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2005/03/27

矢沢サイエンスオフィス編『知の巨人』

 矢沢サイエンスオフィスが編集した『知の巨人』(Gakken刊)を過日、読了した。
 本のタイトルを副題を含めて示すと、『知の巨人 現代最高の科学者へのインタビュー特集 21世紀の科学を語る』である。
 出版社側なのか、編集者側のコピーによると、「「明日は、未来はどうなるのか?」現在の空疎な社会を刺激する科学者たちの思考方法。未来の方向性を見失ったわれわれを導いてくれる「知」がここにある。」と謳ってある。
 さらに、「未来は科学にゆだねられている! ノーベル賞学者のフランシス・クリック、スティーヴン・ワインバーグ、言語学者のノーム・チョムスキー…。世界最強の15人の叡智が見る未来とは?」とも。

 本書の冒頭に、「はじめに」と題された編者である矢沢潔氏による一文が載っている。その小文のさらに冒頭にある一節を引用する:

現代における最大の思索者とは誰でしょうか? それは"思索する科学者"ではないでしょうか。というのも、歴史を振り返れば自明であるように、われわれの社会を"進歩"へと導き得るのは、究極的には人々の科学的な認識と思索のみだからです。
                              (転記終わり)

 この基本テーゼについては、小生とは見解を全く異にする。科学や技術の重要性は、この数世紀、そして20世紀と、そんなに歴史に造詣が深くなくても理解できる。これからも、科学や技術の影響は高まることはあっても、減る事は考えられない。そこまでは、小生も賛成である。
 実際、小生はガキの頃から科学関係の啓蒙書を理解できようが何だろうが、ずっと追っ駆けてきた。天文学、生物学、物理学、考古学、数学、技術関連…、とにかくこういう方面の知識を追うのが、科学者(技術者)の伝記・自叙伝も含めて大好きなのである。
 読書が好きな人が、病気などで倒れたギリギリの場面で、最終的にどんな本を手にするかで、その人の読書の上での本当の嗜好が露わとなる。
 そこまで追い詰めなくても、絶海の孤島へ一冊の本を持っていくとしたら、あなたはどんな本を持っていきますか、という問いに対し、読書の好きな人ならあれこれの本を思い浮かべ、大概の人は結構、選ぶのに迷うのではなかろうか。
 小生も迷う。『聖書』という柄じゃないし、わが青春の作家であるドストエフスキーの思い出の本『罪と罰』、セリーヌの『夜の果ての旅』…と、それなりに浮かんでは消えていく。が、その中に、下手するとガキの頃から憧れたニュートンやアインシュタインなどの本を持っていくことも、マジで考えないわけではないのである。
 そんな小生だが、しかし、「現代における最大の思索者とは誰でしょうか」と問われて、「思索する科学者」とは素直には考えられない。確かに「思索する」という形容が冠せられているのだが、しかし、科学者の中にも最大の思索者がいる、とまでは賛成できるが、そこが限界である。

 このことは、もっと広く言うと、科学・技術の価値は一定の留保の下に認めるということに繋がる。
 目の前に暴れ川がある。対岸へ渡るには、ずっと上流の吊り橋を恐々渡るか、下流の浅瀬を渡るか、それとも高い渡し賃を支払って、ならず者の肩に乗って渡るかしか方法がないとして、やはり科学と技術の粋を尽くして立派な橋を架け渡してもらいたいものである。
 橋を架ける際には、ただの経験ではダメである。そして橋が出来たなら、それまでは疎遠だったり、交流が乏しかった両岸の人々の生活も一変するに違いない。
 確かに便利になる。幸せになる側面もあるだろう。しかし、究極のところでは、橋が渡されることと幸せとは直結するはずはないのだと思う。
 橋を渡って向こう岸の憧れの人のところに早く近づくことが出来たって、恋が成就するとは限らない。恋のライバルだって同じように通いやすくなるわけだし、それどころか実際に頻繁に会えることで、相手に失望するかもしれない。

 古来よりわれわれを苦しめてきた数々の病気が医学や医療技術の進歩で、次々と征服されてきた。薬もドンドン生み出されてきた。これからも、新薬に期待されることも、新しい治療法や診断法に期待すること大である。
 が、われわれが知っている現実とは、新しい抗生物質の登場が、一定の成果を収めつつも、病気(病原菌やウイルス)のほうも進歩(進化?)を遂げる厳しい現実だ。無論、医学者はその新たな現実に対しても懸命の努力で対処する。
 が、病気→薬→新しい病気→新しい治療法→未知の病気の登場→さらに徹底した基礎研究→……といった、この堂々巡りには終わりがないようにも感じられる。

 誤解しないで欲しいのは、今ある病気や事態に対処できないと諦めているのではなく、対処はできるだろうが、その結果、今は予想されない病の形態が現れるだろうという、そのことを憂慮しているに過ぎない。
 下手すると新しい技術や治療法が、ウイルスや病気を進化させているのではと、結構、深刻な疑念をさえ、抱いていたりする。
 現代の病は、高齢化に伴うものが大きい。病気の克服が高齢化を促す。そのこと自体は、慶賀に耐えないのだが、寝たきりとか病気の質の変化に対応するのに苦労を重ねているのは周知の事実だろう。
 さらに、心の病。それも、脳などの器質的な原因に由来するものではなく、親子関係などの人間関係に由来する心の軋みが齎す歪んだ心の在り方というのは、そもそも科学や技術の(直接の)関与が可能な範囲が極めて限定されている(だからといって、そうした心の病に対し、人間が無力だと言っているわけじゃない、ただ、まさに生きた人間の生きた知恵や経験に依るところが科学や技術よりもはるかにはるかに大きいと思うだけなのである)。
 
 このようなことを書くと、小生が科学や技術に対して悲観的な考えをもっているように感じられるかもしれない。が、小生は、自分の無能を省みず、かなりの科学オタクなのである。
 年に読む本のうち、かなりの割合を科学関連の分野の本を占めているし、これからもこの傾向は変わらないと思う。死の床で、科学の本を選ぶかどうかは別としても。
 同時に、まるで前言を翻すようだが、20世紀の芸術や科学・文学の分野での歴史を辿ると、前半(乃至、半ば)まではジョイスとかプルースト、ピカソなどの影響が大きかったし、その成果の示す世界の広さを感じたし、また、科学的認識の開く世界より豊穣だったりした。
 が、アインシュタインやハイゼンベルクの登場で示されたのは、人間の直感の無力さである。数式の示すとんでもない、想像を超えた豊穣なんて言葉をはるかに凌駕する世界の広がりなのである。
 世界が三次元どころか四次元、あるいはそれ以上の世界というのは、一体、どういうことなのか。科学の啓蒙書ではいろいろ書いてあるのだが、やはり数式を使わない説明には限界がある(これは控えめな表現で、そもそも土台、無理な話なのだと多くの科学者は思っているに違いない)。
 人間の体内を見るのに、電磁波を使う。あるいはDNAを解析し、人間(動物)の肉体的成り立ちや、他の動物との系統を調べ、さらには現代の人間の遠い先祖をRNA遺伝子解析で辿っていく。
 そんなことは文学や芸術には不可能だが、そのことより、得られる知見や認識の未曾有の相貌というのは、文学的探求を凌駕している。次々と未知の認識が示されて、その認識を理解も料理もできないうちに、さらに想像を絶する世界が最先端の科学・技術で切り拓かれる。

 小生は、読書については、学生時代は徹底して古典の時期だった(そうはいっても、科学関連の本の渉猟は続けていたが)。その後、科学の示す世界の凄まじさに圧倒されて、文学的想像力は現代では最早、科学の指し示す限界を超えた凄まじさにまるで追いつけないのではという強迫観念のような感覚にさえ襲われたものだった。
 科学の本では、そこらにある文学や童話や漫画の世界の代替などできないし、そんな可能性もないだろうが、現実の変化の加速度を増す激しさは、悲しいかな文学作品を読んでも、まるで追いついていないと感じざるを得ない。
 というより、とっくに現実を追うのではなく、ある蛸壺的ニッチの中で、それぞれの作家や芸術家が極めて狭い教養や視野で顕微鏡的叙述や表現をしているか、そうでなければ、非現実的な幻想の世界で癒しを空しく追うのに汲々としている、そんな風に感じられるのである。当事者としては直面する課題を担っているのだろうし、目一杯頑張っているのだろうから、それはそれで構わないのだが。

 斯く言う小生も、拙いながら虚構作品を書く。自分がどんな姿勢で書くかは常に自分に問いかける。心掛けるのはただ一つで、常に頭の中を空白にして真っ白な紙面に向かうということである。
 何を書くかを予め決めるということはしない。せいぜい、キーワードになる言葉を脳裏に浮かべておくだけである。あとは、紙面に向って、最初の一筆を下す覚悟の定まるのを待つだけなのだ。
 何故、予め何を書くかを決めないのかというと、それは自分の(大袈裟に言えば、人間の、と云いたいところだが、さすがにおこがましいので自分の、に留めておく)能力や知識や思考や経験など、現実の前ではまるで通用しない、だったら、無手勝流で立ち向かうしかないではないか、という開き直りなのだ。
 そして、行方の定まらない文章を綴り始める。一体、何処へ向うのか自分でも全く分からない。分からないままに書いていくと、最初の、どうにかなるさという持ち前の楽天的な展望など吹き飛ばされて、思いも寄らない無明なる世
界に踏み惑っていく。泥沼。そしてやがて(気力が最後まで持ったなら)トンネルの先の灯りが仄見える(こともある)。
 量子力学で量子崩壊という概念がある。まあ、非科学的に説明すると、ブラックボックスの中は、覗かないうちは確率的に生きている状態と死んでいる状態が混在するのが、箱を開き、中を人間が覗くと、一気に確率的可能性が崩壊して現実態に定着してしまう、ということになろうか。
 つまり、ダラダラと書いてきて、最後の締めの一句なり冒頭の着想に繋がりえる展望が仄見える感覚に突き当たったなら、そこで初めて本編で何を書こうとしたかが、書く本人にもやっと分かる、というのである。
 こうすることで、自分の想像力も思考力にもまるで及ばない世界に、いつかは辿り着くような気がしているのだ。
 現実とは、あまりに豊かな世界なのだと感じている。従って、科学や技術の進歩も際限がないと小生は勝手に思っている。まだまだ発展の余地は膨大なのだ(楽天的な意味で、そう思っているわけではない)。
 が、同時に、科学や技術の今後示されるだろう可能性の世界を考慮に入れてさえも、現実の世界はさらにさらに圧倒的に果て知れず豊かなのだと、感じているのだ。何故って、やっぱり科学も技術も現実の世界に含まれる営みに他ならないのだし。

 肝腎の中身に触れる余裕がなくなった。幾つか興味深い点があったので、機会があったら、若干でも触れてみたい。


 原題:矢沢サイエンスオフィス編『知の巨人』…   (03/09/06 記)

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