宗左近著『日本美・縄文の系譜』承前
宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)を読了した。
まず、宗左近の簡単なプロフィールを:
「自分と死者との交感から紡ぎだされる無限の空間と時間を言葉に結晶させる独自の詩の世界を展開」と記した上で、「日本人の芸術・精神の母胎として縄文をとらえ、評論『日本美 縄文の系譜』(新潮社)などを著す」とある。
宗左近自ら収集した縄文土器類200点を寄贈して成った芸術館がある。その名も、(加美町立)縄文芸術館という。
そのサイトには宗左近の縄文への思いが力強く語られている。
「本来の日本人のタマシイは、激しい祈りと熱い愛の複合体です。壮麗な宇宙性をもつ有機体です。雄渾な生命」だとした上で、縄文文化や遺品に日本人の魂を見た。彼は言っている:
「縄文人の遺品がその何よりの具現です。そこには火の激しさと火の優しさが共存しています。動力学と静力学が統合されています。そのため天空への螺旋上昇吊りあげられ運動が起こっています」
短いメッセージなので、是非、全文を読んでもらいたい。
また、彼がどんな縄文の遺品(土器)を好んだかを見て欲しい。
宗左近は縄文の魂は、至るところに残っていると考えている。その魂の火が現代に蘇り、現代人の魂と向き合いぶつかり合うことで、芸術へのエネルギーが生まれると考えるのである。
ところで、「宗左近 縄文」というキーワードで検索したら、興味深いサイトが見つかった。「蓊助・遺作展」(大川美術館)というサイトで、「画家・島崎蓊助」についてのサイトなのである。そんなに長い文章ではないので、このサイ
トの一文も是非、読んでもらいたい。
島崎蓊助というのは、「(島崎)藤村の三男として生まれ、2歳の時、母の死に会い、父の手によって木曽の、藤村の姉のもとに預けられ、10年をそこで過ごした」という画家なのである。
島崎藤村に傾倒している小生なのだが、島崎蓊助という存在にはこれまで全く気が付かなかった。
さて、では宗左近と島崎蓊助との関わりは如何。
それは、「蓊助は1971年、生涯唯一といってもよい個展を、日本橋・柳屋画廊にて開催している。この個展に展示されたのが冒頭に述べたセピアの作品である。宗氏は、この個展開催に中心的な役割を果たしている」というのである。
この「蓊助・遺作展」のカタログに寄せた一文の中でも、宗左近は「宗氏は図らずも縄文について語って下さった。縄文土器について、そして「縄文の発見者」である岡本太郎についても」という。
「蓊助の中にも一部分に「縄文」が確かにあったと考えている。」という件(くだり)があるが、これは、この一文を書かれた春原史寛氏の見解なのだろう。
しかし、「「縄文」についてもこの蓊助の「ノオト」の中で多くのページを割いて考察が加えられている。さらには岡本太郎の縄文論についてもだ」というのだから、蓊助の縄文への思い入れは深いのみならず、かなり早くから心有る人は縄文への関心を深めていたのだと知ることができた。
上掲のサイトにて、島崎蓊助の作品を見ることができる。
「木曾開田村西野より御嶽山を望む」や「中国スケッチ」などのセピア色の世界を見ると、なるほど縄文の朴訥なしかし雄勁でもある魂の遠い木霊が聞こえてきそうだ。
が、島崎蓊助が背負った文豪・島崎藤村の息子という重い十字架に呻吟する、開花しきれなかった魂の悲鳴を聞くような気がするのは、小生が捻くれているせいなのだろうか。
しかし、彼の絵に親近感を抱くのも嘘偽りのないところである。
同時に、大川美術館の館長・大川 栄二氏の「描かざる幻の画家 島崎蓊助 遺作展によせて」と題された紹介文の中の一節を読むと、島崎蓊助の父・藤村への、さらには人生への鬱屈した思いの原点が想像以上に深いことを思い知らされるのである:
「島崎蓊助は文豪藤村の三男に生まれながら、貧困のため、母の死後3歳で父から独り離れ、木曽福島の伯母宅に預けられた。13歳でようやく藤村に引き取られ、翌年14歳で、父のすすめで性格の全く違う次男鶏二と共に川端画学校に通い、早過ぎる画家の道をたどった」
この大川美術館には、島崎蓊助以外に、小生の好きな画家・松本竣介の作品も見られるとか。群馬県の桐生市にあるというこの美術館に行ってみたくなった。
なんだか、肝心の宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)の紹介がまるでできない、のみならず回り道ばかりの一文となってしまった。
本書の紹介は、また機会を見てということにさせてもらう。
(03/06/24)
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