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2005/03/27

ピーター・アトキンス著『ガリレオの指』

 ピーター・アトキンス著『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』(斉藤 隆央訳、早川書房刊)を読了した。
 二週間以上掛けて、ゆっくり読み進めていった。一気に読めないということもあったが、香味あるウイスキーの熟成された深みを浴びるように、ではなく、ちびりちびりと呑み味わうに相応しい本だったからでもある。
 図書館で本書を見たとき、副題の「現代科学を動かす10大理論」にやや悪い予感、網羅的に現代科学を総覧するには適するかもしれないが、そういった類いの本を読み漁ってきた小生には、目新しくも何ともない…、本書もそんな本の一冊なのかなと、あまり期待しないで開いた。
 そういった類いの本とは、例に挙げるのも失礼かもしれないが、メルヴィン・ブラッグ(Melvyn Bragg)著『巨人の肩に乗って―現代科学の気鋭、偉大なる先人を語る』(熊谷千訳、長谷川真理子解説、翔泳社刊)や、矢沢サイエンスオフィス編集の『知の巨人』(Gakken刊 ←近く書評エッセイを掲載するつもり)などなど。
 これらの本がつまらなかったわけではない。本書が素晴らしかったのである。

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矢沢サイエンスオフィス『知の巨人』(続)

 矢沢サイエンスオフィスが編集した『知の巨人』(Gakken刊)をめぐって、全般的なことと、科学についての勝手な感想などを前回、書いた。
 今回は、多少は本書の具体的な内容に若干、アトランダムに触れてみたい。
 内容を把握するには、前回紹介した、冒頭の「はじめに」や本書の謳い文句を見るのが手っ取り早い。
 特に謳い文句的な帯のコピーなどをそのまま受け取る人もいないだろうが、まず、目にするのは、そういったところだろう。大袈裟な謳い文句で惹き付けようとして、逆にそこで客を(読者を)掴み損ねることも大いにありえるわけだが。
 が、目次となると、かなり誤魔化しが効かなくなる。このインタヴュー集において一体、誰が採り上げられているのか。
 目次を見てもらった上で、何人かの科学者について、興味深い点に触れていきたい。

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矢沢サイエンスオフィス編『知の巨人』

 矢沢サイエンスオフィスが編集した『知の巨人』(Gakken刊)を過日、読了した。
 本のタイトルを副題を含めて示すと、『知の巨人 現代最高の科学者へのインタビュー特集 21世紀の科学を語る』である。
 出版社側なのか、編集者側のコピーによると、「「明日は、未来はどうなるのか?」現在の空疎な社会を刺激する科学者たちの思考方法。未来の方向性を見失ったわれわれを導いてくれる「知」がここにある。」と謳ってある。
 さらに、「未来は科学にゆだねられている! ノーベル賞学者のフランシス・クリック、スティーヴン・ワインバーグ、言語学者のノーム・チョムスキー…。世界最強の15人の叡智が見る未来とは?」とも。

 本書の冒頭に、「はじめに」と題された編者である矢沢潔氏による一文が載っている。その小文のさらに冒頭にある一節を引用する:

現代における最大の思索者とは誰でしょうか? それは"思索する科学者"ではないでしょうか。というのも、歴史を振り返れば自明であるように、われわれの社会を"進歩"へと導き得るのは、究極的には人々の科学的な認識と思索のみだからです。
                              (転記終わり)

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白洲正子著『両性具有の美』

 本書(新潮文庫刊)は小生が読む白洲正子女史の本としては三冊目である。
 最初に読んだのは、『西行』(新潮文庫刊)で、ついで、『白洲正子自伝』だった。
 小説家ではない書き手で好きな人に例えばピアニストの中村紘子女史がいる。『ピアニストという蛮族がいる』とか、『アルゼンチンまでもぐりたい』(いずれも文春文庫刊)は、痛快なエッセイで、作家を名乗る方でもこれだけ達筆
で達意の文章を書ける人はいないとつくづく思ったものだ。
 白洲正子女史の文章も違った意味で痛快である。明快でもある。そうした経験があったものだから、本書も楽しみに車中で読んだ。
 が、なんとなく女史らしくない。あれこれ歴史上の経緯を語っているのだが、どうも、達意には思えなかったのである。
 で、改めて文庫のカバー裏の著者紹介を読むと、「幼時より梅若宗家で能を習う」とある。本書を読むうちに分かったことだが、彼女はずっと能を舞いたいと願って生きてきたのだ。五十年も。その挙げ句、女には出来ないと悟る。
 本書の大塚ひかり氏による解説から引用させてもらう。「世阿弥がそういう育ち方(同性愛)をしているんです。だから女にはお能は舞えないということが、私、五十年やってよくわかりました。あれは男色のもので、男が女にならなくちゃだめだ、って。精神的なものもそうだし、肉体的にもそうです」

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渡辺信一郎著『江戸の女たちの湯浴み』

 渡辺信一郎著の『江戸の女たちの湯浴み―川柳にみる沐浴文化―』(新潮選書)を読んだ。
 小生の勝手な印象書評に移る前に、出版社側の宣伝文句を並べておこう。「多くの川柳や浮世絵を読み解いて物語る湯屋の実態――江戸庶民の哀感とユーモアたちこめる湯気の向こうに女性たちの姿態がみえてくる超ユニーク文化論!」「多くの古川柳と絵図をもとに、江戸の女たちの湯屋の利用と入浴の実相、女性の行水や腰湯、髪洗いの実態を明らかにした沐浴文化論。湯気の向こうに江戸の女たちの姿態が、生活が見えてくる
 本の内容を知るには、目次を見るのがいい:

 第1章 女性たちは今日も湯屋へ行く
 第2章 女性の湯具
 第3章 湯屋の仕組み
 第4章 内風呂・行水・洗髪
 第5章 温泉場へ湯治に
 第6章 その他の沐浴
 第7章 近世の湯屋と風呂屋

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堀川潭/著 『悲劇の島』

 本書には、「記者の見た玉砕島グアム」というサブタイトルが付されている。
 昭和41年に「玉砕島」というタイトルで出版された(弘文堂刊)を文庫化(光人社NF文庫)したものである。
 小生にとって、近年では、昨年読み紹介済みの本間猛著『予科練の空 かかる同期の桜ありき』(光人社NF文庫刊)に続く戦記物である。
 本書は、上掲のサイトの紹介を引用すると、「玉砕は太平洋戦争が生んだ悲劇である。グアム守備隊の壊滅後、報道班員一行は島の北端に追い込まれ、自決か突撃かの関頭に立たされた―荒涼たる岩礁地帯からジャングルに分け入り、雨とと飢渇と絶望と戦い、生命の極限状況のもとで、流浪の果てに、奇しくもアメリカ兵士と対決するまでの二ヵ月間を描く感動作。 」となるらしい。
 しかし、最後の「奇しくもアメリカ兵士と対決するまでの…」というのは、ちょっと無理がある。流浪の果てにアメリカ兵と行き会うのだが、決して対決したわけではない。
 むしろ、報道記者たる著者(堀川潭=ほりかわたん)は、アメリカ兵(軍)と遭遇することを発見され次第殺されるかもしれない、あるいは掴まって虐待されるかもしれないという恐怖と、あるいは生き延びさせてくれるかもしれないとい
う期待の相半ばする中で意図的に望んでいたのである。

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「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』

 本書「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫刊)には、「逃げ切れない狂気、非情の13事件」という
副題が付いている。その内容については、このサイトの説明で十分だろう。
 目次も書いてある。
 同サイトから引用する:

事件は起きた瞬間、わーっと騒がれ、マスコミが食い散らかし、そして捨てられる。情報は溢れるほど存在するのだから、マスコミはよりセンセーショナルな事件を追いかけることになり、過去を振り返る余裕はない。しかし、被害者遺族にとっては、事件は大きな傷痕を残す。当事者にとって事件はいつまでも続く悪夢なのだ。犯人が逮捕されるまで、いや、判決が出るまで。いや、判決が出てからも悪夢は続くのだ。
                               (引用終わり)

 さらに、「ここに出てくる殺人者は、もしかしたら殺人を犯す運命から逃れられなかった人たちかも知れない。なるべくしてなった殺人者がいるかも知れない。しかし、被害者たちはなるべくしてひがいしゃになったわけではない。犯罪者と深いかかわりを持っていたものもいるが、無関係だったものもいる。いったい殺人とは何なのか。それを知るには、まず事件を、事件の痛みを知らなければならない。そのためには、このようなルポルタージュが必要されている。」というコメントは的確だと思う。

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2005/03/19

村上春樹著『神の子どもたちはみな踊る』

 小生が村上春樹の小説作品を読むのは初めてである。『神の子供たちはみな踊る』(新潮文庫刊)を選んだのは特に理由はない。
 たまたま近所の小さな書店の棚に並んでおり(それは当然だ、なんと言っても今をときめく村上春樹なのだ)、でも、他にあったのは『ねじまき鳥クロニクル』の第一部と、村上朝日堂ものがあるだけだったのだ(『村上朝日堂の逆襲』は以前、読んだことがある)。
 つまりはほとんど選択の余地がなかったのである。但し、平積みのコーナーには氏の新しい本があったような気がするが、まだ、彼の本を単行本で選ぶほどにファンではない。
 本書がかの阪神・淡路大震災に絡む小説であることは、書評その他で知っていた。彼はまた、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件に絡み、『アンダーグラウンド』というノンフィクションを書いているが、彼がそうした現実に起きた事件に関心を持ち、かつそこに取材して小説に仕立てることもする作家なのか、という印象も持っていた。
 とにかく彼は今、日本国内に限らず海外でも人気の作家なのである。どこにそんな人気を呼ぶ秘密があるのか。

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2005/03/16

H・G・ウェルズ著『モロー博士の島』

 前にフリーマン・ダイソン著の『宇宙をかき乱すべきか』を巡り、あれこれ書いた時、その本の中にH・G・ウェルズ著の本書にも言及されていることに気付いていた。
 H・G・ウェルズの名を懐かしく聞く人も多いのではなかろうか。若い頃『タイム・マシン』や『透明人間』、『宇宙戦争』、『月世界探検』などと併せて読み、中には小生のようにご丁寧にも『世界史概観 上・下』まで読んだ方もいるかもしれない。
 しかし、いつしか忘れはしないが思い浮かべもしない作家の一人になっていく…、それが普通なのだろう。もう、分かってしまった作家、作家の名を聞くと、「ああ、あれね、面白いね」と相槌をも打つのだが、それ以上には今更、進もうとは思わない作家の一人なのかもしれない。
 小生も、ダイソンの書で触れられていなければ、改めて興味を掻き立てられるということもなかったかもしれない。
 さて、というわけで、殊更、改めて本書の内容を説明するまでもないだろう。つい近年にも映画化が何度かされている(「D.N.A.」)。
 小生が読んだのは、偕成社文庫中の『モロー博士の島 完訳版』( H.G.ウェルズ作、雨沢泰訳・解説、佐竹美保:カバー絵・さし絵)である。
[違う訳書だが、このサイトで本書の雰囲気だけは掴めるかも:。]

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2005/03/14

常石敬一著『七三一部隊』

[本稿は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の「春の川(はるのかわ) 」から、書評(感想文)の部分を抜粋したものです(一部、加筆)。1945年3月10日の東京大空襲を本稿の前段で扱っています。]


 日本は、犠牲者であるばかりではない。中国や朝鮮など主にアジア各国の人々に対しては、加害者の面を持つ。例えば、日本軍は中国だけで二千万人の中国人民を殺害したとされる。
 さて、小生は今、常石敬一著の『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書)を読んでいる。
 常石敬一氏というのは、オウムによる松本サリン事件、地下鉄サリン事件などの際に、テレビ等のマスコミによくゲストとして呼ばれ、オウムが使った毒ガス兵器を説明してくれた方だった。

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2005/03/13

パーコウィツ著『泡のサイエンス』

「陽炎」は飛ばす。続いて、「泡」へ。蜃気楼と泡には直接の関係はない。共に陽炎のように淡く儚いというイメージがある。まあ、イメージつながりである。陽炎は文章を繋げる都合上の接着剤だということかもしれない。

 こんな飛躍をするのも、今朝、読了したシドニー・パーコウィツ著『泡のサイエンス―シャボン玉から宇宙の泡へ』(はやし はじめ/はやし まさる訳、紀伊国屋書店刊)に感化されているからである。
 もう一度、出版社側の謳い文句だけ、転記しておくと、「私たちの宇宙は多様な泡に満ちあふれています。生活に身近な石鹸やビールの泡のほかに、原子・分子の世界から大宇宙の構造まで、泡は形を変え出現します。また実用面では、食べるもののみならず、医療やゴミ処理や宇宙探検にいたるまで、泡は活躍しています。本書は、驚くほど多岐にみちた泡の魅力的な世界へ読者を誘います。」とのこと。

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2005/03/07

西原克成著『内臓が生みだす心』

 トンデモ本なのか? 本書(西原克成・著『内臓が生みだす心』NHKブックス刊)読み始めた当初の正直な感想はそのようなものだった。そしてもっと率直に言えば、ほとんど遮二無二読み進めて読了した今も、一層、その感を強めている。小生の感想は、ほぼ下記のサイトで言い尽くされている:
 「もりげレビュー

「心肺同時移植を受けた患者は、すっかりドナーの性格に入れ替わってしまうという。これは、心が内臓に宿ることを示唆している。「腹が立つ」「心臓が縮む」等の感情表現も同様である。高等生命体は腸にはじまり、腸管がエサや生殖の場を求めて体を動かすところに心の源がある。その腸と腸から分化した心臓や生殖器官、顔に心が宿り表れる、と著者は考える。」
                        (本書カバー裏よりの転記)

 このカバーの折り返しに書かれた謳い文句を、一体、どのように受け止めればいいのか。著者はまともにこの言葉どおりに思っているのか。それとも、出版社によって脚色されているのか、実際に本文を読めば、もっと着実な記述が期待できるのか。

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2005/03/04

カール・ジンマー著『水辺で起きた大進化』

 カール・ジンマー(Carl Zimmer)著『水辺で起きた大進化』(渡辺 政隆訳、早川書房刊)を読んだ。本書については、既に、「薄氷(うすらい)」の中で必ずしも本書の本筋に関わることではないが、若干、触れている。
 チューリングマシンやチューリング・テストなどでも有名なアラン・チューリングの逸話だった。生物学や進化の理論にチューリングが登場するのは意外だが、彼には生物学はかなりの関心事だったようだ。
 小生は生物学の本を読むのも好きである。進化や遺伝学の研究の結果、常識がドンドン覆されていく。何万、何千万、何億年の歴史の中で、生命はありとあらゆる可能性を試してきた。が、もっと大切で厳粛な事実は、今も<進化>の過程にあるということ。

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佐倉統著『進化論の挑戦』

 佐倉統(さくらおさむ)氏という名前で顔を思い浮かべられる方も多いのでは。
 小生の場合、テレビをあまり見ないし、ましてNHKテレビが映らないので、顔を見て、そういえばどこかで見たことがあるな…というものだった。
 彼は、NHK「サイエンスアイ」のコメンテーターを勤めておれらる(おられた?)方なのである。佐倉統氏については自己紹介があるので、そのサイトを参照願いたい。
 また、佐倉氏と同じ年に生れた解剖学の研究者を経て今は作家、編集者、果ては書店をもこなすという布施 英利(ふせひでと)氏との対談(「自然・人工・ネットワーク」)が読めるので、小生の下手な書評モドキの雑文より、そちらを小生としては推奨する。

 ネットで本書(角川文庫刊)を扱う書評を探したが見つからなかった。これから始めるのは、例によって小生風の印象書評と言うか、書評エッセイというか、ま、当該の本を踏み台にしての雑談である、多分。

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