H・G・ウェルズ著『モロー博士の島』
前にフリーマン・ダイソン著の『宇宙をかき乱すべきか』を巡り、あれこれ書いた時、その本の中にH・G・ウェルズ著の本書にも言及されていることに気付いていた。
H・G・ウェルズの名を懐かしく聞く人も多いのではなかろうか。若い頃『タイム・マシン』や『透明人間』、『宇宙戦争』、『月世界探検』などと併せて読み、中には小生のようにご丁寧にも『世界史概観 上・下』まで読んだ方もいるかもしれない。
しかし、いつしか忘れはしないが思い浮かべもしない作家の一人になっていく…、それが普通なのだろう。もう、分かってしまった作家、作家の名を聞くと、「ああ、あれね、面白いね」と相槌をも打つのだが、それ以上には今更、進もうとは思わない作家の一人なのかもしれない。
小生も、ダイソンの書で触れられていなければ、改めて興味を掻き立てられるということもなかったかもしれない。
さて、というわけで、殊更、改めて本書の内容を説明するまでもないだろう。つい近年にも映画化が何度かされている(「D.N.A.」)。
小生が読んだのは、偕成社文庫中の『モロー博士の島 完訳版』( H.G.ウェルズ作、雨沢泰訳・解説、佐竹美保:カバー絵・さし絵)である。
[違う訳書だが、このサイトで本書の雰囲気だけは掴めるかも:。]
偕成社…。これまた懐かしい出版社名だ。子供の頃、どれだけお世話になったか知れない。ちなみに『モロー博士の島 完訳版』の末尾の文庫目録をつらつら眺めると、誰もが知るタイトルが並ぶ中で、『ジェイミーの冒険旅行』があった。
あるサイトの説明を借りると、この物語は「1850年のアメリカを舞台に、幌馬車隊で大陸を横断する少年の物語です。1958年に発表されたこの本は、翌年にピューリッツァ賞を受賞しています。」とある。
さて、小生は、偕成社版で読んだのだったか記憶に定かではない。とにかく主人公の少年に思いっきり感情移入して読んでいたような記憶だけがある。その前後には、『ボナンザ』や『ララミー牧場』『ローハイド』など、テレビでは西部劇がゴールデンタイムには必ず放映されていた。
今、思えば、アメリカによる洗脳だったのか、アメリカへの憧れだったのか…。
アメリカのホームドラマを見て、アメリカの広い庭付き一戸建て、胸元の大きく開いているドレスを着た美しい奥
さん、可愛い女の子、毛並みのいいワンちゃん、でっかいボトルから、これまた両手で挟まないと落っこちそうなコップになみなみと注がれる牛乳、やたらでっかいアメ車、舗装された街路、そのどれにも羨望の念一杯だった)。
そして単純なる少年だった小生は、ガンベルトをし、拳銃を手にし、布団を樽か柵に見立てて、それらを楯にしつつ敵陣に攻め入るのだった…。野蛮なインディアンへのイメージもしっかり植え付けられたことは言うまでもない。
ところで、偕成社文庫の挿絵は、上記したように佐竹美保である。本書を読み終え、最後に訳者らのプロフィールを眺めた際、初めて彼女が小生と同郷の方だと知った。
それで、急いでネットで検索。
偕成社文庫の中の彼女の挿絵を見て、ああ、昔、よくこういう挿絵を見たなと記憶が脳裏に蘇った。
『モロー博士の島 完訳版』の絵はネットでは見つからなかったが、彼女の絵の雰囲気はこのサイトで伺うことが出来る。
但し、本書のカバー絵だけはここで眺められる。
さて、なかなか本題に入れない。以前、小生は「ダイソン『宇宙をかき乱すべきか』(雑感3)」の中で、このようなことを書いた:
「19世紀にはダーウィンの思想が登場している。ダーウィンの進化論の持つインパクトというのは、今後、ますます衝撃の度合いを増すだろう。まだまだ、その思想は理解されていない。小生は、ダニエル・デネットの『ダーウィンの危険な思想』の紹介を試みたことがあるが、この世の自然の、まさに自然の営みの渦中に生物があるのであり生命の発生から生物の創生に至るさなかに見えざる神の手などの関わる必要はないのだということ。」
さらに続けて:
「だからこそ、遺伝子操作が可能なのであり、クローン技術も現実のものとなるのであり、男女の産み分けが可能なのであり、「少数のDNA分子が、未分化の卵細胞が分裂して一個の人間へ成長する仕方を制御することを可能にしている機構の仕組みを完全に理解できるであろう」と予想されるのだ。」とも。
小生がガキの頃は、本書をただ気色の悪い、けれど怖いけれど見たいという好奇心に駆られて読んでいたと思う。まさかこんなことが実現するなど、思いも寄らない(タイムマシンについてはいつか実現すると思っていたのかどうか)。
モロー博士の島では、狂気の科学者とされている博士だが、動物を無理矢理整形し、しかも、脳味噌を弄くったりなどして、動物を人間の姿形にし、さらには心をも人間らしくしようと試みた。
が、現代は、もっと先に進んでいる。遺伝子操作技術が驚異的なまでに進んでいる。ネズミの背中に耳を造形させるなど既に実現している。脳も、遺伝子操作すれば、思わぬ精神構造を持った<動物>が誕生する恐れもある(恐れではなく、実際に試みるかどうかなのかもしれない)。
一個の細胞(核)からどんな形態の生命体が生れるのか、想像を遼に超えている。<神>の領域に踏み込んでいるのだ。従前の倫理では理解不能な事態が現実に進行しているのだ。男であれ女であれ、その体細胞から一個の人間が誕生する。
こんなことは神様、つまり、この場合、『聖書』という形で神の言葉を伝えた紀元前後の宗教的天才たちも想像していなかったわけである。
動物を無理矢理にでも人間の形、あるいは人間に必要な臓器やパーツを有する姿形に造形することはできるかもしれない。けれど、脳を人間らしくするとはどういうことなのだろう。人間らしいとは、そもそもどういうことなのか。人間に
獣の心がないとでも言うのだろうか。
むしろ、人間とは獣と所謂人間らしいと想定するところの空想像との両極に跨る、その間で揺れる存在なのではないのか。
クローン人間の誕生が近い将来、実現する、のかどうか知らない。そのクローンには、どんな心が宿るのだろうか。あるいは、試験官ベビーがまだニュースになる頃、そんな中から生れた人間は、我々と共感し共生できるのかと危ぶんだものだった。が、今は世界にも日本にも試験官ベビーは何千人といる。もう、既に奇異な話ではなくなっている。
クローン人間だって、数多く誕生したなら、我々はそれに慣れるのだろうか。
将来に感じる漠然たる不安。科学の発展についていけない自分。日々、更新される情報。数ヶ月もしないうちに発表される(パソコンなどの)新製品。あまりに変化が目まぐるしくて、眩暈しそうだ。ついていけないとろい自分が愚かなのか。
今後も、そんな小生の杞憂を他所に科学も技術も発展していくのだろう。そんな中で、絶対に実現しないだろうという事態がある。
それは、等身大の変化、人の歩く速度に見合った進歩というのだけは、今生、ありえないだろうということだ。
原題:「H・G・ウェルズ著『モロー博士の島』あれこれ」
(03/02/13 作)
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