佐倉統著『進化論の挑戦』
佐倉統(さくらおさむ)氏という名前で顔を思い浮かべられる方も多いのでは。
小生の場合、テレビをあまり見ないし、ましてNHKテレビが映らないので、顔を見て、そういえばどこかで見たことがあるな…というものだった。
彼は、NHK「サイエンスアイ」のコメンテーターを勤めておれらる(おられた?)方なのである。佐倉統氏については自己紹介があるので、そのサイトを参照願いたい。
また、佐倉氏と同じ年に生れた解剖学の研究者を経て今は作家、編集者、果ては書店をもこなすという布施 英利(ふせひでと)氏との対談(「自然・人工・ネットワーク」)が読めるので、小生の下手な書評モドキの雑文より、そちらを小生としては推奨する。
ネットで本書(角川文庫刊)を扱う書評を探したが見つからなかった。これから始めるのは、例によって小生風の印象書評と言うか、書評エッセイというか、ま、当該の本を踏み台にしての雑談である、多分。
ダーウィンの進化論は、少なくとも欧米では(特にアメリカでは)鬼っ子的な存在でありつづけた。しかし、20世紀も後半になると様々な毀誉褒貶はあっても、基本的には受け入れられている。キリスト教の教えからすると、神が現存する生物万般(自然、さらにはこの世)を現在の形のままに作ったことになるから、生命が原始的な形態から進化して、多様化する、しかも神の手を借りずに数千万種だろうと思われるほどに地に満ち広まるというのは許し難いことだったのだろう。
だから、基本的には進化を認めつつも、さりげなく、神という言葉はさすがに持ち出さなくても、神の見えざる手の計らいとしか思えないことを匂わすような着想や理論的工夫(?)を施すことはされてきたし、これからもされるに違いな
い。
なんといっても、生命の尊厳に関わる問題なのだ。それが、最初はウイルスかそれより原始的な生命モドキの形態から始まり(それはいいとしても)、それが今日の多様性を獲得したというのは素晴らしいと思うとしても、しかし、ミミズや蛇やカエルやアメーバの類いと人間様が同列に並ぶなど、許し難いという感情が湧くのも無理はないのかもしれない。
が、既にダーウィンの進化論は理論的洗練を経て、受け入れられているのも事実だ。そこに神秘の余地はない。ただし、このようなことがありえるということ自体への驚異の念はあってもいいと思う。そもそも生命どころか、この世が在り、この世に何かがあるということ自体、驚異の的でなくてなんだろう。メカニズムはこれまでも解明されてきたし、これからも加速度をまして解明されていくに違いない。
もう、専門家でないと、クローンや脳死による臓器移植の意味するところなど、本当は理解できないのではなかろうか。あるいは専門家の方に噛み砕いた形で説明されても、仮にその説明が理解できるとしたら、逆に警戒したほうがいいかもしれない。専門家が何十年も研鑚を積んで、それでも難渋しているのに、ズブの素人が安直に理解できるはずもないのだ。
ダーウィンの進化論理解については、既に昨年紹介した、ダニエル・デネット著の『ダーウィンの危険な思想』(青土社刊)が詳しい。
ところで本書(進化論の挑戦)でも触れられているのだが、進化論の「進化」という言葉は誤解を生みやすい。全体として生命体は原始的な形態から複雑な形態を有する高度(!?)な生命体へと高度化しているかのように思われるし、そのように思い込みやすいのだが、それは進化を人間の立場から見ているからに他ならない。
昔の生物の教科書には、例えば人類に限っても一番左側にサルの姿が、ついで(北京)原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人、現代人というふうに並べられる図表が必ずといっていいほど載っていた(今の教科書は分からない)。原始的で素朴な(下等なを含意している)サルから知的で洗練された(そんな人もいるかもしれないけど)人間へ、というわけである。
が、様々な生存の危機や多様な環境に適応するため、複雑化した機能や形態を持つ生命体もいるかもしれないが、だからといってそれが高度な生命体とイコールではないし、そもそも、ヒルだろうとミミズだろうと、小生の好きなクラゲだろうと、現代の地球環境に棲息し生存しているなら、それは今、確かに現代に適応して生きているといえるのである。
原始的な形態から高度な形態へ適応することで進化が進んだというなら、下等な(失礼!)仕組みを持つ生命体は生き残っていないはずなのだ。
しかし、ウイルスだって、どっこい生き残っている。否、繁栄しているとさえ言えるかもしれないほどだ。今のインフルエンザウイルスだって人間よりずっと機構は単純なはずだ、けれど、人間は奴等に脅威を与えられているのだ。
そう、「進化」と言いつつ、つまりは「発展」、それでも誤解の余地があるなら、多様化という言葉で置き換えたほうが無難なのである。その多様化に至るプロセスにおいて、神の手も神秘的な奇跡の業(わざ)の介在する余地も必要もない、あくまで自然界の中のメカニズムとして起こりえるし現に「進化」が生じているのだということ、そこにポイントがある。
生命の尊厳。そのことを誰しも疑わないし、あるいは(疑うことは自由だが)生命の尊厳を敢えて冒す奴は認めないだろう(尊厳が侵犯される相手が自分だったら尚更…)。
そして進化論の意味するところは、無数にある生命体(種)が、形態やその複雑さの違いはあっても現に共存している、あるいは共存し共生することで、互いが依存し合うことで、生存しているという点にあるのだと思う。単に神秘や神の手を否定しているだけではないのだ。
このことは、我々人間が愛する動物(人それぞれに愛する対象は違うに違いない、犬、猫、蛇、熱帯魚、クラゲ、ミジンコ、サル、鳥…、)と共に暮らすことで平安を得ているというだけではなく、例え外見やその存在自体が唾棄すべき生物種であってさえも(例えば、ゴキブリやドブネズミ、クモ、そういえば我が家の床などにはダニが無数に生息している…)回り回って巡り巡って相互に依存しあっているということである。
小生は、自然が美しいとは安易にいえない。そう思わず言いたくなる時もあるが、しかし、自然とは人間の観点からしたら時には悪意に満ちている。毒蛇や毒キノコやダニやヒルや台風や地震や…。自然ということで、人間が気に食わない虫けらの類いの存在しない「自然」を大概は思い浮かべなければならないようで、それだったら、それは写真の中の美しい風景写真のように美しいとは思うけれど、そして邪魔者がいないほうが都合はいいけれど、それを自然と呼べるのかどうか。
自然とは混沌に近いものなのではないか。その混沌の海に秩序という意味合いを読み取るのが人間なのではないか。そういう習性は仕方がない。だから庭に蚋(ぶよ)が飛び回ったり、蛇が這い回ったりしたら、駆除するか排除したくなる、そうして由緒あるお寺の箱庭のように刈り上げられた「自然」を求めたいのが正直な心情であはあるが、本当に自然を大切と思うなら、人間の都合のいい悪いで存在を許す許さないを決めるわけにはいかなくなる。
そう、自然を愛する、などと小生はだから迂闊には言えないのだ。我が家の庭に(幸い、小さなベランダしかない)蛇がトグロを巻いていたら嫌だし、薮蚊など他所の庭に飛び去って欲しいし、ダニも我が家の居間から消え去って欲しいし、ウイルスも都合の悪い奴だけでも消滅して欲しい、などなど、そんなことを思っている人間が(自分が)自然を愛するなんて、安直に言えるはずもないのだ。
自然において生命体は進化する。多様性を確保しつつ生き延びていく。そのどんな形態のどんな外見の存在体も同等の生存の権利と価値を有する。ウイルスと人間とを引き比べて、お互いさまですな、なんて、気楽に言えるはずもない。それ程にに自然を大切にするには覚悟が要ることなのだろう。
ああ、また、思いっきり脱線してしまった。本書は何処に行ったのだ。
本書で一番重要な部分は、最終章にあると思う。
絶滅を危惧されている種は数知れない。が、保護に動こうとする対象は少ない。日本では鴇(トキ)が在来種としては絶滅し、中国から輸入し繁殖の努力を続けているが、実際に絶滅の危機に瀕しているのは、トキばかりではない。が、人間はえり好みをする。
それと、風景にしても、人間はえり好みをする。箱庭的風景。敵のいない安心できる風景が好まれる、それは人間が生き延びる上で、そうした風景が人間の生存に適していたが故にだという。
その着想を明確に示したのが、エドワード・ウィルソンで、彼の著書のタイトル『バイオフィリア』がその思想を示している。生き物(バイオ)を愛する(フィリア)というわけである。
佐倉氏の説明を借りると、「自然を愛する心性は人間に遺伝的に組み込まれたものだ、と彼は論じたのだ。自然を好むのは、人類進化の過程で生じた適応的な形質であり、人間は自分たちに適した環境を快いと感じるようにできている」となる。
まさに、問題点が集約されたような思想だ。
今、問われていることは、人間が生き延びるためには、目先の好き嫌いで保護の対象にする動物種を選択するわけにはいかないのかもしれないということなのだから。良き付け悪しきに付け、環境への影響力(負荷力)を他の動物種より持ってしまった人間は、これからは従前の価値観を自らの努力で乗り越えないとならない、のかもしれない。
つまり、人間が快適とか人間にとって美しいとか、そうした価値観や培われてきた人間にだけ都合のいい心性だけで動くわけには行かない恐れが大きいのだ。多様性に満ちた自然を大切とするなら、田圃から一時は排除したタニシやヒルなどを農薬を減らすことで戻らせたように、快適な都会環境と他の圧倒的な生物種とがどう共存・共生しうるかを考える必要がある。
自然を愛するとは、なかなかにしんどいことなのだ。
原題:「佐倉統著『進化論の挑戦』あれこれ」
(03/02/05)
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