白洲正子著『両性具有の美』
本書(新潮文庫刊)は小生が読む白洲正子女史の本としては三冊目である。
最初に読んだのは、『西行』(新潮文庫刊)で、ついで、『白洲正子自伝』だった。
小説家ではない書き手で好きな人に例えばピアニストの中村紘子女史がいる。『ピアニストという蛮族がいる』とか、『アルゼンチンまでもぐりたい』(いずれも文春文庫刊)は、痛快なエッセイで、作家を名乗る方でもこれだけ達筆
で達意の文章を書ける人はいないとつくづく思ったものだ。
白洲正子女史の文章も違った意味で痛快である。明快でもある。そうした経験があったものだから、本書も楽しみに車中で読んだ。
が、なんとなく女史らしくない。あれこれ歴史上の経緯を語っているのだが、どうも、達意には思えなかったのである。
で、改めて文庫のカバー裏の著者紹介を読むと、「幼時より梅若宗家で能を習う」とある。本書を読むうちに分かったことだが、彼女はずっと能を舞いたいと願って生きてきたのだ。五十年も。その挙げ句、女には出来ないと悟る。
本書の大塚ひかり氏による解説から引用させてもらう。「世阿弥がそういう育ち方(同性愛)をしているんです。だから女にはお能は舞えないということが、私、五十年やってよくわかりました。あれは男色のもので、男が女にならなくちゃだめだ、って。精神的なものもそうだし、肉体的にもそうです」
白洲正子女史は祖父が薩摩隼人である。そのことを強く自覚している。さらに同じ解説から引用する。「私の祖父は薩摩隼人なんです。彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったんですね」
白洲正子女史を囲む群像は凄い。小林秀雄、青山二郎、川上徹太郎、正宗白鳥、梅原龍三郎、河合隼雄、多田富雄…。よく、男性陣に伍して一歩も引けを取らない女傑(御免なさい)が時折いるものだが、彼女もそうした一人なのだろうか。
なのに、男の玩具になることもない。女としての魅力がないわけではないのに。彼女は男勝りに振舞いたかったということか。酒の友、語りの友にはなるが、夜の相手とはならない。どこか男性性が根っこにあったということなのか。
その彼女が憧れるのが能の世界なのだ。
能とは何か。小生に語れるはずもない。知る人は知っているし、知らない人には無縁の世界だ。その能を芸術の域にまで高めたのは、言うまでもなく世阿弥である。
本書は、解説の大塚氏の表現を借りると、「全編、日本男色史ともいうべき一冊」なのだが、実は、最後に多くの頁を割かれている世阿弥賛歌の書なのだ。彼女が舞いたくて五十年も拘り、挙げ句には女には舞えないのだと悟る、その能の大成者である世阿弥への、女としての愚痴も含めたある意味での能への惜別の書なのである。
能は何故、男が舞うのか。その歴史的由来は複雑で簡単に述べられることではない。が、ただ、ほんの一面として実戦というか実際に武器を手に切り合う男(武士)の宿命が背景にあることは間違いないと思う。
戦場で戦うことを生まれながらの宿命として生きる男は、多くは子どもの頃から女(母親)への過度の思い入れを禁忌される。心の中ではどう思おうとも、表向きは女はそもそも無視する。女とは何かなど、これまた小生に語れる筋合
いの問題ではない。白洲正子女史の言葉を借りれば、「女人は生まれながらにして五障の罪(欺・怠・瞋・恨・怨)を背負っており、そのために成仏することがむつかしい」のだそうである。
つまり、男が戦いに生き死ぬことを宿命付けられ時、男は肉体的なもの、地上的なものの一切を睥睨すること、否、侮蔑することさえ求められる。斬られて痛いなどというのは、もってのほかなのである。そうした地上的な一切は女
性に押し付けられる。女性は大地などと持て囃されたり、逆に大地だからこそ、男どもに踏みつけにされる。女は踏まれて当然だったわけである。
常に斬り合いの果てに綺麗に名誉を保って生きるか死ぬことを考える以上、この世への未練、その象徴が女なのだろうが、そうした柵(しがらみ)は断ち切っておかなければならないのである。
女はそこにいる。影にいる。面影にいる。だけど、見てはならないし、出しゃばることを許されないし、目の前に女がちらつくと、それだけで死ぬ覚悟が呆気なく揺らいでしまうのだ。だから、徹底して女などは侮蔑する。踏みつけにする。が、踏みつけにすればするほど、女は執念深く蘇ってくる。何故なら、踏みつけにする感情は女への、大地への、生きることへの未練そのものなのだから、表の門ではピシャッと撥ね付けても、裏門では厳しく退けただけ、ズブズブグジュグジュになってしまうのである。
が、建前上、女に入れ揚げるわけにはいかない。そこに男の世界が隠然と、あるいは公然と現れる必然性があったわけである。
これはあくまで一つの側面である。能を語るには、男と女について、こんなエッセイ的に触れるには手に余る課題がある。
能の背後には宗教的な側面もある。身分差別の問題もある。武士の台頭という面もある。そして白洲正子女子が能に思いを寄せ続けたのには、特に白洲正子女史の祖父に関連する薩摩的現実も加味している。
そもそも軟弱な小生には男色の世界は分からない。別に女性に思いを寄せたって、寄せていることを表に出したって咎められる時代や風土に生きたわけでもない。特に能と関連する男色というのは、時代の必然性が生み出した無理矢理の虚構性もあるわけで(つまり生れながらにホモ的資質があってホモに走るのではないということ)、尚更、惰弱な小生に想像も理解も及ばないのは当然なのだろう。
余談だが、今年のNHKの大河ドラマは「宮本武蔵」であり、来年は「新撰組」だそうである。なんだか、武張った世界が続く。思うに、そろそろ路線を変えて、世阿弥とか雪舟とか北斎とか西行とか、そう、芭蕉とか、伊能忠孝とかを採り上げるというのもいいのじゃなかろうか。伊能忠孝一行の日本一周の旅とか、芭蕉の「奥の細道」の旅を一年掛けて描くなんて、素晴らしいじゃないか。
旧題:白洲正子著『両性具有の美』あれこれ (03/03/25 記)
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