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2005/01/05

チャンドラー『プレイバック』

 小生は推理小説やミステリー小説、サスペンス小説の類いは読まない。
 別につまらないとか、退屈だとかという格別な理由があるわけではない。単に読書の範囲をやたらと広げているので、そこまでは手が回らないというに過ぎない。
 尤も、推理小説は若干、事情が違う。誰が犯人かを推理するのが推理小説の楽しみの一つらしいのだが、小生はそんなことを考えるのが面倒なのだ。楽しみのために読んでいるのに、頭を使わせるなって思ってしまって、大概、読んでいる途中で、否、ほとんど冒頭付近でうんざりしてしまう。
 横溝正史氏の小説は、推理小説の分野に入るのかどうか知らないが、彼の本を読んだのは小説の持つ独特の雰囲気に釣られてなのだと思う。といっても、実際に読んだのは、『本陣殺人事件』『八つ墓村』くらいのもので、あと、『犬神家の一族』や『悪魔が来りて笛をふく』は、映画で見て、もう、読んでしまったような気分になっていて、小説には手を出さなかったのではないか。
 彼の作品のタイトルを見るだけでも、彼の小説の雰囲気や傾向が察せられるかもしれない。

 一昔前の日本の、特に地方にはこんなおどろおどろしい世界が残っていた(ような)気にさせてくれる。因習に満ちた閉鎖された村社会であるがゆえの恩讐の念の篭った作品群が横溝氏によって示されたのである。
 作品の舞台背景になっているのは、横溝氏が結核を患い懲役を免れて疎開した岡山県の寒村となっているものが多いという。
 映画『八つ墓村』は、映画館嫌いの小生がわざわざ足を運んだものだった。但し、市川崑監督による豊川悦司が金田一探偵を演じた新しいほうのものではなく、1977年に野村芳太郎監督によって撮られた映画のほうである。
 主役の萩原健一はともかく(嫌いではない)、最後に犯人と分かる小川真由美の演技が凄くて、初めて見た時は、ビビッて逃げたくなったものである。
 名探偵・金田一耕助を演じるのは、かの渥美清である。
 この映画を見た当時、小生は渥美清にそれほど思い入れをしていなかったはずで(なにしろ、小生も若かった! 自分が浮き草めいた生活を将来送るとは夢にも思わなかった)、ただ、怖い映画の中に渥美清が探偵として登場することで、ホッとさせられたことを覚えている。 
 あと、好んで読んだのは(推理小説の分野に入るのかどうか分からないが)、松本清張である。彼の原作がドラマなり映画化されたものは多いが、その一つに『鬼畜』がある。
 これまた野村芳太郎監督作品であり、小川真由美が出演している。この映画が印象的ということは、小生は野村監督が好きなのか、女優・小川真由美が好きなのか。それとも、緒方拳が好きなのか、あるいは女優・岩下志麻に惹かれているからなのか。
 雑談ついでに、野村芳太郎監督そして原作が松本清張というコンビの映画作品は好きなものが多い。『砂の器』はその代表格である。
 ああ、『ゼロの焦点』もいいけれど、『影の車』もよかった。ここにも岩下志麻が出ている。小生は、必ずしも加藤 剛のファンではないけれど、この映画の中の加藤 剛はよかった。
 江戸川乱歩のことは、語り始めたらきりがない。彼の小説がどんな分野に組み入れられるのか、小生は知らないが、推理とか探偵といったことは抜きに、小説の世界を堪能させてくれる。ただ、どういうものか、江戸川乱歩というと、天知茂が思い浮かぶ。明智小五郎シリーズをテレビで見過ぎたせいだろうか。
 探偵小説といえば、江戸川乱歩だが、捕物といえば、『半七捕物帳』の岡本綺堂である。彼のことは、以前、触れたのでここでは略すが。
 そういえば、昨年、「探偵小説家、江戸川乱歩(1894~1965年)が戦後間もなく作家、横溝正史らに送った手紙の写しが、5日までに東京都豊島区の乱歩邸の土蔵から見つかった」というニュースがあった。
 その手紙の一つに横溝に送ったものがあるが、それによると、「種が分つてしまつてから、再読して……一層感心させられるやうな作でなくては傑作とはいへない」という。成る程である。
 そう、ここまで来るとネタバレしているだろうが、小生は、最後にネタがバレると一気に興味が萎んでしまうような小説は好きではないのだ。ガッカリする。そもそも最後に犯罪が解決するってこと自体、納得がいかない。
 どんな犯罪でも、被害者にも加害者にも傍を通り過ぎるだけの人にも人生があり背景があり、語り尽くせぬ事情がある。小説に始まりも終わりもないのだ。否、小説にではなく人生に、と言い換えるべきなのだろうが、小生の小説観では、物語に始まりもなければ終わりもない。
 作品としてまとまりをつける必要上、起承転結がなくては済まないけれど、それは便宜上のことに過ぎないのだ。
 そして、エドガー・アラン・ポーが好きなのも、そこにある。彼の推理小説も最後にネタがバレる。でも、そのネタが一つの闇の世界への入り口となっていて、読者が勝手に瞑想に耽るのを許してくれるのだ。そして推理の密度の濃さ。
 ポーの世界は好きで、小説は当然一通り読んでいるし、ついでに原書でも幾つかの作品を読んでみた。
 で、あれ? 何を書くんだっけ。そうだ、チャンドラーの『プレイバック』だ。
 小生が彼の作品に手を出したのは、映画の原作者として高名だということ、ネット上のある方が推奨されていることなどがあり、たまたま過日、書店に立ち寄ったら、表題の本が平積みされていたので、つい手が出たのである。
 小生が買ったのは、清水俊二訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 1977である。他にも、「過去ある女―プレイバック」 (小鷹信光訳 サンケイ文庫 1986 )があるらしい。

 小生とチャンドラーとの出会いは、だから幸福な出会いとは言えないかもしれない。本書は、チャンドラーの最後の作品であり、チャンドラーとしても異色の部類に入る作品らしいのである。
 そんなことはつゆ知らず、小生は本書を読んで、洒落たひねりの利いた会話や頑固に自分のスタイルを守る主人公たるフィリップ・マーロウ、登場する一癖ありそうな女性、車好きならたまらないアメ車、そしてアメリカの風景…、そして最後近くにあって出る決め台詞、「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」となるわけである。
 なるほどこんなところに彼の作品の魅力があるのかなと思っていたら、作品中で、クラレンドンという老人が登場するのだが、彼が、神の存在や死後の世界について長々と語りだすのだ。あれれ、である。
 もしかしたら、チャンドラーファンは、実は、こんな作品の筋には関係のない、作家の本音が登場人物の語りの形で洩らされている、その部分にこそ魅力を感じているのではないかと、穿った見方をしそうになった。 
 読み終えて、訳者自身による「レイモンド・チャンドラーのこと」という「解説」を読むと、どうやら本書はチャンドラー作品の中でも異色の部類に入るものであり、クラレンドンの語りについても訳者も同様の唐突感を覚えておられると
知ったのである。そうか、あの死生観をとうとうと語る場面は、チャンドラー世界には従来なかったものなのかと、遅まきながら知ったわけである。 
 しかも、小説のタイトルである『プレイバック』自体が、なぜ、こんなタイトルなのか理解できないと訳者である清水俊二氏は書いておられる。小生も、小説を読んでいる限り、「プレイバック」の語義とはどうやっても結びつかない気がしていた(関係ないけど、山口百恵の「プレイバック パート2」が浮かんでならなかった)。
 どうやら、上掲の年譜の1958年を見ていただくと分かるように、作品の成立の過程で若干の経緯があるらしいのである。そこは、興味ある方がきっと謎解きをしてくださるだろう。
 チャンドラーは『プレイバック』を出版した、その翌年の1959年に70歳で気管支肺炎のため、亡くなられている。
 あるいは、プレイバックを書いた頃には、死の予感があったのだろうか。それで、つい、当初はフィリップ・マーロウの登場しない作品の中であるが故に、チャンドラーの死生観をどうしても語ってみたくなったのだろうか、そんな気がしたのだが。
 せっかくなので、クラレンドンの語りのほんの一部だけを引用しておこう。こんな文章を引用する物好きも少ないだろうし。これがクラレンドンの言葉なのか、チャンドラーの本音なのか、その判断はそれぞれにしてほしい:

 だが、信じるべきだよ、マーロウ君。心が安らかになる。われわれ
 はみんな死んでちりになってしまうのだから、最後には神を信じる
 ようになる。人間は死ねば終りかもしれない。そうではないかもし
 れない。
 (途中、略) 
 毒を飲まされたねこが看板のうしろで苦しみながら死んでいっても、
 神は平気なのだろうか。人生が過酷なもので、もっとも適応してい
 るものだけが生き残っても、紙は平気なのだろうか。何に適応して
 いるというのだろう。いや、けっして平気でいられるはずはない。ど
 んな意味であっても、神が全知全能なら、はじめから骨を折って宇
 宙をつくることなどしなかったろう。失敗の可能性がないところに成
 功はない。創作過程に抵抗がないところに芸術はない。世の中の
 すべてのことがうまくゆかないのは神の手ぎわがよくなかった日に
 ぶつかったからで、そして、神の一日ははかりしれぬほどながいの
 だといっては、神を涜(けが)すことになるだろうか。 
                                 (p.180-2)

[原題:「チャンドラー『プレイバック』あれこれ」 (02/12/24)]

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