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2005/01/10

阿部和重著『IP』というか

 阿部和重著の『アメリカの夜』に続き、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫刊)を読んだ(表題では、「インディヴィジュアル・プロジェクション」をIPと略した)。
 ある意味で予想通りの中身だった。『アメリカの夜』についての感想文の中で、阿部氏の小説世界は、とことん物語という名の繭に包まれてしか生きられない現代の若者を象徴するものだと書いた。
 そうである以上、とりあえずはその方向を徹底するしかないに違いないと予想した。どこかで壁か限界を感じるまでは。
 そして、本書は、まさに幾重にも堆積した物語の世界を渋谷というドラマ性のあるかのような街を舞台に描き示したものだと感じた。そして案の定でもあった。
 小説のストーリーについて述べるのは控えておこう。それはネタバレの話になるという意味もあるが、同時に徹底して物語を意識している以上、その物語性は白夜のように明けることのない悪夢であることは明らかだからだ。
 ネットで、この比較的新しい、しかし一部の若者には指示をされている書き手の作品をどう批評されてるか、あれこれ検索してみた。
 比較的分かりやすく妥当な理解だと感じたものを一つ、紹介しておく。小生の感想文よりは、ずっと現代の常識に叶っているのだろうし。

 虚構世界を構築する面白味というのは、一度覚えたなら、ちょっとやそっとでは抜け出せないものがある。物語を構築し、妄想であれ、少しは現実に通底する想像力の羽ばたきであれ、その物語性の世界に飛び込んでしまったなら、その自己完結する世界から抜け出す必然性など、その世界の中には何もない。
 仮に物語が終わったとしても、それは体力・気力が消耗し萎えて、とりあえずベッドの脇のサイドテーブルの上にある呑み残しのコーヒーか水割で喉を潤して、束の間、ホッとする、その僅かな慰安の時以外にない。
 物語の魔に憑かれた者は、平穏な日常的事実性がたまらなく辛い。自らの平凡であることを脳裏では気付いても、物語という繭を抜け出すのは辛い。それは薄皮を、それも乾いたカサブタではなく生の皮を剥ぐようなものなのだ。
 ある意味で物語性というのは、脱皮しなければならない宿命のもとにあるものだ。前回も書いたが、大人になるとは現実に目覚めること。そして一昔前の人間にとって現実に目覚めるとは、生活費を稼ぎ出すこと、自立することを意
味していたし、また、それが実に困難でもあった。その過程において大人の社会に触れ、己の未熟さと純粋さとに相克し、云々だったわけである。
 が、不況とはいえ、成熟した社会において、今更、若者が経済的な意味で路頭に迷うということはない。就職難であり、実際に勤めても乏しい給料や厳しい労働環境に辟易したりする。が、辛かったらフリーターという道もあるし、
親や親戚を頼りにすることも可能である。なんといっても、一人っ子かせいぜい二人しか兄弟(姉妹)のいないのが当たり前の世代なのだ。親が脛を削りさえすれば、小遣いには不自由しない。
 つまり、大人になるのは至難の時代なのである。パラサイト世代なのだ。明治なら10歳か遅くとも15歳には自立を迫られたのが、戦後数十年を経て、二十歳どころか三十路に近づいても、現実に対し猶予することが可能なのだ。
 現実にぶつかって、プライドも含め、何もかもが身も世もなく裸に剥ぎ取られる、そんな恥ずかしい、屈辱的状況は、先延ばし可能なのである。
 が、白夜の世界を生きることを、決して若い世代への非難の意味で述べているわけではない。
 成熟した社会での必然的な<第二の現実>なのである。物語性の世界に浸る者同士の恋や葛藤は、カネの有無に直結した第一の現実とは全く違った意味での泥沼を生きることになる。
 何処までいっても地に足を触れることのない、浮遊した時空に各々が触れ合うこともなく漂っている。肉体的にはどこまでも安易に頻繁に触れ合いあえる。が、物語という繭に包まれたままだから、互いが違う夢心地のままなのだ。
 あるいは、昔から互いが誤解しあったままだったのかもしれないとしたら、その誤解を物語的現実として生きるしかないという幻想を背負いつづけるしかない。
 その幻想は自らを癒すという意味でも、互いを傷付けあうことはないという意味でも二重に居心地が良かったりする。その代わり孤独は決して埋まらない。空中を漂う限り、着地点などありえるはずもないのだ。
 つまりは旧世代が二次元の世界で大地と共に生き、大地に辟易し、大地に恩恵を受けてきたのだとすれば、熟した時代の子供たちは、三次元に夢見るように生きている。
 二次元平面のように互いがしばしばぶつかり合う事がない代わり、互いが出会う可能性も希少となる。交差する二つの直線のように限りなく近接する瞬間くらいはしばしばあるかもしれないが、それはあくまで瞬間であり、ああ、あの時が掛け替えのない時だったのだと後で気付いても遅い。その時には互いはあまりに遠く離れ去っているのだから。
 倫理感もどのような座標空間に定めればいいのか、至難になっていると予想される。大地にあれば、それが気に食うか食わないかはともかく、視線を何処かに向ければ、その地平の何処かで倫理や道徳や約束や伝統にぶつかる。
 が、三次元空間では、それら座標軸自体が漂っているし移動しているし、また、互いに違う座標軸にしがみ付いているから、互いの話がかみ合うはずもない。すべては物語の彼方。物語の堆積の奥底。異次元の時空の決して絡み合うことのない、醒めない夢の、そのまた夢の中にそれぞれが生きるしかないのだ。
 安逸ではある。どんな夢も可能なのだから。
 でも地獄でもある。どんな夢も自己完結していて、窓のないモナドのようにそれぞれが幾重にも絡まった繭の糸の中で窒息しかねないのだから。
 物語は諸刃の刃なのである。

 最後に、せっかくなので、前にも紹介したが、阿部和重氏に関係する対談その他を紹介しておく。


                                  (03/04/27)

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