫びは、自らの肉体を引き裂くか、女(こんな時は女性を、という表現は似つかわしくない…。自分は雄、野獣であり、相手は雌、肉欲の対象、扇情をそそる愛欲の熱い源泉なのである)を押し倒し、抵抗されたらぶっ叩いてでも己を燃え上がらせる真っ赤な溶岩のような劣情を遂げたくなってしまう。
 それを懸命な工夫というのか誤魔化しで情熱を他へ逸らそうとする。持てる男なら、女性に恵まれてその女性相手に情熱を注ぐこともできるだろう。が、持てる男ばかりとは限らない。また、持てる男であっても、恋の相手としての女性と欲情をそそる女とは違うのである。
 多くの男は、Hな写真やビデオや映画などを見て、その場しのぎをする。あるいは妄想を逞しくする。その想像の中にはレイプさえ混じっている。レイプに限らず空想の限りを尽くす。文学的想像力があれば、サドばりな創造に走ることもあるだろう(めったにそんな才能に恵まれることはないようだ)。
 そう、したい! けれど現実にやってはならないことを妄想の世界の中で思いを遂げてしまうのだ。その実、レイプされた女性への同情も決して嘘ではない(無論、多くの男にレイプされる女性の心情が分かるはずがないのだろうが)。
 現実にやってはならないこと、だから、実際にしないこと、けれど、想像の中ではつい奔放に羽ばたいてしまう、それが男の一面として厳然としてある。矛盾に引き裂かれているのだ。(03/02/23記)]


[ 一つだけ、男性の方の感想文を挙げておく:「think or die 『御直披』
 また、関連する本として、緑河 実紗著『心を殺された私―レイプ・トラウマを克服して』(河出書房新社)やジュディス・L・ハーマン著『心的外傷と回復』(みすず書房)などを挙げておく。後者は、PTSDという観点が一人歩きしてしまった側面は割り引いておく必要があるとしても、今尚、読むに値すると思っている。
 ネットでは、性暴力を許さない女の会編著『サバイバーズハンドブック--性暴力被害回復への手がかり』(新水社)や、小西聖子著『犯罪被害者の心の傷』(白水社)が推奨されているが、小生は共に未読である。 (05/04/03)]

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

トラバありがとうございます。

ここだけの話ですが、今、リストカット癖のある少女とメールを交換しています。

男と違って、女性は抑圧された衝動を自分自身に向けることが多いようです。お互いに同じ人間だということを踏まえつつ、性差への理解も深めていかなければならないと思っているこの頃です。

また、気軽にトラバしてください(^_^)/

投稿: マキト | 2005/04/04 01:23

マキトさん、来訪、ありがとう。pfaelzerweinさんのサイトで貴サイトのことを知りました。小生にも関心のある話題が豊富です。
男と女の問題は、距離感も含め永遠の課題なのでしょうか。
これからも貴重な情報をお願いします。

投稿: やいっち | 2005/04/04 11:35

>少なくとも健全な肉体を持つ男ならば。そんな度し難い欲情に駆られなかった奴は、きっと肉体的には男ではないのだ。

「俺だけじゃなくて皆もそうだ」というものすごい自己正当化に虫酸が走りました。
レイプ犯は、「正常な」性欲を抑えきれなかったアンラッキーな男ではなく、
「異常な」加害欲を持っている狂人だと思います。
たまたま我慢できなかったから、という理由で
女を殴る蹴るして、あなたは本当に勃起できるのか?
ビデオのレイプシーンを見て勃起するのとは訳が違う。
レイプは暴力、傷害であることをあまりにもわかっていない。

あなたみたいな奴、死ねばいいのに。
と私は心から思いますが、
それでもあなたを殺そうと心からは思わない。
あなたが言いたいのもこういうことならば、まだわかります。

レイプが「男と女の問題」だって。
「本能」とか「性差」によって
女は犯されるのか?
レイプってそんな問題なんですか。

投稿: | 2009/01/04 18:10

匿名さん

もっと文章の全体を読んでもらいたい。

衝動があるからといって、男の掟を破った奴のことなど、一切、正当化はできないし、すべきでないのです。

「少なくとも健全な肉体を持つ男ならば。そんな度し難い欲情に駆られなかった奴は、きっと肉体的には男ではないのだ」としても、碌でもない行為に走った奴は、断固、卑劣な奴として社会から排除すべきなのだと思います。

「たまたま我慢できなかったから、という理由で女を殴る蹴るして、あなたは本当に勃起できるのか?」なんて、そんなことは書いてないし、何か批判の矛先が見当違いに思えます。
そんな碌でもない奴など死んでしまえって気持ち・考えは本稿を書く小生の前提です。
大体、そうでなかったら、敢えてこんな問題に言及などしないしね。

世の大半の男性は、情熱を撓め、社会において健全な男女関係、人間関係を築くよう、努めていると思うのですが、どう思われるのでしょう。

とにかくまず文章の流れや趣旨を理解願いたいのですが。

まあ、それはそれとして、誤読・誤解される余地が本文にあったのかと読み返してみますね。

最後に、このようなコメントを戴いたことで、ああ、小生の小文がこのような誤読をされてしまう余地があることを知ったことは収穫だと思っています。
こうしたコメントを戴かないと、誤読・誤解がずっと一人歩きしているままだったでしょうし(もしかして、レイプ野郎を多少なりとも小生が正当化していると誤解したまま…という人が過去にもいたのか)。

その意味で、敢えてのコメント、感謝しております。

投稿: やいっち | 2009/01/04 19:53

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