古矢 旬著『アメリカ 過去と現在の間』
ブッシュ現大統領のアメリカのことについては、また、ブッシュ大統領の登場以後のアメリカや世界、そして日本のことについては、幾度か言及してきた。
小生など、ジョージ・W・ブッシュ氏(Bush,George Walker)がゴア氏らと共に、大統領候補に名乗りを挙げた時、まさか彼が大統領になるはずなどありえないと高を括っていた。直感的なものに過ぎないが、視野の狭さ、信念の強さというより頑迷固陋なまでの自説への固執、かならずじも秀でているとは思えない知性など、どう見てもアメリカの大統領になるには相応しくないと思っていたのである。
勿論、小生の読みは明らかに外れた。しかも、再選までされてしまった。
アメリカ国内でも大統領の資質に欠けると感じている人が多いというが、日本の首相や政権内部の方々、経済界の一部の方たち等々は別にして、日本でも、また、ヨーロッパを中心にした世界の多くの国々においても、ブッシュ氏の再選は好ましくないものだと見なされていた…にも関わらず、あと四年は余程のことがない限り政権に居座ることになる。
ああ、見たくない、というのが少なくとも小生の本音である。
しかし、ブッシュ氏がアメリカの現大統領であるという現実は歴然たるものであり、その現実から目を逸らすわけにはいかない。
なぜにアメリカはブッシュ氏を選んだのか。しかも、前回の時のように疑惑が生じる余地があるようなギリギリの勝利ではなく、多少の誤差があってもブッシュ氏の勝利は疑いない程度の差を以っての勝利なのである。
となると、ブッシュ現大統領を選ぶには、何か理由があるに違いない。新聞やテレビ・ラジオ・雑誌、さらにはネットなどマスコミを通じての断片的な情報では理解しきれない何かがあるのだろう。
そう思われ、本書・『アメリカ 過去と現在の間』(古矢 旬著、岩波新書)を手に取ったのである。
以下、小生の勝手な読書感想文になる見込み大なので、出版社側の謳い文句などを先に紹介しておく。
「9・11事件からアフガン戦争、そしてイラク戦争へと突き進み、現職大統領を選挙で勝利させたアメリカを、どう理解したらよいのか――。この数年、世界中で、実に多くのアメリカ論が発表されています。アメリカを帝国としてとらえるもの、「ネオコン」というグループに着目するもの、宗教右翼に焦点をあてるものなど、日本でもいろいろあるようですが…」「そうした数多あるアメリカ論の盲点を突いたのが、この新書、と言ってよいかもしれません。」という。
この点は、小生には何とも言えない。最近は書店に足を運んでいないからである。図書館でも、最近刊行されたアメリカ論の本が多いことは確かだが。
そんな中、盲点を突いたとはどういうことか。
「この本では、アメリカを多層的な過去の累積の上で成立していると考えます。つまり、9・11以後のアメリカを、たまたま政権を握っているブッシュや共和党の思想や現在のアメリカ社会の動向だけで考えるのではなく、建国以来の歴史的な文脈の中でとらえなおしてみよう、というもの」なのだとか。
そうだ、小生の感覚からしても、ブッシュ現大統領の新しい戦争宣言以後、否、その前からかもしれないが、世界がテロに怯え、不穏な空気が濃厚に漂うようになった。にもかかわらず、ブッシュ氏が再選されるとなると、彼を選び支持しつづけるに至るには、それなりの背景と土壌があるはずなのである。
いかに鈍感な小生でも、さすがにそう思うしかない。
出版社側の謳い文句(新書編集部 小田野耕明)では、以下、「著者が、現在のアメリカから取り出すのは、「ユニラテラリズム」「帝国」「戦争」「保守主義」「原理主義」という五つの問題群。これらを、それぞれの起源へとさかのぼりながら、アメリカと世界との関係に光をあてていきます。骨太で重厚なアメリカ論です。あの国を深く考えてみたいという方は、ぜひご一読をおすすめします。」と続く。
アメリカのことを深く考える…。それは世界の行末や日本の命運をも考えることに直結する。それほどに強大な国家になってしまっている。その国家の趨勢を、政権内部に磐石なる基盤を気付いてしまったらしい、「ネオコン」や宗教右翼、あるいは原理主義者が左右する。
日本の農地解放を進めた、あの開明的なアメリカの姿、故・ケネディ大統領のアメリカは何処へ行ったのか。ベトナム戦争であれほどの傷を負ったはずなのに、今は、その傷が癒えたとでもいうのか。あるいは、ベトナム戦争を戦った大義は間違っていない。ただ、信念が揺るぎないものではなかった、戦争の手段・武器・技術・戦略(特に情報戦略)などにおいて思慮と計算と準備に足りないものがあったに過ぎないと思い直しているのか。
アメリカは、あくまで民主的で自由を大切にする、しかも、世界に正義を訴え普及する使命を帯びた特別な国であったし、あるし、ありつづけると思っているというのか。
一方では、小生が長年、不審に思ってきたこと。あのホームドラマを作るアメリカが、先の戦争(アメリカに対しては太平洋戦争)において、終戦直前、広島・長崎に原爆を投下した、しかも、そのことの反省など微塵も見られないのは、なぜなのか。あれほど気さく(そう)なアメリカ人が、あんな残虐な仕儀に至り、且つ、別に悔恨の念に多少なりとも駆られることがないとは、なぜなのか。民主的で自由な、人権を大切にするはずのアメリカが、どうして、あんなことをできたのか、また、反省せずに居られるのか。
それは、先住民であるインディアンを殲滅したことに対する反省も悔恨の情も見られないことと、何か相関しているのか。
その辺りのことも、本書を読んで多少は、理解ができたような気がする。理解したといっても、納得し、仕方がなかったということではなく、反省の余地のないのは、アメリカという国家の建国の事情からして、当然の流れなのだということが分かったというに過ぎないが。
上掲に紹介したサイトには、著者紹介もある。「古矢 旬(ふるや・じゅん)氏は、1947年東京生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程を経て、現在は、北海道大学大学院法学研究科教授。アメリカ政治外交史を専門とする。」とか。
また、同じ頁に、目次が載っている。この目次を眺めるだけでも、本書の概容が見渡せるかもしれない。
広島・長崎への原爆の投下にも拘ってきたが、先住民であるインディアン殲滅という歴史にも小生は関心を抱いてきた。なので、ここでは、インディアン殲滅の歴史や背景、さらには現状のことを教えてくれるサイトを検索し紹介したい。
「1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。」
と、冒頭にあるのは、「神を待ちのぞむ」と題されたサイトの、「アメリカ・インディアン」という頁である。
以下、「文明人は彼らの命ばかりではなく、この崇高な精神を同化政策により徹底的に踏みにじり、現在でも多くのインディアンを苦しめ続けている。ナチスによるユダヤ人虐殺の犠牲者600万人に劣らない血が刻まれた真のアメリカの歴史。そして現在においてもなお虐げられ続けているインディアン。」などと続く。
そうだ、その前に、近年、インディアンという呼称ではなく、ネイティブ・アメリカンという言葉が使われることが多いことに気付く。
インディアンが差別用語に当たる可能性があるからという指摘もあるが、今のアメリカに繋がる人々だというニュアンスを篭め、過去の(インディアンにとっては)悲惨な、(犯した行為としては)残虐非道な歴史を隠蔽したい、忘れ去って欲しいということか。
思えば、やはり近年、ハリウッド映画では白人とインディアンとの戦いを描く、かの西部劇映画は作られていない(し、過去の作品も放映されていない)という印象がある。日本でも実情は同じようだ。忌まわしい過去であり、インディアンへの偏見や差別に繋がるからなのだろうか。
それとも、やはり過去の不始末は忘れて欲しいから、なのか。
上掲サイトには、インディアンという名称を使うに際し、以下の一文が引用されている。ここに再引用させてもらう:
「この「大人になるとき聞かされる物語」のシリーズにおいて、私は「アメリカ・インディアン」と「インディアン」という言葉を使っています。彼らのことを「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶべきだとする意見もありますが、たとえどの呼称を用いたとしても、南北アメリカ大陸の先住民を百パーセント適切に言い表しているとは思えません。アメリカで生まれた人は誰でも「ネイティブ・アメリカン」であるわけですし、私が出会った多くのネイティブ・ピープルは自分たちのことを「インディアン」「アメリカ・インディアン」と胸をはって呼んでいました。ネイティブ・アメリカンと呼びかえればめでたくこの世界から差別がなくなるわけでもないのです。」
さらに、以下の文が引用されている。注目したい:
「インディアンという言葉のもととなったとされる「インディオ」という言葉は、もともと「In Dios」で、これは「聖なる道を生きる人たち」文字どおりに訳せば「In God(神のなかにある)」のことだったと主張するアメリカ・インディアンの社会活動家がいます。その人たちに言わせれば「アメリカ」という言葉も、けっしてアメリゴ・ヴェスプッチという探検家の名前などから採用されたものなどではなく、中米マヤ族の「Amerrika」という言葉からきているもので、これは「四方から風の吹く大地」を意味しているのだというのです。」
元は、「北山耕平・・・・「鷲と少年」より引用」のようである(「「鷲と少年」 ズニ・インディアンに残された物語 北山耕平 再話 菊地慶短 作画 星雲社」)。
小生は、「アメリカ」という言葉は、「アメリゴ・ヴェスプッチという探検家の名前」に由来するものと思い込んできたのだが、本当のところはどうなのだろう。「中米マヤ族の「Amerrika」という言葉」から採用されたのだろうか。
インディアン乃至ネイティブ・アメリカンのことを学ぶには、「『一万年の旅路』 ネイティブ・アメリカンの口承史 ポーラ・アンダーウッド著 星川淳訳 翔泳社より」を逸するわけにはいかない。
一部の方からは、トンデモ本だと酷評されている本書『一万年の旅路』の一読を薦める。あなたはどう、読むだろうか。
本書・『アメリカ 過去と現在の間』の中でも書かれているし、マスコミでも時折、目にする言葉だが、アメリカは有史以来、ほぼ一貫して非均衡の戦争をしてきた(仕掛けてきた)。つまり、圧倒的な軍事力・技術力・経済力・戦略で、まるで戦争にならない相手と戦い、しばしば一方的な勝利を享受してきた。
それは、インディアン殲滅以来の伝統なのだろうか。アフガニスタンやイラクでも、戦争(と呼べるのかどうか)は短期であり、アメリカの勝利宣言で<終結>したのだった。
アメリカはテロとの戦争、新しい戦争を宣言している。そのことの意味も縷縷、マスコミなどで語られているが、本書においても解明されている。世界の民主化を計る。意気込みや善し! と言えるのかどうか。
いずれにしても、政権中枢に「ネオコン」や宗教右翼、あるいは原理主義者が確固たる根を張ってしまたアメリカ。悲しいかな、この現実は如何ともし難い。そのアメリカに追随すれば、タカ派には軍事力優先の国家が作れて、さぞ、都合がいいのだろうけれど、見舞われる危険性は、そして支払うべき代償はあまりに大きいのではなかろうか。
これ以上、意味もなくテロに怯える国家にしてもらっては困るのである。
| 固定リンク
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 井筒俊彦著『イスラーム生誕』(2005.11.26)
- 『私は、経済学をどう読んできたか』(5)(2005.10.09)
- 『私は、経済学をどう読んできたか』(4)(2005.09.26)
- 『私は、経済学をどう読んできたか』(3)(2005.09.26)
- 『私は、経済学をどう読んできたか』(2)(2005.09.26)
コメント