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2005/03/04

カール・ジンマー著『水辺で起きた大進化』

 カール・ジンマー(Carl Zimmer)著『水辺で起きた大進化』(渡辺 政隆訳、早川書房刊)を読んだ。本書については、既に、「薄氷(うすらい)」の中で必ずしも本書の本筋に関わることではないが、若干、触れている。
 チューリングマシンやチューリング・テストなどでも有名なアラン・チューリングの逸話だった。生物学や進化の理論にチューリングが登場するのは意外だが、彼には生物学はかなりの関心事だったようだ。
 小生は生物学の本を読むのも好きである。進化や遺伝学の研究の結果、常識がドンドン覆されていく。何万、何千万、何億年の歴史の中で、生命はありとあらゆる可能性を試してきた。が、もっと大切で厳粛な事実は、今も<進化>の過程にあるということ。

 本書の全般的な紹介は、既に済ませてあるが、念のため、表紙裏の謳い文句を再度、転記しておく:

 38億年前の生命の誕生以来、地球上にはじつに多種多様な生物が生れてきた。この生物進化というドラマのなかで、もっとも劇的な変化の舞台となったのが、海と陸とをへだてる"水辺"である。かつて水辺では、"魚が海から陸へあがる"という進化史上の一大事件が起き、さらに陸にあがった生物のなかから、クジラのように水中生活へと戻っていくものが出現している。この2つの"大進化"がなぜ、どのようにして起こったのかという謎が、進化生物学者たちを長年にわたって悩ませてきた。
 しかし、近年の分子生物学などにおける長足の進歩が、状況を一新した。魚のひれが指のついた手へと変わっていった経緯や、クジラが何から進化したのかという類縁関係が最先端の研究によって解明され、驚くべき真相が明かされるにいたったのだ。
 気鋭の科学ジャーナリストが、進化学草創期のエピソードから、今日の研究現場の臨場感あふれるレポートまで、興味のつきないトピックをまじえて綴る、水辺をめぐる変身物語。古生物の在りし日の姿を再現したイラストも多数収録。
                          (転記終わり)

 本書についての、やや専門的な観点からの書評は、例えば「00年2月Science Book Review」で読める。「研究者たちの姿や声、化石発掘時の模様などを生かして描かれているということ。博物館の標本の山の中からアカントステガの「再発掘」が行われるところなどは非常に面白い。この辺の描写は研究者ではなくサイエンスライターである著者ならではのものだ」というのは同感だし、「ホメオティック遺伝子の話などで形態進化の考察が行われているところ」も、小生には興味深かった。
 けれど、ある程度、理論の現状に通じる方には、「結構ざっくりしてるので、その筋の人は期待して読むとがっかりするかも」ということになるのかもしれない。

「本書でも主役はアカントステガで、陸上生活での適応に見えた四肢そのほかは、既に水中生活を行っていたときにできあがった、いわゆる外適応、前適応であったとされている」とある。
 アカントステガとは(「恐竜おもちゃの博物館 アカントステガ」によると)、「恐竜が栄えるよりもずっと昔、4億年から3億5000万年ほど前のデボン紀に暮していた初期の両生類」で、「デポン紀は別名「魚の時代」と呼ばれ、魚類が大繁栄した時代です。こんな時代の中、海で誕生した生き物が陸地に進出しようとしていた頃の生き物で、魚のひれが手足に変わりつつあります。この仲間は「肉鰭類」と呼ばれていて、最も原始的な四本足動物に進化したらしい」という。
「初期の両生類」とあるが、「恐らく両生類といってもほとんど水中を出ることはなかったでしょう。しかし同じ頃にはすでに地上歩行に適応した足をもつ両生類もおり、アカントステガは最古の両生類ではなく、もっとも原始的な両生類ということになります」という(「川崎悟司イラスト集・アカントステガ」より)。

「外適応、前適応」という言葉が見えた。「ざつがく・どっと・こむ - 『今日の雑学+(プラス)』小橋昭彦」を参照させていただくと、「外適応、あるいは前適応と呼ばれる現象がある。進化上獲得された形質が、後に別の目的に利用されること」である。
「水中で音を拾うクジラの耳の仕組みが、地上にいた頃すでに獲得されていたのも前適応の一例」で、本書でも当然、触れられている。
 また、「鳥の羽もそうで、もともとは飛ぶためではなく保温などを目的としていた。だからティラノサウルスなどの恐竜にも備わっていたのではないかと最近では考えられ始めている。それが後に飛ぶために外適応した」という。
「肺や脚だってそうだ。水中の酸素濃度が下がった時期があって、それに適応して生まれた肺というシステムが、生物が陸上にあがるときに役立った」と上掲の頁には書いてある。
 肺は、魚が海の中で進化させた。既に鰓があり、十分、海での生活に慣れているはずなのに、何故、肺という器官を発達させる必要があったのか。
 それには、まず、何故、鰓だけでは不十分なのかを知る必要がある。
 本書から関連する節を引用する。それはマスを使って説明される。
「肺の進化を探るための手がかりは、マスに過度の遊泳を強いると死んでしまうという事実が提供してくれるかもしれない。マスのように肺をもたない魚は、血液を単純な経路で循環させている。まず心臓から鰓に送り出された血液は、鰓で酸素を充満させられてから体の各部に送られ、そこで遊泳のための筋肉を潤す。そのため、血液が心臓に戻ってくる頃には、血中酸素の大半は消費されている。つまり心臓の筋肉は、血液が鰓に送られて酸素を補充し、体の中を巡って再び心臓に戻ってくるまで、残された少ない酸素でやりくりしなければならない。マスが速く泳げば泳ぐほど、事態は悪化の一途をたどる。遊泳用の筋肉がより大量の酸素を消費し、よいしっそう働かなければならない心臓のために残されている酸素はますます少なくなるのだ。そのせいで、肺を持たない魚は、過度の運動を数分続けただけで死んでしまう。」
「それに対して(中略)肺をもつ魚のほうはスタミナで勝っている」。なぜなら、「肺をもつ魚の血液には、循環ルートが二つある」からである。
「アミアのような魚が遠距離を泳がねばならないときは、心臓が酸欠状態にならないように、ときおり空気を吸い込む。」おそらく肉鰓類と条鰓類の祖先は、鰓‐体‐心臓‐鰓という単純なルートに頼っているだけでは心臓がすぐに酸欠になってしまうほどパワーのある高速遊泳肉食魚だったのだろう。その祖先魚は、消化管の一部が袋状になり、そこに血管がめぐらされることで、肺が発達した。その魚は、水面に顔を出せば空気を吸い込んで肺に酸素を供給し、心臓に酸素を送り込むことができたため、ほかの魚よりも力強く遠くまで泳ぎつづけ、ほかの魚を捕食することができただろう。」
 つまり、「この筋書きによれば、肺は、最初の四肢類が進化する六〇〇〇万年前から、すでに陸上生活に完璧に適していたといえる状態で存在していたことになる」わけである。
 むしろ、「肺に関して問題にすべき疑問は、肺を失った魚のほうが肺をもつ魚よりもこれほど数も種類も多いのはなぜかである」ということになるのだ。ここには、さらなる進化のドラマがある。興味のある方は、本書をどうぞ。
 
 脳についても、「「肺の進化を探るための手がかりは、マスに過度の遊泳を強いると死んでしまうという事実が提供してくれるかもしれない。マスのように肺をもたない魚は、血液を単純な経路で循環させている。まず心臓から鰓に送り出された血液は、鰓で酸素を充満させられてから体の各部に送られ、そこで遊泳のための筋肉を潤す。そのため、血液が心臓に戻ってくる頃には、血中酸素の大半は消費されている。つまり心臓の筋肉は、血液が鰓に送られて酸素を補充し、体の中を巡って再び心臓に戻ってくるまで、残された少ない酸素でやりくりしなければならない。マスが速く泳げば泳ぐほど、事態は悪化の一途をたどる。遊泳用の筋肉がより大量の酸素を消費し、よいしっそう働かなければならない心臓のために残されている酸素はますます少なくなるのだ。そのせいで、肺を持たない魚は、過度の運動を数分続けただけで死んでしまう。」
「それに対して(中略)肺をもつ魚のほうはスタミナで勝っている」。なぜなら、「肺をもつ魚の血液には、循環ルートが二つある」からである。
「アミアのような魚が遠距離を泳がねばならないときは、心臓が酸欠状態にならないように、ときおり空気を吸い込む。」おそらく肉鰓類と条鰓類の祖先は、鰓‐体‐心臓‐鰓という単純なルートに頼っているだけでは心臓がすぐに酸欠になってしまうほどパワーのある高速遊泳肉食魚だったのだろう。その祖先魚は、消化管の一部が袋状になり、そこに血管がめぐらされることで、肺が発達した。その魚は、水面に顔を出せば空気を吸い込んで肺に酸素を供給し、心臓に酸素を送り込むことができたため、ほかの魚よりも力強く遠くまで泳ぎつづけ、ほかの魚を捕食することができただろう。」
 つまり、「この筋書きによれば、肺は、最初の四肢類が進化する六〇〇〇万年前から、すでに陸上生活に完璧に適していたといえる状態で存在していたことになる」わけである。
 むしろ、「肺に関して問題にすべき疑問は、肺を失った魚のほうが肺をもつ魚よりもこれほど数も種類も多いのはなぜかである」ということになるのだ。ここには、さらなる進化のドラマがある。興味のある方は、本書をどうぞ。

 脳についても、「アゴが退化する遺伝子変異が起こったとき、すでに火を使って肉を柔らかくしていた人類には影響なく、その結果脳の拡大を受け入れるスペースができていた」といった頭蓋における前適応があったのではと考えられる。 
 人類が発達させた会話(発声)の能力についても、別に会話(発声)のために能力が開発されたわけではない。まずは直立歩行ありきであって、そのため、「人類は直立二足歩行により喉の構造が変化し、飲食物と呼吸が同じところを通るようになってしまった。陸生ほ乳類で唯一、まかり間違えば食べ物で窒息死したり、誤嚥性肺炎になってしまう構造」になってしまったのだ(「直立歩行と言語(人類進化の最大要因)」より)。
 そのため、「その交通整理のため、口腔(舌、唇、あご)、喉頭、咽頭の各筋肉を高度に制御する必要が生じ、脳神経や筋肉が極度に発達した。結果として、口から呼気を出せるようになった喉構造の変化と相まって、怪我の功名、複雑多様な発音ができる準備が整った」というわけである。

 進化論は、複雑で高度な存在、つまり、人類を目指して進化してきたといった構図を描いているかのような印象が過去にはあったりしたが、実際には直面する環境をどう生き延びるか、ただそのために変化をその都度、遂げていた。足があることが進化の証しなら、鯨類が足を退化させてまで海に戻るのは、後戻りということになる。
 今はカバ類と共通の祖先を鯨が持つと考えられているようだが(岡田典弘氏の研究、例えば「岡田典弘教授のページ」を参照)、カバは生活の大半を水辺で暮らすが、一方、鯨は海を選んだ。どちらが高度な生物だとかではなく、与えられた環境の中で最適の生き方を選んだということなのだろう。
 決して、カバがクジラに劣る動物というわけではないのだね。

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