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2005/03/27

ピーター・アトキンス著『ガリレオの指』

 ピーター・アトキンス著『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』(斉藤 隆央訳、早川書房刊)を読了した。
 二週間以上掛けて、ゆっくり読み進めていった。一気に読めないということもあったが、香味あるウイスキーの熟成された深みを浴びるように、ではなく、ちびりちびりと呑み味わうに相応しい本だったからでもある。
 図書館で本書を見たとき、副題の「現代科学を動かす10大理論」にやや悪い予感、網羅的に現代科学を総覧するには適するかもしれないが、そういった類いの本を読み漁ってきた小生には、目新しくも何ともない…、本書もそんな本の一冊なのかなと、あまり期待しないで開いた。
 そういった類いの本とは、例に挙げるのも失礼かもしれないが、メルヴィン・ブラッグ(Melvyn Bragg)著『巨人の肩に乗って―現代科学の気鋭、偉大なる先人を語る』(熊谷千訳、長谷川真理子解説、翔泳社刊)や、矢沢サイエンスオフィス編集の『知の巨人』(Gakken刊 ←近く書評エッセイを掲載するつもり)などなど。
 これらの本がつまらなかったわけではない。本書が素晴らしかったのである。

 目次を見ると、本の内容や性格を知る目安になるだろうか:

 1 進化―複雑さの出現
 2 DNA―生物学の合理化
 3 エネルギー―収支勘定の通貨
 4 エントロピー―変化の原動力
 5 原子―物質の還元
 6 対称性―美の定量化
 7 量子―理解の単純化
 8 宇宙論―広がりゆく現実
 9 時空―活動の場
10 算術―理性の限界

 著者ピーター・アトキンスについては、本書には「1940年生まれ。オックスフォード大学化学教授、リンカーン・カレッジ・フェロー。専門は物理化学。『アトキンス物理化学』などの世界的に著名な化学教科書の著者として知られるが、名作『エントロピーと秩序』を初め、『元素の王国』などの一般読者を対象としたポピュラー・サイエンスの著者としても名高い」とある。
『エントロピーと秩序』は、小生も読ませてもらったことがある。
 訳者の斉藤隆央氏については、「1967年生まれ。東京大学工学部工業化学科卒業。科学書を中心に翻訳に従事する。訳書に『タングステンおじさん』サックス、『ゾウの耳はなぜ大きい?』レイヴァーズ(ともに早川書房刊)、『やわらかな遺伝子』リドレー(共訳)、『美しくなければならない』ファーメロ、『暗号化』レビーほか多数」と紹介されている。

 本書の裏表紙にある、本書についての紹介を転記しておく:

現代科学はガリレオに始まる。
彼の持ち込んだ、本質的でないものを大胆に切り捨てる手法と、実験を初めとする検証可能性の重視という態度が科学の基礎となり、今日の隆盛をもたらした。現代科学は、ガリレオの指南のもとに発展したのである。
              ◆      
現代科学の全貌は、科学に関心のある一般人がざっと眺めてみるには広すぎる。しかし、現代文明をささえる科学の成果には、ひときわ太く、枝振りの見事な大木がいくつかある。進化論をはじめ、エントロピー、相対論、量子論、シンメトリーを経て算術にいたる、それら10の主要理論を、名作『エントロピーと秩序』の著者にしてポピュラー・サイエンスの名手アトキンスがセレクト、そのエッセンスを抽出する。現代科学が到達した高みからの爽快な展望を読者に提供し、何物にも代えがたい知的感動を呼び起こす、ドーキンス絶賛の科学解説書。
                       (転記終わり)

 小生は、今度限りは、読了してこの謳い文句を鵜呑みにしてもいいと感じた。文末に出てくるドーキンスがどのように絶賛しているかというと、本書の「訳者あとがき」によると、「『利己的な遺伝子』(日高 敏隆・岸 由二・羽田 節子・垂水 雄二訳、紀伊国屋書店刊)などの著者として有名な臣下生物学者のリチャード・ドーキンスも、その高尚かつ優雅な文体で繰り出す洗練された科学的記述に心酔し、本書についても、「ノーベル文学賞を科学者に与えるとしたらアトキンスこそが候補だ」と絶賛」しているという。
(ドーキンスについては、拙稿「『虹の解体』と人の心と(滝野氏との対話、その1ー5)」を参照)

 こういった中身と文体・表現とが高度にマッチしている本というのは、要約しても意味がほとんどなくなる。
 それでも、一般的な評価としてどのようなものが相応しいかは、ネットの中で見つかる。「Amazon.co.jp: 本 ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論」の中の、読者によるレビューである:

「科学者が描く科学史   2005/02/14   レビュアー: まぐわぁと   北海道札幌市」
 科学の重要なエッセンスを分かりやすく抽出した読みもの。表現が身近で馴染みやすく、科学が専門でない人たちにも考慮されている。進化から始まり、DNA、エネルギー、エントロピー、原子、量子、対称性、時空、宇宙、算術まで一連のつながりになっている。
 この本の特徴は、全ての項目において、まずその分野の歴史から入っていくという書き方だ。今では明らかに間違っていると分かる科学理論から始まり、徐々にその考えが塗り替えられていく歴史が面白い。のちに誤りであったと判明した理論でさえ、著者は決して彼らを嘲笑しない。明確に証明することができない時代にあって、間違ってはいても、そこまで論理を発展させた科学者たちに敬意を表し続けているのだ。
 分野がかなり広いので、科学を専門とする人でも、これに書かれている内容のいくつかは新鮮に思うのではないだろうか。私は理系の大学一年生(まだ科学を学び始めたばかり)なのだが、各章の後半になると難解に感じられる。前半で書かれた理論が、複合的になってより高度な理論になるからだ。だが、飛ばしても問題ない感じなので、気軽に読むことをお勧めする。
                    (転記終わり)

 本書を読んでいて感じるのは、下手な小説よりも練られた展開、プロットの巧みさ、やがて終章に至っての静かな、しかし胸に熱い感動に至る。本書の場合、感動といっても、高度に抽象的な高みに立っているのだという痺れるような感覚、所詮、小生は科学についても素人に過ぎないのだから、錯覚なのかもしれないけれど、それでも他の科学書では決して得られない満足感に満ちた読後感が残ったのである。

 小生は、ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』(林 一・林 大訳、草思社刊)や、リー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』(野本陽代訳、NHK出版刊)などで感じた科学観、宇宙観を本書で改めて感じた。
 科学は、万物理論、究極の理論を追い求めている。で、19世紀末にそうだったように、今一歩で、その理論が<発見>されるギリギリの、まさに前夜に今、我々がいる、そんな熱い期待に満ちた感じを抱いていたりする。
 けれど、実際には量子論などに代表されるような、物理学を根底から覆し飛躍させるドラマが、すでにその当時、予兆として始まっていた。 
 今、万物の理論が今、まさに手中にできるかのような感じがあったりする(らしい)が、一方、多くの科学者は、科学には(恐らく、しかし、まず間違いなく)終わりはない、これで究められたという到達点など、まずありえないだろうとも感じている(らしい)。

 上述の拙稿の中で、ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』からある一文を引用しているが、ここにも転記しておく。無論、グリーン自身の言葉である:

 宇宙に目を据え、これから出会うあらゆる不思議を予期するとき、私たちはまた、振り返って、これまでにたどってきた旅に驚嘆せざるをえない。宇宙の根本法則の探求は人間特有のドラマであり、人間の頭をめいっぱい働かせ、精神を豊かにしてきた。重力を理解しようとする自分自身の営みを生き生きと描いたアインシュタインの言葉――「切実な望みを抱き、自信と疲労を交互に感じつつ、最後に光のなかに出る、不安を抱きながら暗闇のなかを探った歳月」――は、間違いなく、人間の奮闘全体を表現している。私たちはすべて、おのおのの仕方で真理を旅し、おのおの、なぜ私たちはここにいるのかという問いに答えを望む。人類が説明の山をよじ登るとき、おのおのの世代は、前の世代の肩の上にしっかり立って、勇敢に頂上を目指す。いつか私たちの子孫が頂上から眺めを楽しみ、広大でエレガントな宇宙を無限の明晰さで見渡すことがあるのかどうか、私たちには予測できない。ただ、おのおのの世代が少しずつ高く登るなかで、ジェイコブ・ブロノフスキーが述べたことを実感する。「どの世代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表現する新たな仕方がある」。そして、私たちの世代が新たな宇宙観――世界の一貫性を表現する新たな仕方――に驚嘆するとき、私たちは星々に向かって延びる人間の梯子に梯子を付け加えて、自分の役割を果たしているのだ。
                       (転記終わり)

 さらに、同じ拙稿では、リー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』からも著者自身の言葉を引用している。ここに転記しておく:

 …最終的に私が残したいイメージは、生命は軽やかだということである。私たちは生物圏のなかを通り抜ける光子からエネルギーを受けており、生命に欠かすことのできないものは重みでないく、パターン、構造、情報だけだからである。生命の論理はつねに変化し、つねに移動し、つねに進化している。
 …宇宙の新しい見方はあらゆる意味で軽やかである。ダーウィンが私たちに与えてくれたもの、そして私たちが宇宙全体に一般化したいものは、宇宙について考える方法であり、それは科学的で方法的であるが、永続的に新しいものが出現してくるということが理解できる方法である。
 …したがって神が存在したことはなかった。カオスに秩序を押しつけることで宇宙を作り、外部にいたままで監視し禁止する案内人はいなかった。ニーチェもまた死んだ。永遠の回帰、永遠の熱的死はもはや恐怖ではない。そのようなことは起こらないし、天国もない。宇宙はつねにここに存在し、つねに異なり、さらに変化し、さらにおもしろく、さらに生き生きするが、つねに複雑で不完全のままである。その背後は何もない。それをしのぐ、絶対的、プラトン哲学の宇宙は存在しない。自然のなかにあるすべては、私たちの身のまわりにあるものである。存在するすべては、知覚できる現実のもののあいだの関係である。すべての自然の法則は宇宙そのものが作ったものである。人間の法則として期待できるすべては、私たちのあいだで話し合い、義務として受け入れるものである。私たちが得られるすべての知識は、私たち自身の目で見ることができ、ほかの人が自分の目で見たことから引き出されなければならない。私たちが正義と考えるすべては思いやりである。裁判官として私たちが尊敬するすべてはお互い同士である。ユートピアとして可能なすべては、私たち自身の手で作るものである。それで十分であることを祈ろう。
                       (転記終わり)

 さらに、リー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』の訳者である野本陽代氏による「訳者あとがき」の一節を以下、拙稿より転記する:

 …(本書は)一味ちがう視点に立っているといっていいだろう。これまでの宇宙論の本の多くが、物理学の法則やそこに現れるパラメーターを既成のものとして考え、それを土台にしてビッグバン宇宙論を説明していくのに対し、本書はパラメーターがなぜその値なのかも議論の対象としており、それが明らかにならなければ、宇宙のなかで私たち人間がいまここにいることを説明できない、としているからである。宇宙も生物のように進化しており、あちこちで自然選択が行われているので、自然の法則もまたその進化とは無縁ではありえない。異なるパラメーターをもつ宇宙が自己複製をくり返し、自然選択を受ける、というようなダーウィンの進化論的視点を、宇宙論に導入する必要があるのではないか、と彼はいう。
 リー・スモーリンの世界観(宇宙観)に共鳴するかどうかは別として、宇宙も人間も、つまりはこの世界というものが、つねに進化という表現が適切かどうかは分からないが、生成を繰り返してきたのであり、今も、これからも生成しつづけるというのは、小生は素直に受け止める。
 生命とは何かと問われて小生には、答える術はない。ただ、生命が何処かの時点で生じたのだとしても、それはこの大地の上であり、この地球の上であり、この銀河の中で生まれたのであるとは思っていい。その大地も宇宙も、われわれが狭い意味で思う<命>ではないとして、宇宙そのものだって変幻を繰り返していると考えたっていいはずなのである。生命と自然(宇宙)をそんなに截然と分ける必要もないと思う。
 悠久の宇宙、でも、その宇宙も巨大な闇の世界を流れる大河であり、どこから来てどこへ流れていくのか宇宙自身にも分からない。しかも流れるに連れて蛇行し変貌し、そのあるローカルな鄙びた局所に我々が生きているのだし、また違う荒野には生命どころか素粒子さえも形成できない宇宙が延び広がり、その茫漠たる宇宙の彼方には、あるいは別の緑野の地に生きる別の我々が生きており、此方のわれわれとの交信を夢みているのかもしれない。
 生命体の形がこの世界に生じてさまざまに変幻してきたように、われわれの心も身体の変貌に連れて変容する。それまでは感じられなかった世界が心の世界に飛び込んでくるようになる、そんな経験を幾度となく年を経るごとに誰だって多少は経験したのではなかったか。それを成長と呼ぶのかどうかは分からないが、その心の感じる世界の変容は、時に喪失の悲しみをも伴うのだが、それでも、年を重ねるということはそれはそれで祝福すべきものに思えるのである。だからこそ、成熟という表現もあるのだろうし。
                          (転記終わり)

 長い引用なので、読むのも面倒だろうか。
 が、本書ピーター・アトキンス著『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』を読むと、こうした際限のない探究が続くだろうという<感覚>が、一層、極まって感じることができる。

 本書では最後近くに数学が扱われている。なんといっても現代科学においては数式なくして理論の構築も、そもそも論議も不可能なのだ。
 が、科学や数学の門外漢の一人である小生は、数学(それとも数式という武器)について、一つのことを感じたらそれでいいのではと思ったりする。一つのこととは、科学についてもそうだが、数学も際限のない探究が続いているし、続いていくということだ。
 本書を読んで、今回、気付かされたのは、「人間が数をかぞえられること自体が驚き」という発想だ。アインシュタインではないが、世界の最も理解しがたい点は、世界が理解できることだ、という。
 では、この「人間が数をかぞえられること自体が驚き」という数学から得られる、世界の不可思議を思い知らせる発想の意味は如何。それは本書に当たってほしい。
 ただ、ヒントだけ書いておくと、我々が知っている(かのような)自然数(=ふつうの数)は、(0)、1、2、3、4、…と延々と続く、そんな際限のない数である。そこに有理数や代数的数といった可算な数(番号を付けられる数)も含めてもいい。
 けれど、実数には、可算ではない、πとかeなどの、いわゆる超越数が含まれる。しかも、実際には可算よりも超越数のほうが大多数なのだという。
「自然数は実数のなかにきわめてまばらにしか散らばっておらず、ひとつひとつの自然数は無限の数の超越数に取り囲まれている」というのだ。

 ここに出てくる「無限」については、さらに探究が続く。個人的には、(カントールや)ペアノからフレーゲへの展開、さらにラッセルの登場というくだりは、今更ながらに感銘深い。
 小生は高校2年の時、ラッセルの『数理哲学入門』を読んで、数理哲学に、というより哲学の虜になった。
ペアノからフレーゲへのラッセルの論の運びは、数学的論理の厳しさと厳密さとで頭の芯が痺れるような明晰感を私に与えてくれた。その先、ラッセルは彼の階型理論へと論を進めていくのだが、その明晰・厳密な運びは、それまでに私が読んだどんな本にもない全く異質な世界を垣間見せてくれたの」だったから。
 けれど、「パスカルやデカルトなどを経て、大学に入り、ヴィトゲンシュタインというとてつもない人物に遭遇して、その厳密な論の穴を思い切り悟ることになるのだけれど、それはまた、別の話である」。
 世界が「数」で表現されるモノなのかどうか、それは分からない。いずれにしても、その場合、「数」という言葉が「水」という言葉の含意する豊穣さと融通無碍さを帯びているなら、あるいはそうなのかもしれない。
 かの古代ギリシャの哲人、哲学の祖とも言われる人物は、万物の根源は水だ、と喝破したとか。タレスの論理の筋立ては、今からみれば幼稚なのかもしれない。
 しかし、タレスは案外と今の我々が水に抱くより遥かに透徹したものを「水」に見、読み取っていたのかもしれない。西谷啓治と共に、そう思ったりするのである。

 余談が過ぎたが、本書は文系の人も、十分に楽しめる。小説を読むように(難しいところは飛ばして)読めるのでは。
 理系の人も十分に読むに値する本だと思う。むしろ、理系の人こそ、読まれたら啓発されるのでは。

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