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2005/02/03

「絵踏」と『日本美術の発見者たち』

[以下の小文は、季語随筆日記「徒然草」(February 01, 2005)に書いたものの転載です。 (05/02/03 記) ]


 今日の表題に選んだ「絵踏(えぶみ)」は、2月の季語である。
 江戸の世になりキリスト教の禁教令が徹底され、隠れキリシタン(切支丹)ではないかどうかを確かめるため、キリストの絵姿などを踏めるかを検分するという、幕府による取調べ方法の一つである。
(参考に、「キリシタン関係史」年表をリンクさせておく)
 我々に馴染みの言葉では、「踏み絵」がある。この踏み絵と絵踏とは、どう違うのか、同じなのか。
 踏み絵(踏絵)とは、踏ませるキリストの似姿(あるいはマリア像)などを指し、絵踏とは、踏む(踏ませる)行為を指すと言う。
今村カトリック教会」というサイトで踏み絵の事例などを見ることができる。
 では何故、この「絵踏」が二月の季語となったのか。
 それは、江戸時代、長崎において、(旧暦の)正月の四日から八日までの間、この絵踏を行事としていたからである。「長崎の町やその周辺での宗門改めは徹底したものでございましたから、長崎抜きに語ることの出来ない季語ではありますものの、切支丹と縁のない大方の地の人々にとっては丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなものとして存外捉えていたのかも知れない」という(「多聞庵」中の「長崎歳時記」「長崎の季語を探す」の項より)。
「丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなもの」として捉えていたのはなぜかというと、「江戸初期に始まり、一八五七年の廃止まで長崎奉行の下では、毎年正月四日から行われ、とりわけ八日の丸山町の絵踏みは、着飾った遊女らがこれを行い、久米の仙人ならずとも、遊女の素足の脛が拝めるとあまた見物が押し寄せたとい」うのだから、無理もない。

 さて「絵踏」などという季語を採り上げたのは、今、読んでいる『日本美術の発見者たち』(矢島新・山下裕二・辻惟雄著、東京大学出版会)の中に、辻惟雄著の『奇想の系譜-又兵衛-国芳-』(美術出版社)が扱われていたからである。
 小生は、70年刊のこの本を学生時代の終わり頃か卒業間もない頃に古書店で購入した記憶がある。今は、ちくま学芸文庫にて読むことができるようだ。本書の中で、曾我蕭白や伊藤若冲、岩佐又兵衛ら瞠目すべき存在を知ったのだった。
 なんとなく、日本の絵画芸術というと、墨絵を典型とする典雅・古雅・優雅・枯淡・格式を思ってしまう。浮世絵にしても、日本絵画の裾野の広さという意味で歌麿、写楽、北斎などということになるが、なんといっても、頂点に立つのは雪舟であり狩野派であり長谷川等伯であり、となってしまうのである。
 侘びと寂びを日本文化や芸術の真髄と見なす、ただ、日本にはそれら以外の世界もあるよ、というわけである。
 が、曾我蕭白や伊藤若冲といった、とんでもない画家が、枠には到底嵌らないやつ等がいたのだということ、小生は、そのことに衝撃を受けた。
[ 「美の巨人たち 曾我蕭白 群仙図屏風」(テレビ東京)という頁を見つけたので、ここに紹介しておく。 (05/02/07 追記) ]

 が、ある意味、大きすぎて、受け止めきれなかった。彼らの凄さを感じるには、西洋絵画も東洋も日本の絵画などもそれなりに幅広くみる過程が小生には必要だったようだ。何が侘びだ、何が寂びだ、それは幕府や権力におもねることを前提にするから、気迫や技量はあっても、慎ましやかな、涸れ褪せ苔むした時にこそ一層味わいが深まるような世界に汲々と収まってしまうのではないか、蕭白らの画業を前にすると(といっても、多くは画集などでしか見たことがないが)そんな気さえしてしまう。
 彼らの力業を持て余した小生は、購入したとき既に古びていた辻惟雄著の『奇想の系譜』を眺めていたとき、若冲や蕭白よりも、岩佐又兵衛の画業に生唾を飲み込まされていた。
 つまり、岩佐又兵衛の作品を芸術としてではなく、時代の実相を今、この場で眺めている、現実の世界で起きたのは、なんのことはない、こういうことなのだ、こういうえげつないことなのだ、人を斬るとはこんなにも凄まじいことなのだ…云々と呆れ果てていたのだった。
 芸術だとか作品だという観念を抱く暇さえ与えられないような生々しさを覚えつつ眺め入っていた。没入していたのだった。
 もしかしたら、そういう人は今も多いのではなかろうか。若冲や蕭白を認める人も、未だ、岩佐又兵衛は芸術家の範疇に収めきれないでいるのではないか。
アートゲノム第23回~埋もれた宝を発掘する--岩佐又兵衛の場合」というサイトを覗いてみて欲しい。小生の解像度の低いパソコンではあまり絵は鮮明ではないが、でも、迫力や雰囲気は感じられるだろう。
「写真の絵巻物の描写を見ていただきたい。この表現は、もはや「鮮烈」というレベルを超えている。「血しぶきを描いている」という生易しいものではない。絵の中で実際に血しぶきが上がっている--そうは見えないだろうか。」とは、同感以外にない。
 こうした絵巻物を描いた岩佐又兵衛は、かの「織田信長に謀反を企てたことで知られる荒木村重の末子」なのだという。さもあらん、である。
 彼の絵は残酷趣味というが、例えば日本刀で人を斬ると、血飛沫が飛び、肉片が散るという現実とは、こんなものだと当たり前に描いているだけなのではないか。その当たり前が、やわな現代人には残酷に映るだけなのではないか。
 日本刀というのは、まさに斬る技術をトコトン、窮めた世界でも無比の武器なのである。西洋の剣は突き刺すが、日本刀は、バッサリと切り分ける。刀の反り具合の冷徹なる柳眉さの持つ残虐さ。

 『日本美術の発見者たち』は、まだ、半分ちかくを読んでいるだけで、そこで「3辻惟雄――奇想の系譜」の章に出くわしたわけである。
 ところで、辻惟雄がここに登場するのだが、本書の著者でもある。一方、『奇想の系譜』は、小生が読んでからでさえも、四半世紀ほどは経過している。失礼な話しながら、小生は、辻惟雄というのは、相当な老大家か、あるいは既になくなられているのだと思い込んでいた。
 してみると、辻惟雄は『奇想の系譜』を実に若い頃に書いたことになるわけだ。若いから書いていけないということはないが、鑑識眼を賞賛すべきなのか、彼の嗜好のユニークさを賛美すべきなのか。
 リンクさせてあるが、せっかくなので、『日本美術の発見者たち』の目次だけ、以下、示しておきたい:

「眼の革命」――日本美術の発見者たち(矢島新)
1柳宗悦――民芸の発見
2岡本太郎――縄文の発見
3辻惟雄――奇想の系譜
4近世宗教美術の発見(円空と白隠)
5赤瀬川原平――超芸術トマソンの発見
6「眼の革命」から日本美術の構造を考える
岡本太郎の痛撃――「日本美術史」の内側と外側(山下裕二)
対談『奇想の系譜』以前・以後(山下裕二×辻惟雄)

 小生には、柳宗悦や白隠以外は作品や著作に親しんできた。本書の、美を伝統や格式や技術や歴史などに安易に還元しない、善悪や技術の巧拙、格式の有無などに囚われないところにこそ、美を越えた、あるいは美とは疎遠かもしれないけれどインパクトを持つ作品群や作家群が発見されるのだというパースペクティブも、小生には斬新というわけではない。
 但し、柳宗悦や白隠については、この頃、やっと興味が湧いてきたところであり、追々、触れていくことだろう。
 日本には(日本だけじゃないと思うが)まだまだ宝が埋まっている。あまりに卑近だから見えなくなっているかもしれないような、そんな間近にも。そんな気さえ、起こさせる本であり本書のビジョンなのである。

 直接、「絵踏」とは結び付かない話の展開となったが、<美>は恐らくは至る所にある、<美の創出者>も、きっと至る所にある、さらに敷衍して言うと、<美の実践者>だって、至る所に居るのだと言ってもいいのだと思う。
 その美を感じ、見出し、注目し、際立たせるよう努めるか否かという「絵踏み」は、実は、日々、行っている…、あるいは行いうるはずなのだ、と思う。
 埃を被り、生活に窶れ、みすぼらしくなり、影が薄くなり、あまりに平凡なものとしてしか見えなくなっている、そんな表面の腐蝕した宝は、地上の星々のように無数に散在し煌いているように小生には思えるのである。
 その絵踏みする対象が自分だっていいし、隣りの人でもいい。何か見つけ出し引き出すこと、それができたら、凄いことだと思う。

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