村上春樹著『神の子どもたちはみな踊る』
小生が村上春樹の小説作品を読むのは初めてである。『神の子供たちはみな踊る』(新潮文庫刊)を選んだのは特に理由はない。
たまたま近所の小さな書店の棚に並んでおり(それは当然だ、なんと言っても今をときめく村上春樹なのだ)、でも、他にあったのは『ねじまき鳥クロニクル』の第一部と、村上朝日堂ものがあるだけだったのだ(『村上朝日堂の逆襲』は以前、読んだことがある)。
つまりはほとんど選択の余地がなかったのである。但し、平積みのコーナーには氏の新しい本があったような気がするが、まだ、彼の本を単行本で選ぶほどにファンではない。
本書がかの阪神・淡路大震災に絡む小説であることは、書評その他で知っていた。彼はまた、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件に絡み、『アンダーグラウンド』というノンフィクションを書いているが、彼がそうした現実に起きた事件に関心を持ち、かつそこに取材して小説に仕立てることもする作家なのか、という印象も持っていた。
とにかく彼は今、日本国内に限らず海外でも人気の作家なのである。どこにそんな人気を呼ぶ秘密があるのか。
ところで、小生の村上春樹に関するあやふやかもしれない予備知識は他にもある。彼がレイモンド・カーヴァーの全集を訳しているとか、その上、恥ずかしながらあまり村上春樹の手になる訳だとは心得ることなく、『心臓を貫かれて 上・下』(マイケル・ギルモア著、文春文庫刊)を読んだことさえある。
その本を知ったのは、柳美里(ゆうみり)著の『言葉のレッスン』(角川文庫刊)によってである。彼女の本の中で紹介されていて、読んでみようと思ったのだ。
『心臓を貫かれて』という本が有名なのかどうかも知らなかったが、ちゃんと近所の小さな書店の棚に並んでいた。アメリカという多面性を持った巨大な国へイギリスからの移民が定着する過程での、救いのない物語だった。
村上春樹は何故にこの本を選んだのか。
さて、『神の子供たちはみな踊る』は阪神・淡路大震災に絡む小説だと言うのは正しい。けれど、小生が危惧したようには、直接、阪神・淡路大震災の被害の渦中に在った人々の悲惨な姿を描いたものではなかった。あるいは、村上氏なら直接に震災の悲惨を描くこともできたかもしれない。
が、彼はそのような手法は選んでいない。むしろ、小生のようにうっかり読むと、単に登場人物の一人が人生の何処かで震災に関係した…、つまりは、単に震災がキーワードの短篇集に過ぎないと思い込みかねない。
それほどに、個々の短編が独立しており、しかも相互に独立しているだけではなく震災からさえも懸け離れているのではないかと思いたくなるのだ。
それは、しかし、単に震災についての直接の叙述が少ないからという消極的な理由からではない。むしろ、村上氏の描く短編世界がそれだけ内容豊かなのである。
思えば、確かに震災は未曾有の災害だった。にも関わらず、多くの人間にとって震災は遠い出来事だったか、遠い過去の出来事、歴史の中の一齣になりつつある。
あれだけの大災害なのに。
だが、悲しいかな、人間は生きていく。生きるためには、忘れてはならないはずのことさえ忘れないと生きていけないこともある。心の傷を背負い込んだままでは過去に引き摺られたままになってしまうのだ。
人は過去にも生きるが、それ以上に今日を、そして明日に生きたい生き物なのだ。
そして圧倒的多数の人間には、残念ながら、対岸の火事なのだ。貴重な経験であり、忘れてはならない教訓だとは思いつつ。
が、実は、話はここから始まる。個々の人間にとっては短からぬ人生の中の一齣だったりするし、それを時には忘れようとするのだが、そして傷は表面的には癒えることもあるのだが、しかし心に深く傷は沈殿し、澱のように溜まり、人との出会いや別れなどで心という海が騒いだりすると、心の海の底の泥濘が立ち上り海を一気に不透明にする。
その濁りは、その心の騒ぎは、当人だけではなく、関係する周りの人々(親、子ども、恋人、親友…)にも影響しないわけにはいかない。ちょうど、そう、カオス理論のバタフライ効果のように、阪神・淡路大震災からは(時間的にあ
るいは距離的に)遠い人に対してさえ、ある震災で傷を負った人の心の揺らぎという、目に見えない波が押し寄せてくる。時に津波となって襲い掛かったりする。
つまり、忘れても、あるいは直接は関係の無い人間に対してさえも、一度この世に生じたことの余波は、遅かれ早かれ伝わっていくのだ。伝わった時には、その波の淵源が地震だったことさえ、忘失されるかもしれないとしても。そう、誰も敢えて心に地震の時のあの場面が、などと殊更に語るとは限らないのだ。
でも、その余韻が当人を突き動かし、その翳りが周りの人に浸潤し…、そうした連鎖が際限もなく続いていくのだ。
だからこそ、村上春樹の『神の子供たちはみな踊る』の中では、語彙としては地震関連の言葉が少ないのだ。この連作短篇集のキーワードが<夢>なのも、故なしとしない。けれど、その震災への直接の言及の少なさに、反って傷の深さを思わされてしまう。
さて、小生は村上作品は初めてである。従って彼の小説や作家としての彼をこの作品一つでどうこう忖度するのは早計だろう。ただ、小説を仕立てる上手さは抜群だと思った。読んでいて、今風の言い方をすると癒されるのだ。語ら
れる登場人物たちの心情に素直に同調なり共感なりできる。
それは、村上氏の人間性なのだろうか。それとも、数多くの作品を読み、海外の作品の動向を学んだ成果なのだろうか。語りの上での音楽や古典や食べ物、飲み物、海外旅行などの小道具の使い方の上手さ、気の聞いた科白のさり気ない引用など、実に上手い。
それはともかく、特に、この短篇集の最期の「蜂蜜パイ」という一編は秀逸だった。本編は、単行本に収録される際に書き下ろされたというが、この鈍感な小生を不覚にもほろりとさせるのだから只者ではない作品なのだ。この一編
を楽しみに読み進んでいってもいいかもしれない。
村上春樹の作家としての評価は、近い将来にもう一作くらいを読んで、その上で決めたい。
(03/03/13)
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