宗左近著『日本美・縄文の系譜』(新潮選書刊)を読了した。その上で、本書そのものより、その周辺を巡ってきた。自分としては、本書や縄文に絡む輪の広がりを楽しめて有意義だったが、そろそろ本書の紹介に取り掛からないといけない。
と言う舌の根も乾かぬうちに、前回、紹介し切れなかった詩人・宗左近と作曲家・三善晃氏との対談を以下に示しておきたい。
この対談は、「合唱団弥彦で三善晃氏に委嘱された合唱曲『夜と谺(こだま)』によせて、作曲の三善晃と、詩人の宗左近氏の対談が行われました。」とのことで、1996年 8月25日(日)に、弥彦総合文化会館大ホール(新潟県弥彦村)にて行われたもの。表題は、「合唱団『弥彦』夜と谺(こだま)~対談「宗左近、三善晃」」となっている。
ついでに、「西村我尼吾句集「官僚」へ 」と題された宗左近氏による西村我尼吾論があるサイトで読めるのでアドレスを示しておく。
宗左近氏の詩「墓」や「来歴」を読むと、彼のワールドの一端が感じられるかも。
下記のサイトでは、小山修三さん、ヤオヨロズのみなさんらにより、縄文の世界が分かりやすく紹介されている。
その冒頭には、「詩人・宗左近氏の著書「日本美 縄文の系譜」の序文の一節」として、宗左近氏の魂の叫びとも言うべき歌が紹介されている。
これは宗氏の詩や表現活動を支える情熱の一番深い部分を率直に表現していると思う。
見えないもの、それを見たい。
聞こえないもの、それを聞きたい。
触れないもの、それを触りたい。
嗅げないもの、それを嗅ぎたい。
味わえないもの、それを味わいたい。
感じられないもの、それを感じたい。
そして
無いもの、それをあらしめたい。
このサイトにもあるように、本書は、「遠い過去の縄文人の「心とタマシイ」に触れたいという詩人の熱い願望が語られています。そして詩人は「詩=愛=夢」を方法として、日本文化の伏流水を辿りながら、縄文人の「心とタマシイ」に迫ってい」く本なのである。
その伏流水はどんな人に溢れ出ているか。例えば宗氏は、芭蕉に注目している。
宗氏は「想像をする。江戸のどこかで、芭蕉は縄文の土器か土偶を見て、ひどく感動したことがあったのではないか、と。「そぞれ神」とは、土器に宿っていた神であったかもしれない。「道祖神」とは、土偶に宿っていた神であったかもしれない。このことについて、語る文献は皆無である。だが、文献に残ったものだけが、真実ではないのである」
まさにこの理解の仕方や受け止め方に宗氏の特長があると思われる。「このことについて、語る文献は皆無である。だが、文献に残ったものだけが、真実ではないのである」。そして宗氏の詩人としての魂が、縄文の魂を芭蕉らに感じるというのだ。芭蕉に縄文の魂を感じる根拠は文献的にはない。宗氏の芸術家としての直感以外にないのだ。
それゆえ、野暮な反論など無用である。本書は、宗氏のワールドが示されている本なのだ。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
言うまでもなく芭蕉の辞世の句と言われている句である。宗氏によると、「枯野」は「京阪神や東海地方の枯野ではない。蝦夷の、東北の、『奥の細道』で出あった枯野である。あるいは、そのさらに奥にある枯野である。出あえないままの枯野」なのだ。
宗氏は、縄文の魂を受け継ぐ現代作家や詩人として、たとえば寺山修司を挙げる。寺山の恐山への関心に注目するのだ。縄文の魂を現代人は忘れている。しかし、縄文のほうは忘れたりはしない。いつか、どこかで取り憑こうとしていると宗氏は語る。
あるいは、斎藤茂吉に、石川啄木に、太宰治に縄文の魂が取り憑いていると、宗氏は語る。
どこか破滅型というか、心に罪の意識を抱いているというのか、引き裂かれた魂を感じさせる作家・詩人らに縄文の魂を見ておられるように、小生は感じる。
ここまで来ると、縄文論を遥かに超えて、「見えないもの、それを見たい。」で始まる歌を始め、空白を読み取ること、沈黙を聴くこと、天が裂ける状態にもたらす事に彼が拘っていたことが分かる。それで十分なのだ。
彼自身、本書の「はじめに―国の記憶とは」の末尾で語っている。
「本書は、詩=愛=夢を方法として書く、日本人の非物質(心とタマシイ)の物語です。ルーツから、半死半生の日本の「国の記憶」をよみがえらせようという企てです」と。
次回は梅原猛か岡本太郎を採り上げたい。
(03/06/29)
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