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2005/01/22

小熊英二『単一民族神話の起源』(2)

 本稿は引き続き以下の書を扱う:
 小熊英二著『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社刊)
 
 先の15年戦争に日本が突入した背景の一つとして、近頃、保守系の政治家などが洩らす単一民族思想があるものと思っていた、しかし、その小生の勝手な思い込みは本書を読んで呆気なく崩れ去ったと前回述べた。
 前回、引用したように、本書の冒頭で既に小生の思い込みは脆くも潰え去ったのである。久しく、自分なりに考古学や古代史の諸著を読んで、その最終的な民族の成り立ちないし、淵源(由来)に関して決定的な論は未だないのだとしても、北方のシベリアの何処かだとか、蒙古などツングース系であり、朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきたのだとか、弥生時代の始まりないし、弥生時代の特長が明確になったのは、中国から徐福が大勢の臣下らと共に渡来し(その際蓬莱信仰が伝わった)て以降だとか、否、中国の東南部や朝鮮半島の南部、そして日本海に面する一体を荒らしまわり活躍した倭寇(の魁)だとか、それこそ東南アジアから島伝いに渡ってきたのだとか、説はいろいろある。
 そうした説のどれかということではなくて、その複合ということもありえるし、全く逆に、日本民族は、断固、縄文時代から連綿と続いてきたのだ、その途中でいろんな起源を持つ民族や集団が加わったとしても、神代の昔からの万世一系の民族だという主張もある。
 最後の説はともかく、日本の民族(この呼称では、単一の民族という印象を受ける恐れがある。日本人という曖昧な言い方で誤魔化しておくべきなのか)は、多様な背景を持つ民族や集団の複合だという基本的な見解は動かないのではないか。
 その主流が何処に(南方か北方か、朝鮮系か中国系か、縄文人)なのかは別として。
 そしてこの基本的な見解は戦前どころか、明治以降、早い段階で常識になりつつあったようだ。

 ならば、なぜ単一民族思想などが生じる余地がありえるのか。単なる根拠のない一部の連中の狂信的な主張に過ぎないのか。
 実は、本書を読むと、多様な起源を持つ民族の集合体という認識でも、逆に古来、単一民族として連綿と続いてきたのだという認識でも、結局は、戦意の昂揚に使われるのは同じだったことが分かる。
 単一民族という認識(その極端な思想が純血論である)を持っているとしたら、その世界に優れた民族こそが、欧米の横暴に抗して、欧米列強による植民地支配に対抗しなければならない、その役目を担うのは我が邦しかありないのだという思い込みに繋がっているのだ。
 逆に、多様な背景を持つ複合体ないしは、混合体なのだとしたら、我が邦は、朝鮮人の友でもあり(この極端な思想が日鮮同祖論である)中国人の友でもあり、東南アジアの人々とも血縁があるのであり、つまりはそうした民族の血族として、八紘一宇の中心足るのは我が日本である、となってしまうのである。
 あるいは日本民族に多少の劣等感を持つ向きは(特に明治の初期の頃にこの劣等感は強かったらしい)、だからこそ、混合民族論を受けいれて、帝国の膨張を図り、多様な民族の同化を図ろうとする発想へと飛躍していくわけである。
 しまいには、日本民族は実は白人なのだという思想もあった。たとえばギリシャ起源説とか、ユダヤ起源説とか。この白人説というのは現代にも余命を保っている…。
 さて、しかし、混合民族論が多少なりとも唱えられたのは、日本が戦局において優位に立っていた間のことだったという。(p.337)
 敗色が濃厚になると、やはり単一民族性が強調されるようになったのである。
 その典型が、徳富蘇峰で、彼は日本軍による「占領地域が拡大している間は混合民族論で芯出力と同化力を称えたが。守勢にたつと単一性を強調して団結を唱えたのである」
 結果、「そうした全体的な潮流を反映してか、一九四四年の第六期国定地理教科書からは、帝国民族構成の多様性の記述はなくなってしまった」(p.337-8)
 興味深いのは、「大戦後期になると単一民族論が台頭したかというと、主要雑誌をみているかぎりそうでももない。そんな学説は一般に知られていなかったし、戦局不利にしたがって朝鮮・台湾の徴兵と動員がますます強行されるようとしていたから、日鮮同祖論や内鮮一体論の否定などできるはずがなかった」という点である。
 朝鮮・台湾を占領していた時点では、非日系人は帝国人口の三割を占めていたのだ。 
 つまりは、「大戦後期の日本民族論は起源に言及しない抽象的スローガンばかりとなり、やがて紙不足により媒体そのものが消滅していってしまう」のである。

 本書で一番、興味深かったのは、単一民族論が日本において定着したのは、戦前・戦中ではなく、むしろ戦後であり、特に一九六〇年代に入ってからだという点である。
「敗戦直後、日本がめざすべき理想とされたのは「東洋のスイス」であった。それは山により外部の争いから隔離された、永世中立で平和を保つ辺境の農業国としてイメージされていた」(p.357)
 この一文を読んで、小生が子供の頃は、なんとなくスイスが理想の国として小生の脳裏にもあったという朧な記憶が蘇った。スイスの「複数公用語をもつ多民族国家というスイスのもうひとつの側面は、そこから抜け落ちていた」のは言うまでもない。
 単一民族論が強調された理由の一つは、象徴天皇制の定着を狙う意図に基づくものだという。つまり、国家や天皇との一体性を主張する保守派の事情である。
 また、もう一つ、戦後、単一民族論が台頭し強調されたのは、敗戦で自信を失った日本人に自信を回復させる意味もあった。石原慎太郎が登場し、三島由紀夫が登場した。そこには政治的な意図が背後にあったのか、それとも時代の要請にマッチする世界が描かれているが故に、結果として彼らの文学が持て囃されることになったのか、小生には判断が付かない。
 三島の言が紹介されている:
「日本がその本来の姿に目ざめ、民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致すること」により、「文化の全体性を代表する」「文化概念としての天皇の復活」を唱えたのである。

 逆に単一民族だからこそ、日本は国際性がないのだと日本批判論の根拠として単一民族論が使用されたりもしたという。前提に日本は単一民族の国だという認識があるわけである。
 こうした単一民族論ないし単一民族神話からは、在日やアイヌ人への視座がまるで欠けるのは理の当然なのかもしれない。面倒事に過ぎないのだ。

 単一民族論も混合民族論も、それが戦争に結びついたり、誇大妄想に陥ったりする可能性がある。あるいは逆にそうでない可能性もある。
 単一民族論だったら、かならずその主張者が純血論者というわけでもない。それより「同化しない他者には出会いたくない」という発想こそが問題なのだ。
 和を尊しとなす、この発想に功罪の因がありそうだ。和を保つのは素晴らしい。が、和を保つためには、異を唱える人間(集団)の排除や無視は虐待が陰に日向に随伴する。自己主張など論外なのだ。単一民族論者であり純血論者であっても、多様な文化や価値観の混在を認める度量があれば、戦争にも虐待にも結びつかない。 
 しかし、和を尊ぶあまり、一切の違和を許さないとなると、そこには必ず無理が生じる。常に和の状態があるためには、不穏な言動など許されない。度量の大きさを見せて異論を一時は唱えさせても、結局は予定調和的に平和が成るためには、陰湿な形での、他人に見えない形での異質な分子への圧殺・封殺があり、でなければ無視、見て見ぬ振りを装うなどの行動が予想されるのである。
 和の頂点には、その集団の中にのみ通用する価値観がある。調和がある。秩序がある。そしてその価値観の統合を担う存在がある。多少は乱れても、常にその統合体が不変であることを前提にのみ、一時の不和を容認するだけなのだ。
 そこには新しい価値観の生じる余地はない。生れてつつあっても芽の内に踏み躙られるのだろう。
 むしろ、戦争を回避したり、真の国際性を目指すなら、血筋の由来を云々するより、大切なのは、価値観の多様性を容喙しうる、当然、絶えざる、きっと果てることのない、多様な価値観と宗教観の持ち主たちとの相克と対話を続け
る覚悟の有無こそが問われるのだろう。
 そんな覚悟がなく、一つの価値観の中で凝り固まっていたいのなら、島国根性と云われても我慢し、一国の平和と惰眠を貪るしかないのだろう。

[旧題「小熊英二著『単一民族神話の起源』雑感(2)」としてメルマガにて公表済みです。(02/12/13作)]

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