西原克成著『内臓が生みだす心』
トンデモ本なのか? 本書(西原克成・著『内臓が生みだす心』NHKブックス刊)読み始めた当初の正直な感想はそのようなものだった。そしてもっと率直に言えば、ほとんど遮二無二読み進めて読了した今も、一層、その感を強めている。小生の感想は、ほぼ下記のサイトで言い尽くされている:
「もりげレビュー」
「心肺同時移植を受けた患者は、すっかりドナーの性格に入れ替わってしまうという。これは、心が内臓に宿ることを示唆している。「腹が立つ」「心臓が縮む」等の感情表現も同様である。高等生命体は腸にはじまり、腸管がエサや生殖の場を求めて体を動かすところに心の源がある。その腸と腸から分化した心臓や生殖器官、顔に心が宿り表れる、と著者は考える。」
(本書カバー裏よりの転記)
このカバーの折り返しに書かれた謳い文句を、一体、どのように受け止めればいいのか。著者はまともにこの言葉どおりに思っているのか。それとも、出版社によって脚色されているのか、実際に本文を読めば、もっと着実な記述が期待できるのか。
ところが、上掲のサイトでもあるように、本文を読むと、その内容にもっとぶっ飛ぶのである。小生は、例によって車中での暇な折の読書のために本書を持ち込んだ。多少の飛躍したような記述・論旨も我慢して読み進めた。なんといっても、著者の経歴は単なる訳の分からない名誉博士といった類いを超えている。人工臓器の研究で賞を受けているし、実際の治療でも実績を上げているのだ。
だったら、著者の進化論についての論旨に、あるいはアインシュタインの相対性理論の説明に、更に、エネルギー恒存則の理解の仕方に、重力の実際の生命活動における作用の仕方の説明に、素人でもついていけない、ついていきたくない記述があっても、それは小生の科学に関する未熟さの故なのだと言い聞かせるべきだと思って、意地でも最後まで読んでやると読み続けたのである。
しかし、やはり、感想はほとんど上掲のサイトの方と同じのままっだったのである。
ただ、若干は違う。
小生は、マイケル・D・ガーション著の『セカンド・ブレイン』(吉川奈々子訳、小学館刊)を読み、藤田恒夫著『腸は考える』(岩波新書刊)を読み、養老孟司氏の諸著を読み、布施 英利氏の諸著をも読み、その以前には、三木成夫の諸著を読んできた人間である。
その小生の立場からすると、相当に割り引いた形でではあるが、幾分は納得できるところもある。
例えば、再度、冒頭に示したサイトの方が引用していた部分をここでも引用させてもらう(無論、当該の書からの引用である):
三億年前の脊椎動物に起こった上陸劇の再現実験では、サメを実際に陸上げし、陸棲の脊椎動物への体制の変化を検証しました。すなわち、水中で鰓呼吸をし、血圧が極めて低いサメを陸上げすることにより、のたうちまわって血圧が上昇すると、鰓で空気呼吸ができるようになるのです。
(転記終わり)
ここから、もう、トンデモ本以外の何物でもないという前提で以降の論述を進めるのだが、小生は例えば三木成夫著の『胎児の世界』(中公新書刊)を幾度となく読んでいるので、人類(に限らない陸上の動物たち)が水棲から上陸して肺呼吸に変わる、その大変化の苦しみを劇的に示す胎児の時期があることを知っている。そこは三木成夫の研究にとっても、また、『胎児の世界』という本でも一つのピークを為す。詳しくは、『胎児の世界』を読んでもらいたい。必読書だと思う。
[ 但し、魚類(の一部)が肺を獲得するにあたっては、海中での持続的移動に耐えられる構造への変化という側面がある。まず、海中で肺を獲得していた、それがたまたま上陸に際し、うまく活用される結果となったという説もある。 (05/03/07 付記) ]
三木成夫は、当該の時期の胎児を緻密な観察と工夫で調べ上げたのだが、それを西原氏はサメによって再現したというのだ。そうした再現実験が可能なのかどうかの評価は小生にはできない。専門家の評価を待つのみである。
西原氏の記述は、何千万年あるいは何億年の進化の歴史の中で生じたことを、記述の都合上なのかどうか分からないが、眼前の個体の変化の観察で確認できるかのように受け取られやすい表現を採ることから、どうしても耳を目を頭を疑ってしまうことになるのだ。
さて、話は変わるが、小生は、脳死による臓器移植には慎重な立場に立っている。当事者ではないから呑気なことを言っていられるのだ、という反対論もありえると思うが、脳と首から下の身体を截然と分けられるものなのか、小生には釈然としないのだ。やはり、人工臓器の研究が進むまでの緊急避難的な当座の処置なのだと理解している。
ES細胞からの臓器形成か、機械的な代替物の研究ができるだけ早く進むことを期待している。
同時に、最近の医学や解剖学でも示されているように、原始的な多細胞生物というのは、基本は腸にあるのだ、というのは、素人にも納得が行く。もともとは一本の管から生命体が始まったのだ。そうした原始的な生命体に我々のような心がないとしても、何か感じるという神経以前の細胞感覚、細胞の皮膜の感覚はあ
ったものと思う。
ないと困るだろうし。
一個の細胞に過ぎなくても外界の情報を栄養を吸収するのと同等かそれ以上の切実さで摂取したに違いないのだ。その原始的な皮膜の感覚情報摂取の必要性は、腸になった段階でも引き継がれたことは想像に難くない。
確かに、腸が大事であっても、脳が破壊され機能を回復しないなら、いわゆる人間としては絶望だという理解の仕方は、受けいれやすい。自然でもあるのだろう。が、だからといって脳が破損して機能を喪失した、だから首から下の臓器は、他者のための代替物となって構わないと、すんなり進んでしまっていいものだろうか。
またまた話は変わる。ここ数年、身体への関心が高まっている。AIやデジタル情報への関心が高まり、ロボットの研究が進み、あるいは脳の研究が進む中で、改めて人間にとっての身体の意味が再認識されてきたという面があるようだ。
脳の研究でも、脳の違う形での研究という側面も持つロボット研究でも、身体の持つ役割がいかに大きいかがクローズアップされてきたのである。
特に人間(動物)では脳によってコントロールされる面が大きいことは確かだが、同時に身体に拘ると、そこには免疫のシステムという複雑怪奇な世界、そして腸や内臓の働きという、これまた脳に劣らず複雑極まる肉体部位があり、しかも、脳はそれらから直接、そしてより多くは(圧倒的には)間接的な情報を得るだけで、意識的なレベルでの脳によるコントロールはまるで及ばない。
むしろ、脳は波のような風のような便りを、しかもこうだ! こう動く! という一方通行的な間接情報を受動的に受け取るだけなのである。
が、そのたとえ間接的なルートで伝わるとはいえ、それらの情報は脳に影響する。脳の動きや、あるいは人の感情的な世界の色合いを染め上げてしまう。体調という曖昧な表現でしか示せないが、しかし、体調に左右されるしかないのである。
そして、さらに言うと、情報化社会、デジタル化社会において、唯一と言っていいほどに確かなのは、結局のところ我が身体以外にないのだということ、その身体の訴えを聴き取ることが、如何に重要かということが実感されてきたのだ。所詮は人間も一個の動物なのだ。身体は掛け替えのないものなのだ。我が身は可愛いのである。その根本に腸があり内臓がある、というわけである。
本書については未だ、語るべき多くのことがある。顔とか舌とか口とか。
でも、これは別の機会に譲ることにしよう。特に興味深いのは、「憶」という言葉・概念で示される意味なのだが、それは興味のある人は、本書に当たって調べてもらいたい。
原題:「西原克成著『内臓が生みだす心』って」(03/02/09)
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