常石敬一著『七三一部隊』
[本稿は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の「春の川(はるのかわ) 」から、書評(感想文)の部分を抜粋したものです(一部、加筆)。1945年3月10日の東京大空襲を本稿の前段で扱っています。]
日本は、犠牲者であるばかりではない。中国や朝鮮など主にアジア各国の人々に対しては、加害者の面を持つ。例えば、日本軍は中国だけで二千万人の中国人民を殺害したとされる。
さて、小生は今、常石敬一著の『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書)を読んでいる。
常石敬一氏というのは、オウムによる松本サリン事件、地下鉄サリン事件などの際に、テレビ等のマスコミによくゲストとして呼ばれ、オウムが使った毒ガス兵器を説明してくれた方だった。
まずは、カバー裏の内容説明を転記する:
日本は大陸で何をしたのか?軍医中将石井四郎と医学者達が研究の名で行った生体実験と細菌戦の、凄惨で拙劣な実態。残された資料を駆使して迫る、もう1つの戦争犯罪。戦争は終わらない。
告白――何度も人体実験をしたが、印象に残っているのは最初のものだ。1942年2月に山西省の陸軍病院に勤務して1月半後に、院長から「手術演習」の通告を受けた。……午後1時からというのをわざと遅刻をした。……今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。……1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。……彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内蔵を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと自分を見たのだった。それは自分を仲間と思ってなのか、それとも軍医さんは度胸がないねと思ってなのか、その意味は分からない。1度やるともう平気になる。3回目には進んでやるようになった。
(転記終わり)
一読して分かるように、実際に人体実験に関わり自らも手を染めた方の告白なのである。
銃を中国人に打ち、頭蓋の中の弾道を検証したり、腹に撃ち込み、外科医たちが銃弾を如何に早く摘出するかの練習を行ったという。おぞましいことに、生きている人に打っての実験だったのである。
弾丸を取り出す手術にあぶれた軍医たちは、中国人の「四肢の切断や、気管切開をし」ていたという。しかも、そんなことは当たり前の光景だったというのである。(p.97)
ところで、本書を読んで驚いたことがある。驚く小生が無知なのかもしれないが、以下の記述が引っ掛かったのである。
つまり、「(前略)八月十五日を敗戦の日というのは不正確で、この日は天皇が、連合国軍に対してこの日から一方的に停戦することをあらかじめ通報した上で、日本軍全体に停戦を指示した日にすぎない。停戦の日と言うべきは、東京湾のミズリー号上で降伏文書に調印した九月二日だ。」(p.29)という記述である。
小生は法的なことは分からないでいる。法的(正式)にはやはり、降伏文書に調印した日こそが敗戦の日ということになるのか。これは、調べてみる値打ちがありそうだ。
本書『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』については、後日、また、触れることがあるかもしれない。
七三一部隊については、「七三一部隊の簡単な歴史 常石敬一」という頁がある(「季刊『中帰連』WEB」より)。
また、七三一部隊というと、かの薬害エイズ事件とも無縁ではない。「薬害エイズと日本の医学者 七三一部隊の陰を引きずったミドリ十字」というサイトを覗いてみて欲しい。
七三一部隊の残党は、多くが免責された結果、堂々と戦後の日本で<活躍>していったのである。
[「戦後日本の戦争責任論の動向 赤澤 史朗」(立命館法学 2000年6号(274号) 137頁)は、表題のテーマを概観するには参考になる。執筆者の立場が客観性の衣を被っていて、見えないのが残念だが。]
[本書の中にも詳しく記されているが、日本軍は中国中部の各地で生物兵器を実戦に使った。そもそも、生物兵器の使用は一九二五年に締結されたジュネーブ議定書によって禁止されている。が、研究までが禁止されているわけでもないし、所有を制限しているわけでもない。あくまで、使用が禁止されているだけである。
けれど、持てば使いたくなる。こっそりと(それとも、戦場だと大っぴらに)。
以下、引用は、上掲した「七三一部隊の簡単な歴史 常石敬一」という頁からである。
「 日本はノモンハンでの戦争の大敗北を通じて、航空機、戦車その他全ての戦力においてソ連に、そして欧米諸国に太刀打ちできないことを認識した。この時諸外国との戦争においては、従来とは違う新しい兵器を持つ必要を痛感し」、「石井が提唱していた生物兵器はその一つと考えられた」のである。
一般に生物・化学兵器は、貧者の武器と言われたりする。航空機、戦車、軍艦などは、膨大な予算が必要なのに比べ、相対的に安く開発し使用できると考えられたり、あるいは、所有したいという誘惑に駆られてしまうという。
そして、「石井はノモンハンでの戦争の末期に戦場の河に細菌をまいたのだった。感状が与えられたことと、その事実が新聞で娘の写真まで掲載して報道されたことは、陸軍の首脳部が生物兵器を有望な兵器と判断したことを示している。その推測は翌年以降、中国で航空機を使用した生物兵器の試用が裏付けている」のである。
さてしかし、皮肉な現実が石井に、そして日本軍に齎される。「日本は一九四二年の秋以降、中国での生物兵器の実戦試用を中止する」のだが、「それは中国側に生物兵器の使用を見破られたためではなく、その年の中国中部での試用で日本軍が汚染地域に入り、一七〇〇人以上の死者を出すという、大失敗をし、陸軍首脳部の信頼を失ったためだ」というのだ。これは、日本側の使用による敵国側の被害者の数を圧倒している。
しかも、「この死者一七〇〇人以上という数字は、前記の日本人捕虜が尋問で米国側に答えているもの」で、自らの失敗や汚点を正直に告げるとは到底、思えず、実際の死者の数は、相当数に登るのだろう。
因果は巡るという、天に唾するものは自らが被る、生物兵器の使用で一番、被害を受けたのは日本軍だった。
が、考えてみたら、一般の兵士達が研究開発し、使用しようと思ったわけではない。指弾されるべきは石井機関の連中であり、許可した日本軍や天皇のほうなのである。
結局は悲惨な目に遭うのは、日本だろうと中国であろうと、一般人民なのだった。
「季刊『中帰連』WEB」の中の、特に「戦場で何をしたのか」の各項を是非、一読して欲しい。
下記サイトでは、「銃砲では限られたところしか攻撃できず、負傷してもすぐ復帰する。細菌攻撃は、人体深く人から人へ効力を広めることができる。資源の乏しい日本にはうってつけの武器だ。」(石井四郎)といった発言と共に、人体実験(生体実験!)の画像などを見ることができる:「日本の中国侵略展 NO.7」
(05/03/19 追記) ]
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