小熊英二著『単一民族神話の起源』
本稿は、下記の書を扱う:
小熊英二著『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社刊)
小生は、15年戦争を思うとき、その背景に狭量な右翼思想なり超保守主義の思想があるものと思っていた。
その一つの典型が、保守派の政治家などが時折、口を滑らす単一民族云々の発想だろうと思っていた。「天皇を中心とした神の国」など、その分かりやすい例だろう。
ちなみに、マスコミなどはこの発言を「神の国」発言として言及するのが通例だった。そこに違和感を持ったのは小生一人ではないはずだ。単に「神の国」発言ないし発想だったとしたら、それは一つの識見であるし、八百万の神々の国、森羅万象のそれぞれに神がいるという素朴な、宗教というより習俗というか民俗というか、そういう自然(動物)と人間とを截然とは切り分けてしまわない発想はあったのだろうし、今もあってもいいと思う。
問題なのは「天皇を中心とした」という冠があるから、非難の対象になるわけで、まるで戦前に戻そうかというようなそんな発想で政治を行われては堪らないと考えるのだ。なのに、マスコミの記事では「神の国」発言と見出しに明記されている。
これでは焦点がまるでボケている。
余談はともかく、繰り返すが小生は、戦前の日本は、極端な単一民族思想に支配されているものとばかり思っていたのだ。
それゆえ、小生は、自分なりに古代史や考古学の文献を漁り、日本が決して単一民族の国などではないし、むしろ多様な出自を持つ民族や集団の集合だということを学んできたのである。無論、異論の余地のないほどに日本人の起源が明確になっているわけではないことも承知している。
そのことは天皇についても妥当する。未だに天皇が日本古来の出自なのか渡来のものなのか、分からないのだ。
天皇陵の専門家による発掘と研究、其の上での将来いへ向けてのきちんとした保存を許さないのは、天皇家の出自が露見するのが困るからだという意見さえある。
このままでは、天皇陵が雨ざらしのままになってしまう。保存とは名ばかりなのだ。
幕末や明治維新当時に性急に天皇陵とされたものに、実はそうでないものがある可能性があるし(逆もありえるということ)、伝・天皇と天皇陵が違うのではないかという疑義が生じる由縁でもある。つい、先日も改めて伝・継体天
皇陵は、違う人物のものであり、継体天皇の陵は別の陵なのではないか云々と話題になったばかりだ。
いずれにしても、多様な由来を持つ人々(集団)の集まりであり、それがかなりの程度、交錯し混合し、あるいは共存して今日に至っているのだと見なして大きくは違わないだろう。
少なくとも縄文時代より、あるいは弥生時代より、他の民族や集団が混じることなく、日本人が一つの民族として繋がってきたわけでないことは明らかだろう。
あるいは混じることがあったとしたら、とっくの昔に完全に溶け込んでしまって、ほぼ実質的に単一民族になったというわけではないことも確かだと思う。
むしろ、多様な集団が混在してきたのだ。従来、日本において「クニ」というと、各地域の多くは藩という形で区画された個々の単位を指していた。「おクニ」はどちらですかという挨拶が、日本人同士の間で交わされたりしていたものだ。
いまも、そうしたおクニ意識は根強いのではないか。
幕末から明治維新の頃、出自するクニが違い、また、喋る言葉があまりに違うもので、蘭語や英語のできる連中は、英語などで会話していた場合もあるという。
それが急速に明治維新以降、中央の権力により、言葉が日本語に収斂させられ、クニというと郷土であるより、国家としての日本を意味するように意識の変革が為されたのである。
これまた余談だが、言文一致運動という時、日常使う言葉を文章に使うと考えられがちだが、その別の側面として、誰が(どのような集団が、地域が)日常的に使っていた喋る言語と文章とを一致させるかの運動でもあったことを銘記しておいてもいいのではないか。所謂、東京弁(江戸弁)に収斂させようとしたのだろうか。
関西弁(それだって種類がいろいろあっただろう)でもないし、長州や薩摩の言葉でもない。どこかの地域や集団の間で使われていた日常会話の言葉を全国標準にしようとした国家の働きかけと言文一致運動は並行するものだったのか(それとも、そうでなかったのか)。
さて、本書を読んで冒頭で小生は、己の思い込みを呆気なく覆されてしまった。本書の序章の冒頭に二つの文章が示されている。まずは、それを引用しておく:
大日本帝国は単一民族の国家でもなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先がツングウスであり、蒙古人であり、インドネシア人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし……帰化人のいかに多かったかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである。
日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においてはいはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培はれて形成せられたものである。
「この二つの文章は、いずれも太平洋戦争中の一九四二年に発表されたものである。前者は総合雑誌の巻頭時評で、後者は文部省社会教育局が発行した本の一部だ」そうである。
この二つの文章を読むと、小生も思い込んできた、「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」という前提が崩れてしまう。
つまり、単に単一民族神話を崩せれば、軍国主義や植民地支配に繋がる思想が崩せるのだという単純なものでは決してないということだ。
日本民族(こうした呼称自体が、すでにあまりに一つの見方に引き摺られていることになるが、ここでは問わない)が、多様な民族なり集団なりの統合体ないしは複合体であることくらいは、余程のウルトラ民族主義者でないかぎり、先刻承知なわけである。
それでも、単一民族神話が軍国主義の原動力の一つになったことは事実だ。
なぜ、そんなことが可能だったのだろう。
「小熊英二研究室」
[旧題「小熊英二著『単一民族神話の起源』雑感(1)」としてメルマガにて公表済みです。(02/12/04記)]
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