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2005/03/27

「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』

 本書「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫刊)には、「逃げ切れない狂気、非情の13事件」という
副題が付いている。その内容については、このサイトの説明で十分だろう。
 目次も書いてある。
 同サイトから引用する:

事件は起きた瞬間、わーっと騒がれ、マスコミが食い散らかし、そして捨てられる。情報は溢れるほど存在するのだから、マスコミはよりセンセーショナルな事件を追いかけることになり、過去を振り返る余裕はない。しかし、被害者遺族にとっては、事件は大きな傷痕を残す。当事者にとって事件はいつまでも続く悪夢なのだ。犯人が逮捕されるまで、いや、判決が出るまで。いや、判決が出てからも悪夢は続くのだ。
                               (引用終わり)

 さらに、「ここに出てくる殺人者は、もしかしたら殺人を犯す運命から逃れられなかった人たちかも知れない。なるべくしてなった殺人者がいるかも知れない。しかし、被害者たちはなるべくしてひがいしゃになったわけではない。犯罪者と深いかかわりを持っていたものもいるが、無関係だったものもいる。いったい殺人とは何なのか。それを知るには、まず事件を、事件の痛みを知らなければならない。そのためには、このようなルポルタージュが必要されている。」というコメントは的確だと思う。

 同サイトの目次を見れば気づくだろうが、多くの事件は発生当時話題になった。マスコミもセンセーショナルに採り上げた。だから、事件の内容について、時に必要以上に印象的な形で覚えているものがある。
 が、既に多くが風化しているのも事実なのである。仮に覚えているとしても、ああ、そんな事件があったな、という認識が一般的なのではないか。そもそも関心を持っていても、我々にはどうすることもできない。
 被害者の方を助けることもできないし、ましてこれらの事件の犯人の発見に助力することができるわけもない。
 同時に、悲しいかな、事件を猟奇的に捉えるような心性を自分のうちに感じたりすることがある。その心性というのは、何も事件が特異な内容の場合に限るわけではない。
 そもそも人を殺すという状況に我々平凡なる者(我々という呼称が気分を害するというなら小生と、限定してもいいけれど)が立ち至ることがない。
 が、人を殺す状況、殺して、しかも逃げ切ったり、あるいは捕まっても一定の刑期を務めて社会復帰する殺人者、という経験など、余程のことがない限りありえないし、あってはならないし、決してそうなることのないよう自分を制御することは学んでいる。
 が、世の中には数知れない殺人者がいる。中には捕まっていない奴もいる。また、殺人に至らなくとも、暴力的な振る舞いで家族や妻や知人を生きた心地のしない生活環境に追いやっている奴もいる(のだろう)。
 人を殺すという犯罪。それは窃盗や詐欺などとは性質の違う犯罪だ。ある意味で人倫の外へ食み出してしまう営為だ。赦されるのは(建前上は、刑期を果たした者と)宗教的恩寵以外にはないはずのものだ。
 人を殺した以上は罪の意識に苛まれる。少なくとも悔恨の念に囚われるに違いないと思う。そうでなくてはならないと思う。
 が、中には見つからない限りは構わないと思う奴もいるらしい。少年犯罪を経験した人間の中には、罪の意識のない奴もいると聞く。たまたま見つかり捕まったから法的社会的処罰や制裁は受けるけれども、それだけのことで、殺した相手や家族に対して済まないという念を持たない奴もいるというのだ。
 無論、心の中のことだから、小生などに真実が分かるはずもないのかもしれない。苦しんでいないように見えて、実は苦しみのどん底にいないとは誰もいえないのかもしれない。
 が、交通事故(轢き逃げ)などで逃げおおせている連中が相当程度いるのも事実だ。そうした連中は苦しんでいるかもしれないが、そうでないかもしれない。
 一方、被害者やその家族を含めた関係者の苦しみと悲しみは、計り知れないものがあるに違いない。この理不尽さ。小生が自分の身内や愛する人を殺されたり虐げられたりしたなら、どんなに苦しむか、そして犯人を憎むか、場合によっては復讐の念に燃えるかもしれない。
 が、法治国家を建前とする以上は、そうはいかない。だったら、せめて国家によって犯人を処断してほしいと願うが、犯された罪に比べて処罰の軽いこと。人権という大きな壁が立ちはだかって、殺された者(の関係者)は隠
忍自重を強いられるが、犯罪者は、余程のことがない限り、一定の年限で社会復帰が可能になる。
 この殺された者と殺した者の差異の大きさは、あまりに理不尽なのだ。
 どうしてこうなのだろう。諦めるしかないのか。為された罪に相当する処罰をと思うが、殺人に相当する罰など一体、何があるというのか。
 罪と罰。きっと、罪を犯したそのこと自体が罰であるような、そんな信仰を求めるしかないのかもしれない。犯人は、罪を犯したそのことで以って罰を背負ったのだ、と。犯人にだってきっと、良心があるのだと思いたい。
 そう、信じたい。
 けれど、殺された者の関係者は、仮に犯人が捕まってさえも、きっと奴は内心では、しめしめ、相手は死んだけど、俺は生きている、そのうち娑婆に出れば酒も呑めるし女(男)も抱ける、お天道様だって仰げるのさと、密かにほくそえんでいるんじゃないかと疑心暗鬼の虜になったりするのだ。
 結局、生きている奴が優先される。犯罪者だって人間であり人権があり、法で守られている。殺された人間は守りようがない、というわけだ。
 理屈は分かる。
 が、何度も繰り返すが、理不尽なのだ。
 一体、真実は何処にあるのだろう? 人を殺して逃げおおせている奴らの本音は何処にあるのだろう?
 一体、そして殺された者の関係者は、どこに救いを求めたらいいのだろうか?


                              (03/03/18)

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