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2005/03/27

渡辺信一郎著『江戸の女たちの湯浴み』

 渡辺信一郎著の『江戸の女たちの湯浴み―川柳にみる沐浴文化―』(新潮選書)を読んだ。
 小生の勝手な印象書評に移る前に、出版社側の宣伝文句を並べておこう。「多くの川柳や浮世絵を読み解いて物語る湯屋の実態――江戸庶民の哀感とユーモアたちこめる湯気の向こうに女性たちの姿態がみえてくる超ユニーク文化論!」「多くの古川柳と絵図をもとに、江戸の女たちの湯屋の利用と入浴の実相、女性の行水や腰湯、髪洗いの実態を明らかにした沐浴文化論。湯気の向こうに江戸の女たちの姿態が、生活が見えてくる
 本の内容を知るには、目次を見るのがいい:

 第1章 女性たちは今日も湯屋へ行く
 第2章 女性の湯具
 第3章 湯屋の仕組み
 第4章 内風呂・行水・洗髪
 第5章 温泉場へ湯治に
 第6章 その他の沐浴
 第7章 近世の湯屋と風呂屋

 ところで、カスタマーレビューということで、「 「日本特殊論」にはまらないために, 2004/05/08」と題されたレビューが「Amazon.co.jp」の本書の頁に載っていた:

巷には、妖しげな「お江戸本」が溢れているが、先般亡くなった渡辺氏や、花咲一男氏のような著者は、当時の資料を用いて最も信頼するに足る近世風俗史や心性史を提供してくれる。

近世日本の庶民は、混浴の銭湯に平気で入り、裸体を恥じなかったと、日本を訪れた西洋人らの記述から生まれた俗論が跋扈しているが、本書では、川柳を資料として、男たちが混浴でそれなりに興奮していたこと、娘たちがそれなりに恥じていたことを明らかにする。そして読物としても優れている。日本人は性に対して無感覚だった、の類の俗説を、穏やかに退ける好著である。
小谷野敦
                           (転記終わり) 

 このレビューを読んで、渡辺氏が既に亡くなられていることを知ったが(ついでながら、花咲一男氏の書かれている本の数々の面白そうなこと!)、驚いたのは、小谷野敦という名前! 
 小谷野敦……あれ、どこかで聞いた名前だ、と、ネット検索。同姓同名でなければ、かの小谷野敦御本人によるレビューということになるのだろうか。
 小生は、以前、同氏による『江戸幻想批判』(新曜社、1999年) を読んだことがある。
 この『江戸幻想批判』の性格を出版社サイドの宣伝で言うと、「『男であることの困難』(小社刊)、『もてない男』(ちくま新書)でフェミニズムに対して堂々と持論を展開した著者がおくる論争の書第三弾です。田中優子『江戸の想像力』、佐伯順子『遊女の文化史』以来、「江戸は明るかった」とか「性的におおらかだった」という「江戸幻想」が盛んですが、その言説を上野千鶴子さんなどのフェミニストまでが支持する今日の知的状況に対して、その性的自由とは強姦とセクハラの自由であり、洗練された遊郭文化とは女性の人身売買の上に築かれた悲惨なものだったと、文学、歌舞伎、落語などの体験的知識を総動員して大批判します」ということになる。
 出版社側の謳い文句ばかり使っては申し訳ない。『江戸幻想批判』については、「小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』雑感」という拙稿もある。ちょっと覗いてみてもいいかな。
 但し、雑感とあるように、書評というより、まさに雑談である。
 その雑談とは、「過日、読了した『裸女の秘技絢爛絵巻 ストリップはいま……』(谷口 雅彦著、河出文庫刊)の流れで、今、小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』(新曜社刊)を読んでいるのだが、その中で、ちょっと驚いた記述を見つけた。」とあり、その記述の内容に驚ろいたことに端を発したあれこれなのである。
 その記述とは、「…この三年ほどの間にフェミニズムのなかに生じた「売春」をめぐる価値 の転換と関係している。十年前のフェミニズムは、売春を、男による女の 搾取としてほぼ全面的に否定していた。それが今では、「性的自己決定権」 という言葉で、自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護し ていくべきではないかとう方向へと転換しつつあるのである」(p.37)である。
 拙稿は、この主張への反応として書かれたようなものである。

 どうも道草する頑固な性癖が付いていて、困る。たださえ、余談以外にまともな記述がないと思われかねないのに。渡辺信一郎著の『江戸の女たちの湯浴み―川柳にみる沐浴文化―』(新潮選書)に戻ろう。
 ちなみに、ネットで検索した限り、出版社や書店などを除いて、一般の人の書評(感想)文は小生以外には、見つけられなかった。その小生も、読みかけの印象を日記の中に書いているだけ。
 ここには、その際に、浮かれるようにして吟じた駄句を恥ずかしげもなく転記しておく:

  絵図なれば覗き放題し放題 
  春の風煽るだけ煽って知らん顔 
  春風を懐(ふところ)溜めて舞う心地 
  春風や妖しく吹いて消ゆる影

 浮世絵だとはいえ、ここまで露わな交合の絵図の数々を、あれだけふんだんに掲げていいものだろうか。確かに巷には、もっと過激なエロ画像が溢れ返っているらしいが、江戸の世に於いて、行けるところまで行ってしまっていたような印象を受ける。太平の世が行き詰まり、情念のやり場が行き着くところに滞留し、洗練され、文化の華を開いたということか。
 江戸のこうした本を読むと、江戸をエロなどと仮名表記したくなる。が、その裏側では(というか、必ずしも裏側ばかりではなく、通り沿いで堂々と)男女(男男、女女も含め)の交わりの歓喜と悲哀のドラマが演じられていたというわけである。
 但し、川柳なので、時にエロチックに、時にユーモラスに、そして、時にリアルを過ぎて、どぎつく、遠慮会釈なく表現される。本書を読んで、小生は、大部すぎて手が出せないでいる江戸川柳「柳多留(やなぎだる)」に挑戦しておかないと拙いと感じた。

 さすがに、浮世絵は転記できないが(主に、小生の技術的な問題で)、本書の中の豊富な川柳から、幾つかを掲げておこう……と思ったら、ネット検索の結果、恰好のサイトが見つかった。小生の粘り強いというか、諦めの悪い性分がここでは功を奏したというところか(小生、早速、このサイトをお気に入りに加えた)。
 ここまで読まれてきた、小生同様、諦めの悪い…じゃない、好奇心旺盛な方々はラッキーだ?!
江戸浮世風呂」という「江戸風俗で興味をもったこと、面白いと思ったことを絵(図解)にしました。スキャン画像は使わず、すべてグラフィックソフトで描いています」というサイトがあり、その中の、「『江戸浮世風呂』目次」なる頁(本書に関係するのは、特に「江戸の湯屋」かも)を覗かれると、お目当ての絵図などが拝めるのである。
 浮世絵には、関連する川柳も付せられている。たとえば、下記のような(意味合いなどは、このサイトにも説明されているが、本書を読まれると、もっと滋味深く味わえる訳である:

 猿猴(えんこう)にあきれて娘湯を上がり
 湯上りの何かほしき立姿
 柔らかで爪のとりよい風呂上がり
 色白はかくべつ目立つ洗い髪
 一風呂召せと丹前の窓
 居(すえ)風呂は娘が色気づいて出来
 行水をぽちゃりぽちゃりと嫁遣い

 尚、渡辺信一郎 (わたなべ しんいちろう)氏には、『江戸バレ句 恋の色直し』(集英社新書刊、「恋」は旧字体表記)などがある。上記したように、惜しくも既に亡くなられている。
 本書の性格だけ出版社サイトから転記しておくと、「江戸時代の後半期、正調な文化に対抗する庶民文化が花開いた。俳諧に対しての川柳、和歌に対しての狂歌などがそれである。漢字では「恋句」「艶句」と書くようにエロチックな内容の川柳を「バレ句」といった。『誹風末摘花』が有名だが、バレ句は十八世紀半ばの宝暦年間から明治時代まで一三〇年以上も続く独立した文芸運動だった。性愛へのあくなき追究と憧憬をこめた、江戸庶民によるおおらかなセクソロジー文芸のすべてを、面白く楽しく紹介する。」となる。
 これまた、面白そう。
 あるいは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などを、ゆっくり読み返してみるのも、楽しいかもしれない。

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