« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »

2005/02/26

マルセル・プルースト著『プルースト評論選〈2〉芸術篇 』

原題:「シャルダンのこと」

 マルセル・プルースト著『プルースト評論選〈2〉芸術篇 』(保苅瑞穂編、ちくま文庫)を読んでいたら、中の絵画評論でシャルダンのことを褒める項があった。
 小生、シャルダンのことは知らない。
 シャルダンって誰? 早速、「シャルダン プルースト」でネット検索したが、うまくヒットしない。
 小生の知るシャルダンというと、なんといっても、テイヤール・ド・シャルダンで、『現象としての人間』(みすず書房)はあまりに有名(けど、読んだかどうか記憶に定かではない)。
 あと、シャルダンというと、あまいキンモクセイの香りのトイレ用芳香剤を思い浮かべる。
 それとも、周防監督の作品で、主人公を役所広司が演じている「Shall We ダンス ?」を省略してシャルダンと呼称するのか、なんて思ったり(尤も、ジェニファー・ロペス、リチャード・ギア主演の「シャル・ウイー・ダンス」もあるが)。
 が、やっと何とか画家・シャルダンのを見つけることができた。

続きを読む "マルセル・プルースト著『プルースト評論選〈2〉芸術篇 』"

| | コメント (8) | トラックバック (1)

ミラー著『アインシュタインとピカソ』

旧題:「ミラー著『アインシュタインとピカソ』から」

 本書はタイトル名だけで買ったといっていい本である。その意味で罪作りな本ではある。
 小生ならずともアインシュタインのファンは世の中に沢山いるだろう。一方、ピカソのファンも、これまた数えきれないほどにいるに違いない。その両者を並べれば…、これは売れる。筆者は、アーサー・ミラー。訳者は松浦俊輔氏。
 せっかくなので、生命誌研究館の中村桂子女史の本書に寄せての感想を紹介しておく。良識ある人は、そのサイトを読めば本書の紹介という点で十分だと思う。

続きを読む "ミラー著『アインシュタインとピカソ』"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

麻生幾著『極秘捜査』

旧題:「麻生幾著『極秘捜査』(文春文庫)雑感」

 副題に「政府・警察・自衛隊の[対オウム事件ファイル]」とある。
 小生は麻生幾氏という方の本を初めて読むのだが、著者紹介には作家・ジャーナリストとある。その割には、本書はあくまで官権と反政府組織であるオウムとの戦いという視点で書かれている。
 警察や自衛隊や、阪神・淡路大震災の対応で厳しい批判の対象となった政府(村山内閣)について、批判的な視点は基本的に見つからない。僅かに、誰もが知る警察のネックである刑事と公安の対立が最後に若干触れられるだけである。
 本書を小生は車中での休憩時に読んだので、以下、ないよう案内を兼ねて、車中でのメモ書きを関係する箇所だけ抜粋して列挙する。

続きを読む "麻生幾著『極秘捜査』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/20

松井章著『環境考古学への招待』

[下記は、本日付の季語随筆日記から、書評エッセイに関わる部分を転記したものです。]

 ところで、今日は、「2月の季題(季語)一例」によると、「鳴雪忌(2月20日、内藤鳴雪翁の忌日)」のようである。3年前、書店での衝動買いで『鳴雪自叙伝』(岩波文庫刊)を入手し読んだことがあって、ユーモアのある文章に好感を抱き、鳴雪には親近感を抱いている。それだけに彼を今日の表題に選ぶことも考えたほどである。
 せっかくなので、本書の出版社側の謳い文句などを転記しておく:

幕末から明治維新,その後の社会変動を身をもって体験した内藤鳴雪(1847-1926)が,伊予松山藩の藩士として,教育行政官として,子規派俳句の重鎮として歩んだ生涯を詳らかに語る.おおらかで直截な語り口には独特のユーモアが漂い,幕末明治の士族の生活の様子など,著者ならではの貴重な見聞も多い.(解説=宗像和重)
(転記終わり)

「東雲のほがらほがらと初桜」や「元日や一系の天子不二の山」などの内藤鳴雪の句がネット(「俳句の里巡り」より)では見つかった。

 さて、苦し紛れで「木の実植う」を選んだのは、土に関する季語を選びあぐねた結果なのである。昨日、読了した松井 章著『環境考古学への招待   ― 発掘からわかる食・トイレ・戦争 ―』(岩波新書刊)が面白く、紹介しておきたかったのだ(以下、松井章氏については敬称を略させていただく。尊敬のしるしとして)。

続きを読む "松井章著『環境考古学への招待』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/19

『カフカ短篇集』あれこれ

 例によって読書感想文である。但し、今回は感想文にもならないかもしれない。
 予め断っておきます。
 小生はカフカの有名な作品や日記は幾度となく読んだが、『変身』などを例外として、カフカの短篇集を再読したことはなかった。今回が初めての再読となるかもしれない。読んだのは、『カフカ短篇集』(池内紀編訳、岩波文庫刊)で、この文庫で読むのはこれまた初めてである。

 読み終えて、もっと早く読んでおけばよかったと思った。発見があったからである。幾つかの作品に新鮮なショックも受けた。その衝撃は何ゆえかの分析は、今はできそうもない。一番いいのは、自分なりに虚構作品を書いて、拙いなりに応用して見せることだと思う。
 本書所収の作品のどれも面白い。「掟の門」とか「判決」とか「中年のひとり者ブルームフェルト」とか。
 ここには本書の中で一番短い作品(の一部)を紹介しよう。まさに小品である。紹介といっても、内容についての小生の下手な解釈を示そうというのではなく、本文(の一部)を引用するので、関心のある方は味読して欲しいというだけである。

続きを読む "『カフカ短篇集』あれこれ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/14

天沢退二郎他著『名詩渉猟』

 天沢退二郎他著『名詩渉猟 わが名詩選』(詩の森文庫 102 思潮社)を読んだ。
 でも、楽しんだと言えるかどうか。

 本書の謳い文句を転記しておくと、「詩の森文庫創刊!既成の愛唱詩集を捨てよ 天沢退二郎、池内紀、岡井隆、塚本邦雄、立松和平、坪内稔典、四方田犬彦 オリジナルな名詩選を繙くことで、かつてない詩的体験が訪れる」とのこと。
 詩の世界にも疎い小生なので、いずれ劣らぬ詩人や作家たちの、それぞれののオリジナルな名詩選を一冊の本で渉猟できるというのは、ありがたいことだった。
 とはいえ、溜め息頻りの詩体験でもあったが。

 小生など、詩というと、遠い昔の『一握の砂』の石川啄木や 『二十億光年の孤独』の谷川俊太郎に始まり、『北原白秋詩集』を時に繙き、学生時代のほんの一時期、既に晩年を迎えていた金子光晴に凝り、ほとんど勉強のためという心境で草野心平らを齧った程度で、小生には遠い世界だったように思える。
 鮎川信夫や谷川雁は、名前だけ、中原中也も個々の詩に輝きを感じるだけ、大岡信も詩人としてより、評論家として彼の著に親しんでいただけ。宮沢賢治の詩も、初めて感動したのは94年の失業時代になって初めて。吉本隆明が好きだということで高村光太郎詩集を覗き、肝心の吉本隆明の詩はネットで覗くだけ。
 一番、最初に覗いた詩集というと、ゲーテ詩集だった。それも、好きな人がゲーテの詩を好きだという噂を聞きつけたからに過ぎず、ゲーテの詩の世界というより、ゲーテの詩の言葉の端々に憧れの人を想うという純情可憐なもの。

続きを読む "天沢退二郎他著『名詩渉猟』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/06

ブラッグ著『巨人の肩に乗って』

 メルヴィン・ブラッグ(Melvyn Bragg)著『巨人の肩に乗って―現代科学の気鋭、偉大なる先人を語る』(熊谷千訳、長谷川真理子解説、翔泳社刊)を読了した。
 表題の「巨人の肩に乗って」というのは、科学者などの伝記本好きならずとも、かのアイザック・ニュートンの「わたしが人より遠くを見てきたのは、巨人の肩に乗っていたからだ」に由来することは、小生が説明するまでもなく、それと気付いていることだろう。
 但し、本書によると、この言葉は既に過去において引用されているのだとか。小生は初耳だった。念のため、当該部分を引用しておくと、「シャルトルのベルナールいわく、われわれは巨人の肩に乗った小人のようなものだ。当の巨人よりも遠くを見わたせるのは、われわれの目がいいからでも、体が大きいからでもない。大きな体のうえに乗っているからだ。1159年、ソールズベリーのヨハネス」だとか。
 小生ならずとも子供の頃などに科学者など英雄の伝記を読むのが好きだったという人は、結構、多いのではなかろうか。小生のように、いい年になってからも、毎年何冊かは欠かさず読む人は少ないかもしれないが。
 尤も、本書は伝記本ではない。「アルキメデス、ガリレオ・ガリレイ、サー・アイザック・ニュートン、アントアーヌ・ラヴォアジェ、マイケル・ファラデー、チャールズ・ダーウィン、ジュール・アンリ・ポアンカレ、ジークムント・フロイト、マリー・キュリー、アルバート・アインシュタイン、フランシス・クリック、ジェイムズ・ワトソン」という12人の科学者らの知的創造の秘密を、現代の碩学、知の巨人たちに語ってもらうという趣向の本なのである。

続きを読む "ブラッグ著『巨人の肩に乗って』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/03

宗左近著『日本美・縄文の系譜』

 宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)を読了した。その上で、本書そのものより、その周辺を巡ってきた。自分としては、本書や縄文に絡む輪の広がりを楽しめて有意義だったが、そろそろ本書の紹介に取り掛からないといけない。
 と言う舌の根も乾かぬうちに、前回、紹介し切れなかった詩人・宗左近と作曲家・三善晃氏との対談を以下に示しておきたい。
 この対談は、「合唱団弥彦で三善晃氏に委嘱された合唱曲『夜と谺(こだま)』によせて、作曲の三善晃と、詩人の宗左近氏の対談が行われました。」とのことで、1996年 8月25日(日)に、弥彦総合文化会館大ホール(新潟県弥彦村)にて行われたもの。表題は、「合唱団『弥彦』夜と谺(こだま)~対談「宗左近、三善晃」」となっている。

 ついでに、「西村我尼吾句集「官僚」へ 」と題された宗左近氏による西村我尼吾論があるサイトで読めるのでアドレスを示しておく。
 宗左近氏の詩「墓」や「来歴」を読むと、彼のワールドの一端が感じられるかも。

 下記のサイトでは、小山修三さん、ヤオヨロズのみなさんらにより、縄文の世界が分かりやすく紹介されている。
 その冒頭には、「詩人・宗左近氏の著書「日本美 縄文の系譜」の序文の一節」として、宗左近氏の魂の叫びとも言うべきが紹介されている。
 これは宗氏の詩や表現活動を支える情熱の一番深い部分を率直に表現していると思う。
 

  見えないもの、それを見たい。
  聞こえないもの、それを聞きたい。
  触れないもの、それを触りたい。
  嗅げないもの、それを嗅ぎたい。
  味わえないもの、それを味わいたい。
  感じられないもの、それを感じたい。
  そして
  無いもの、それをあらしめたい。


 このサイトにもあるように、本書は、「遠い過去の縄文人の「心とタマシイ」に触れたいという詩人の熱い願望が語られています。そして詩人は「詩=愛=夢」を方法として、日本文化の伏流水を辿りながら、縄文人の「心とタマシイ」に迫ってい」く本なのである。

 その伏流水はどんな人に溢れ出ているか。例えば宗氏は、芭蕉に注目している。
 宗氏は「想像をする。江戸のどこかで、芭蕉は縄文の土器か土偶を見て、ひどく感動したことがあったのではないか、と。「そぞれ神」とは、土器に宿っていた神であったかもしれない。「道祖神」とは、土偶に宿っていた神であったかもしれない。このことについて、語る文献は皆無である。だが、文献に残ったものだけが、真実ではないのである」
 まさにこの理解の仕方や受け止め方に宗氏の特長があると思われる。「このことについて、語る文献は皆無である。だが、文献に残ったものだけが、真実ではないのである」。そして宗氏の詩人としての魂が、縄文の魂を芭蕉らに感じるというのだ。芭蕉に縄文の魂を感じる根拠は文献的にはない。宗氏の芸術家としての直感以外にないのだ。
 それゆえ、野暮な反論など無用である。本書は、宗氏のワールドが示されている本なのだ。

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 言うまでもなく芭蕉の辞世の句と言われている句である。宗氏によると、「枯野」は「京阪神や東海地方の枯野ではない。蝦夷の、東北の、『奥の細道』で出あった枯野である。あるいは、そのさらに奥にある枯野である。出あえないままの枯野」なのだ。
 宗氏は、縄文の魂を受け継ぐ現代作家や詩人として、たとえば寺山修司を挙げる。寺山の恐山への関心に注目するのだ。縄文の魂を現代人は忘れている。しかし、縄文のほうは忘れたりはしない。いつか、どこかで取り憑こうとしていると宗氏は語る。
 あるいは、斎藤茂吉に、石川啄木に、太宰治に縄文の魂が取り憑いていると、宗氏は語る。
 どこか破滅型というか、心に罪の意識を抱いているというのか、引き裂かれた魂を感じさせる作家・詩人らに縄文の魂を見ておられるように、小生は感じる。
 ここまで来ると、縄文論を遥かに超えて、「見えないもの、それを見たい。」で始まる歌を始め、空白を読み取ること、沈黙を聴くこと、天が裂ける状態にもたらす事に彼が拘っていたことが分かる。それで十分なのだ。
 彼自身、本書の「はじめに―国の記憶とは」の末尾で語っている。
「本書は、詩=愛=夢を方法として書く、日本人の非物質(心とタマシイ)の物語です。ルーツから、半死半生の日本の「国の記憶」をよみがえらせようという企てです」と。

 次回は梅原猛か岡本太郎を採り上げたい。

                               (03/06/29)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

宗左近著『日本美・縄文の系譜』承前

 宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)を読了した。
 まず、宗左近の簡単なプロフィールを:

「自分と死者との交感から紡ぎだされる無限の空間と時間を言葉に結晶させる独自の詩の世界を展開」と記した上で、「日本人の芸術・精神の母胎として縄文をとらえ、評論『日本美 縄文の系譜』(新潮社)などを著す」とある。 
 宗左近自ら収集した縄文土器類200点を寄贈して成った芸術館がある。その名も、(加美町立)縄文芸術館という。
 そのサイトには宗左近の縄文への思いが力強く語られている。

「本来の日本人のタマシイは、激しい祈りと熱い愛の複合体です。壮麗な宇宙性をもつ有機体です。雄渾な生命」だとした上で、縄文文化や遺品に日本人の魂を見た。彼は言っている:

「縄文人の遺品がその何よりの具現です。そこには火の激しさと火の優しさが共存しています。動力学と静力学が統合されています。そのため天空への螺旋上昇吊りあげられ運動が起こっています」
 短いメッセージなので、是非、全文を読んでもらいたい。
 また、彼がどんな縄文の遺品(土器)を好んだかを見て欲しい。
 宗左近は縄文の魂は、至るところに残っていると考えている。その魂の火が現代に蘇り、現代人の魂と向き合いぶつかり合うことで、芸術へのエネルギーが生まれると考えるのである。

続きを読む "宗左近著『日本美・縄文の系譜』承前"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗左近著『日本美・縄文の系譜』(前編)

 今、宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)を読み直している。縄文に拘った一連の作家・思想家・芸術家などを改めて読み返してみようという試みの一環である。今後、岡本太郎や梅原猛などを扱うつもりでいる。

 その前段階として、「小山修三著『縄文学への道』再読 」を既に公表しているが、この宗左近著『日本美・縄文の系譜』についても、近いうちに紹介したいと思っている。
 さて、その前に、本書の末尾に気になる一節があったので、今回はその点に触れたい。
 その一節というのは、「東北の生んだ重要な思想家のうち、少なくとも安藤昌益、平田篤胤、埴谷雄高の三人だけは、本書で語りたかった。そこには、縄文の伏流水が激しく噴き上げている」という件(くだり)である。
 安藤昌益や平田篤胤はともかく、埴谷雄高については虚を突かれた感があった。
 小生とても、彼が東北は福島と縁(ゆかり)が深いことは知っている。
 実際に生まれたのは、父の事情もあり埴谷の姉と共に台湾においてだった。埴谷の台湾での経験が彼の文学形成に与えた影響については、彼自身、縷縷語っているところでもあり、周知のことだろう。
 が、東北は福島と彼との関係については、あまり深く考えてこなったのである。
 小生自身、以前、埴谷については、<結核>というキーワードとの絡みで簡単に触れたことがある。
 息継ぎの苦しさについては個人的な事情もあり、文学的分析というより、肉体的な地平から埴谷の文体を感覚的に読み取ってみたのである。
 ちょっと長い引用になるが、関連する部分を以下に示す:

 健康な人でも風邪を引いたりすると、多少は経験するものだが、咳き込むようになると息を吸ったり吐いたりする、ただそれだけのことが苦痛となる。下手に息をすると、喉や気管支を刺激しそうで、吸う時は出来るだけ穏やかに、喉などへの刺激をできるだけ減らそうとするし、逆に吐くときでも、ゆっくりゆっくり、少しずつ少しずつ吐き出すのである。
 吐き出すという表現より、風船の表面にある意味で息の微粒子よりも微細な穴が開いていて、そこから空気が静かにさりげなく息というか空気自身が移動していることに気付かないほどに幽かに風船から漏れ出すようであってほしいと、切に願っているような息の仕方をする。
 文章の切れ目、句読点は、息継ぎのようなものだ。一つの息が出来るだけ長く続くのであるべきなのである。それが咳き込まないコツなのである。息をする本人でさえ息をしていることに気付かないほどに深く静かに穏やかな凪の波間のように文章を紡ぐ。
 正に繭から根気良く一本の細い糸を紡ぐかのようなのだ。そうして生きている世界を、そしてこの己が生きている現実の世界から、きっと一本の見えない糸で繋がっているに違いない宇宙に至るまで、ひたすらに息を詰めて息を潜めて渡り移っていこうとする。
 世界は微細な赤い糸で紡がれた宇宙だ。
 メビウスの輪を誰も知っているだろう。細い帯を一回だけ捻った形で両端を合わせた輪だ。その輪の特徴は、何処でもいい、ある任意の点を(つまりは自分が生きている場ならどこでもいいということだ)出発点とするなら、そこから帯の面を辿っていけば、最初は表の面にいたはずなのに、気が付いたら裏側の面に至ってしまう。
 きっと、一本の糸を(息を)決して途切れさせることなく紡ぎ出し、その糸を辿っていく、辿って辿ってひたすらに糸の導くがままに旅をする人間は、やがては宇宙をも一本の糸で辿りつくすことが出来る、出来ると信じているに違いない。
                              (引用終わり)

 埴谷の文体に小生は(小生ならずとも)直感的に息をするただそのことが苦しみである肉体的事情を感得し、それが文体形成に関わっていると感じたのである。
 が、宗左近氏の指摘で、埴谷と東北(あるいは縄文文化との関わり)についても示唆を得たような気がしたのである。
 埴谷は「文学と私」の中で、台湾での体験が彼に文学の根を与えたという話をしている。
 では何故、彼(の父)が台湾に渡ったかというと、父の父、つまり祖父が失った土地を埴谷の父が取り返すため、見入りのいい台湾へ渡ったという事情がある。
 文学形成の根っこは台湾にあるとしても、そうさせしめた契機は埴谷の本籍地である福島の地にあったというわけである。
 彼は台湾で空気銃を使って生き物を殺したという経験を持つ。それが彼に深い、根源的な困惑を与えた。

生きてるものが何かに殺される瞬間、自分の生を保とうと思って飛び上がったけれども自分の力はそこで尽きて、垂直に落ちてきた。それが背景が青空でなんにも無いので非常に鮮明に見えたわけですね。これは少年ながらに嫌な気持ちになって、止めたわけですけども。これは僕の気持ちの奥底の、まあ奥底の、またその奥底に、なんか重い手触りのあるものとして、沈殿してるわけです。
それで僕は、文学のなかでも人間というものをしばしば、弾劾する(笑)というふうなことを書いています。もちろん人間に対する肯定というようなものもしてますけれども、否定・弾劾ということもしまして。それは人間がいつもその人間を殺すという我々の歴史のなかの世界を取り上げて、人間自身を弾劾するばかりじゃなしに、人間が生物を、殺して食べることによって自分の生命を保持していると。だいたいあらゆる生物は、ほかの生物を食べていますけれども、人間ほどあらゆる生物を殺して食べるものはない、と。しかも単に食べるとき以外にも、娯楽として、殺すと…。こういうふうな、娯楽としてもほかの生物を殺すという動物はいないんです本当に。
[引用は、「文学と私」から]
 
 生き物を殺す経験は子どもの頃に多少は誰でも経験する。
 昆虫採集は、今日、都会ではあまり経験できないだろうが、子供たちは様々な形で生き物を殺したり虐めたり(時には仲間の誰彼を虐めたり)する経験を今日でもしていると思われる。
 けれど、その経験が嫌な体験として心に刻まれることが仮にあっても、だからといって「生物史のなかでこれほど恐ろしい動物が、発生し成長したのはまあ人間を以って嚆矢とすると、いうふうな考え方がその後だんだん僕の文学の
なかに出てきまして(笑)」とまで考える人間は、ざらにはいない。
 その発想を支えた土壌は何なのか。きっと宗左近氏は、東北という土地柄であり、東北に長く根強く残った縄文的心情の遠い影響なのだと考えているのだろう。その考えが正しいかどうかは、俄に判断が付かないが、少しは考えてみてもいいと感じたのである。


                                 (03/06/16)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「絵踏」と『日本美術の発見者たち』

[以下の小文は、季語随筆日記「徒然草」(February 01, 2005)に書いたものの転載です。 (05/02/03 記) ]


 今日の表題に選んだ「絵踏(えぶみ)」は、2月の季語である。
 江戸の世になりキリスト教の禁教令が徹底され、隠れキリシタン(切支丹)ではないかどうかを確かめるため、キリストの絵姿などを踏めるかを検分するという、幕府による取調べ方法の一つである。
(参考に、「キリシタン関係史」年表をリンクさせておく)
 我々に馴染みの言葉では、「踏み絵」がある。この踏み絵と絵踏とは、どう違うのか、同じなのか。
 踏み絵(踏絵)とは、踏ませるキリストの似姿(あるいはマリア像)などを指し、絵踏とは、踏む(踏ませる)行為を指すと言う。
今村カトリック教会」というサイトで踏み絵の事例などを見ることができる。
 では何故、この「絵踏」が二月の季語となったのか。
 それは、江戸時代、長崎において、(旧暦の)正月の四日から八日までの間、この絵踏を行事としていたからである。「長崎の町やその周辺での宗門改めは徹底したものでございましたから、長崎抜きに語ることの出来ない季語ではありますものの、切支丹と縁のない大方の地の人々にとっては丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなものとして存外捉えていたのかも知れない」という(「多聞庵」中の「長崎歳時記」「長崎の季語を探す」の項より)。
「丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなもの」として捉えていたのはなぜかというと、「江戸初期に始まり、一八五七年の廃止まで長崎奉行の下では、毎年正月四日から行われ、とりわけ八日の丸山町の絵踏みは、着飾った遊女らがこれを行い、久米の仙人ならずとも、遊女の素足の脛が拝めるとあまた見物が押し寄せたとい」うのだから、無理もない。

続きを読む "「絵踏」と『日本美術の発見者たち』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »