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2005/01/10

阿部和重著『アメリカの夜』

 本書阿部和重著『アメリカの夜』(講談社文庫刊)を<紹介>するに当たって、本を読み理解するとは誤読以外の何ものでもないことを断っておこう。読書するとは、別の物語を作ることでしかないのだ、とまで開き直りはしないけれど。
 要するに、小生は阿部和重の『アメリカの夜』をとても面白く感じ、一気に読めたが、さて、一体、何が面白かったのか、あるいは作者が意図した何かに多少でも触れたのか、その全てがあやふやのままなのである。
 本書(講談社文庫刊)の帯文をまず紹介しておこう:

映画学校を卒業し、アルバイト生活を続ける中山唯生。芸術を志す多くの若者と同じく、彼も自分がより「特別な存在」でありたいと願っていた。そのために唯生はひたすら体を鍛え、思索にふける。閉塞感を強めるこの社会の中で本当に目指すべき存在とは何か? 新時代の文学を切り拓く群像新人文学賞受賞作。
                             (転記終わり)

 ストーリーがあるといえばある。彼・唯生は、他の野心を抱く誰とも同じように自分を特別な存在と思いたい。そのためには努力もする。が、現実には自分を振り返ると、必ずしも特別ではない、どころか、ある意味で平凡ですらある。
 唯生は作中の中で、ドン・キホーテを読みつづける。『ドン・キホーテ』は有名な小説(でも、実際には読まれることの少ない小説。
 小生は学生時代にかろうじて、正編くらいは読んだ記憶がある)である。大まかなストーリーは多くの方も知っているだろう。
 これでもかという程に大雑把に説明すると、物語の舞台はスペインのラ・マンチャ地方。騎士道小説の読み過ぎですっかり自分を騎士だと思い込んでしまった初老の郷士は、ドン・キホーテと名乗り農夫のサンチョ・パンサをお供に遍歴の旅に出る、その旅での逸話の数々ということになろうか。
 主人公の初老の男は、自分をすっかり中世に活躍した騎士だと思い込んでいる。
 一方、サンチョ・パンサは農夫で主人には忠実だが、現実に対し醒めた目を持っている。ただただご主人様に付き従うのだ。
 ドン・キホーテ(と思い込んでいる男)は、何もかもが中世の時代そのままに映ってしまう。巨大な風車を見ても怪物と思い込んで突撃するくらいだし、何処かの小さな村の酒場に働く娘を見ても、囚われの身のお姫様だと思い込み助けようと奮闘する。
 お姫様(だとキホーテに思い込まれている女)は、己の悲惨な現実を知り尽くしている。なのにお姫様だと崇め奉られて、現実(彼女が生きている泥沼の世界という現実)と物語(キホーテの思い入れの中の<現実>)との落差の大きさに苦しむ。
 違う、私はお姫様なんかじゃない、ただの汚れた商売女なのよ! という悲鳴。姫を崇める主人と、苦しむ娘との姿を、サンチョ・パンサは冷静に見つめている。
 さて、唯生は、一応は冷静に自分を見詰める目を持っているのだが、その実、物語的現実から逃れることは決して出来ないことを自覚している。どんな<現実>も、人間の(唯生の)目で見れば、それは物語で色付けられた形でしか理解することは出来ない。
 何故なら、自分は特別な存在で、どんな悲惨な状況に陥っても、それもある意味で、回りの皆が自分に内緒で仕組んだ芝居なのであり、自分もちゃんと芝居の中の登場人物としての役割を果たさなければならないのだ、今の滑稽な、あるいは悲惨な状況も、現実ではなく、何かの夢か芝居の一場面でしかないのだという思い込みでしか、受け止められないのだ。

 さて、現実とはなんだろうか。一体、現実ということで何を思えばいいのだろう。人間は、物語の積み重ね以外の何を理解できるのだろう。そもそも人間の脳は、一個の生物的個体としては全く未熟児として生まれる。親などに育てられる中で脳が育っていく。
 あれは、木であり、あれは自動車であり、あれは信号であり、偉そうにしているのは、親であり、その庇護の中でスクスクと(?)育つのは自分なのだが、その自分は、生身の体のはずなのだが、童話や社会とはこんなものよ、という説明(それも、結局は親が育つ中で形作った物語に他ならない)で頭がパンパンに膨らみつつ育っていく。
 もう、骨の髄まで、脳味噌の大半が物語りや約束や意味付けや神話や夢や親の思い入れや…etc.が染み込んでいる。仮に自分が貧乏でも、これはいつかは本当は自分は金持ちになるはずの途上の、仮の姿に過ぎない、きっと或る日、ドアの向こうから白馬に乗った王子様ならぬ召使がやってきて、お待たせしました、あなたは実はお金持ちなのです、あなたに試練を与えるため、あなたに育ってもらいたいがため、パンに事欠く、着る物も貧相な、隣近所と似たり寄ったりの建物と、まるで教養のない親達に育てられていたのです。
 そう、今日からはあたなは特別な人であるという正体がハッキリするのです。さあ、お金持ちのご主人さまの館へお連れ申し上げましょう。
 物語や童話で育った子供は、現実と触れ合うことは、無数の皮で覆われた玉葱の薄皮を剥ぐようなもので、その終わりはない。終わりなどあってはならない。一枚、薄皮を剥がれて(それが育つということでもあるのだが)、やっぱり実は自分は平凡な頭脳の持ち主に過ぎず、天才などではないのだと気付いても(そうした現実の悲惨や生きる苦さを覚えることも人間としての成長のはずなのだが)、いや、待てよ、特別な存在のはずの俺のことだ、或る日、隠れていた才能が開花するに違いない、ここに平凡な、試験でろくな点数も得られない、ウダツの上がらぬ存在として、無数の生徒たちの一人として目立たずに居るとしても、これは芝居の一環であり、芝居の一幕に過ぎないのであり、幕が開ければ、あるいは幕が下りれば、誰からも注目を浴びるはずの特別な存在としての自分が光り輝きだすに違いない…。
 童話や物語という糖衣錠に包まれた状態から、人間は(少なくとも現代の日本における若者は)抜け出すことは出来ない。
 ドン・キホーテが本当に活躍した時代においては、中世においては本当に騎士がいたに違いない。英雄もいたのかもしれない。しかし、それは戦いで大多数が倒れていった中のほんの一握りの、あるいはただ一人の例外的存在に過ぎない。
 だからこそ、後世になって物語の中の人物に祭り上げられるわけだ。
 多くは肉を斬られ、骨を断たれ、槍で貫かれ、何処とも知れない荒野で屍となる。誰一人、骨を拾う者もいない。大多数が、あるいは、全ての人間が実は、うまくいっても墓にお骨が収められる。墓に一行くらいは何か記されるかもしれないが、それで一巻の終わりである。
 そして誰からも忘れ去られる。ハードディスクに彼のデータを詳細に渡って刻み付けられても、ハードディスクのデータを解凍する暇人などいない。

 しかし、阿部和重の小説は、まさに現代(の日本)に生きる多くの若者の精神構造を象徴して表現しているように感じられる。
 とことん物語という名の繭に包まれてしか生きられない現代の若者。全くの平凡人(平凡とは、他者と名前やID以外には区別をつけがたいということ)なのだが、本人の頭の中は俺は実は違うんだ、他の平凡な奴等とは訳が違うんだ、今の貧相な姿は仮の姿なのだ、いつかは俺は光り輝くのだ、今がどんなに惨めでも、それは夢の中の一場面、何かの下手な芝居の中の登場人物、そう、どんな芝居にだって主役もあれば脇役も必要。今は俺はたまたま脇役や引き立て役を甘んじて引受けているに過ぎない、そのうち俺が主役だと回りのみんなが気付く、それまでの辛抱だ……。
 そう、誰もが実はドン・キホーテなのである。鎧や兜や槍や楯で武装するのではなく、物語という糖衣錠、あるいは繭に包まれたドン・キホーテなのである。
 骨の髄まで。
 その童話や物語の重要さ、一昔前なら病的な物語依存症と見なされ、ある時期が来たら脱ぎ捨てなければ、そこから抜け出さなければならないはずの、乳母車としての物語的段階、いつまで夢見てるの、お坊ちゃんと論われたはずの、そんな無数の層に積み重なった物語の堆積の中でしか生きられない若者、そんな現代の<現実>を阿部は的確に描き出している。
 それでいて、本人達はわかっている。夢物語は決して続かないことを。人生の総決算は、計算し終えてみたら、せいぜい墓場に刻まれる戒名の数文字ほども得られないとういうことも。そんな醒めた目。夢物語と墓場の戒名との落差への恐怖。そんな現代の若者特有の恐怖を描く才能が阿部和重にはあるのだと思われる。

 恐らくは、一昔前の世代なら、夢物語から真っ先に醒めることが大人の徴だった。そんなシンデレラストーリーなど、恥ずかしくって、自分の胸中でさえ、できるだけ早く剥ぎ取り、大人の苦い現実を味わい、参加したいと思ったものだ。
 また、カネを稼がなければならないという切迫した現実もあった。
 が、今の多くの若者は、自分が直接得る収入は少なくても、親から、親戚から、祖父から、あるいは他の手段で得る収入を当てにできる。いつまでも、シンデレラ(を夢見る少年)でいることができる、夢から決定的に覚める必要がない、夢物語の終焉をどこまでも先延ばしできる、そんな真綿で包まれたような<現実>に生きている。
 夢から覚めて現実の己の姿に幻滅するのも辛いものがあるが、いつまで経っても終わらない白夜という現実に生きるというのも、これはこれで古い世代の感性の持ち主には想像も付かないシビアーな人生なのだろう。
 いずれにしても、阿部和重の描き出した世界は、質的に新しいものだということは認める必要がある。
 小説のタイトルの『アメリカの夜』というのは、フランソワ・トリュフォーの映画のタイトルから来ている。同時に、「アメリカの夜」というのは、映画の撮影手法をも意味する。
「……、英語でいう 'day for night' つまり「晴天つぶし」といわれる擬似夜景をあらわす映画の撮影技法用語であり、一年じゅう空が晴れているカリフォルニアの昼間を、キャメラの絞りと光学フィルターの操作でフィルムにたいする露
光を調節して、夜の場面として撮影してしまうハリウッド映画特有の「夜」である」
「擬似夜景、それは「昼」でありながら世界を「夜」にかえてしまう途方もない虚構の企てだ。」
「アメリカの夜」とは「気違い」の横行する場ではないか。」と結末近くで唯生は語る。
 確かにそうかもしれない。
 が、現代の若者は、アメリカの夜を生きるしかないのかもしれない。己を特別な存在と思い込むことでしか、物語を徹底して生きるしか他に生きる方途はないのではないかと思われたりするのだ。
 そう、こうなったら、とことん、物語に生きなさい、とでも言っておこうか。物語で昼を夜に変えてしまうかもしれないが、同時に夜を昼に変えることもできる。虚構だが、虚構と物語以外に君達に何があるんだい? と聞き返したくなる。ま、かくなる上は、覚悟を決めて「アメリカの夜」をとことん生きてみるんだね。


                            (03/04/21)

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