松本清張『顔・白い闇』
小生は推理小説は苦手である。そもそも推理するのが苦手なのだ。あるいは、もともと頭を使うのが面倒なのかもしれない。それよりSF(空想科学)小説の世界を好んだ。近くにある貸し本屋さんで小学校の頃は漫画の本を、やがてSF小説の世界に分け入った。
推理小説に何となく抵抗があるのは、あくまで想像に過ぎないのだが、父の書斎に原因があるかもしれない。座敷や仏間などに父の書架があり、磨りガラスの扉を開ける方式の書棚にはびっしり本が並んでいた。
小生は、まず、本の量に圧倒された。それでも、恐る恐る、誰もいないときに、読みもしないのに本を抜き出し、頁を捲ってみた。活字、活字、活字!
小生は尻尾を巻いて本の山から逃げ去った。
それでも好奇心があるものだから、また、恐々覗いて見る。小学校の頃だったかテレビでは石坂洋次郎原作のドラマが全盛だった。
「青い山脈」「陽のあたる坂道」「何処へ」「若い人」「風と樹と空と」…。テレビに映画に石坂洋次郎は持て囃されていた。一体、どれほどの作品がドラマ(映画)化されたかしれない。
何故に当時は石坂洋次郎作品に人気が集まったのか。
戦前(昭和13年)「若い人」を発表した大ベストセラーになったが、その作品は右翼団体から不敬罪などで告訴されるという経歴もある。そうした作家だからこそ、戦争の暗雲に解き放たれた人々に自由の感覚や若い息吹の象徴となったのだろうか。戦後は、「青い山脈」がまた大ヒットし、「若い人」と共に青春文学の双璧を為した。今、改めて読んだら、どんな感懐を抱くのだろうか。
当然の如く父の書棚にも石坂洋次郎作品がある。夏目漱石など、文学全集も並んでいる。その中のどれかを書棚から引っ張り出し、箱から(当時は箱入りの本が多かった!)本を出して頁を捲る。難しい! でも、難しい漢字を前後の流れから読み解いたりしたら、それはそれで楽しかった。無論、それ以上に、目を皿のようにして探したのは、ラブシーンである(特に石坂洋次郎作品の中で探していた。テレビの影響だろうか)。
父の書棚にHな本は見つからなかったように思う。但し、たまに机の上に週刊誌などが無造作に置かれてあって(大概は週刊新潮だった。あの、谷内六郎の表紙の)、その中を懸命に探っていやらしい写真を発見し一人悦(H)に入っていたものだ。
さて、父の書棚には、父の好きな歴史ないし時代小説と共に推理小説も並んでいた。ポーやアガサ・クリステ(?)や、コナン・ドイルetc.である。外国の推理小説は大概は文庫本だったと思う。その頃は漫画の本しか読む習慣のない小生には、活字は頭が痛いだけであった。
なんとなく、推理小説というと活字びっしりというイメージがその頃にこびり付いたような気がする。
一方、SF作品は父の書棚には見つからなかった。専ら、貸し本屋さんである。そこには「ドニエル教授の首」「八十日世界一周旅行」「ガリバー旅行記」「ロビンソンクルーソー」が単行本の形であった。確か、挿画も豊富だったはずだ。
活字も大きく且つ振り仮名を振ってあり、頁辺りの活字の数も少ない。僕にも読める!
そう、出会いがSFと推理小説とは違ったのだ。推理小説も、単行本で、中に好奇心を掻き立てるような挿絵があるような本の形で出会っていたら、違っていた…かも。
やがて、空想科学小説は、E・E・スミスのレンズマンシリーズに移り、次には、定番だが、カーターの火星シリーズに、そしてヴェルヌ、アシモフ、アーサー・C・クラーク、ブラッドベリなどに拡がっていったのだ。
そうした小生の好みは、高校一年の時だったかに読んだシャーロッテ・ブロンテの『ジェイン・エア』で吹き飛んでしまった。中学の時は、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』などを懸命に読んでいたはずだが、今一つ乗れなかったのが、『ジェイン・エア』で文学の質に目覚めたような気がする。そしてSFには食指が働かなくなった。
あれ、話がずれている。
そうそう、小生は推理小説とは出会わずに中学・高校と来てしまったのだ。大学になってやっと、それでも推理小説というよりミステリーの分野に入るのかもしれないが、その頃流行っていた横溝正史や森村誠一の作品に接するくらいだった。
尤も、エドガー・アラン・ポーだけはさすがに相変わらず読んでいた。
大学に入り、推理小説に限らず、小説を読むなら再読に耐えるものでなければつまらないという価値基準ができていた。だから、一度、推理の糸が手繰れたら、再読する気にならない小説は眼中になくなってしまったのだ。
さて、ここでようやく松本清張に入る。長い前書きだった。
そう、松本清張は、日本の推理小説家で数少ない再読に耐える作家なのである。彼の小説が原作の映画にもいい作品がたくさんある。原作がいいから映画も傑作になるのだろうか。「砂の器」「張込み」「鬼畜」「わるいやつら」などなど。
松本清張には作家としての臍力がある。純文学とか大衆文学とかの枠を越えた迫力があるのだ。
同時に、松本清張は博覧強記の人であり、昭和史や古代史へ並並ならぬ情熱を傾けていた。作家で歴史好きで、その中で古代史に興味を寄せる人も多い。興味を示すだけではなく、歴史の謎解きを薀蓄を傾けて語る(書く)作家も少なくない。が、その多くは専門家の目には読むに耐えないものが多かったりする。素人の火遊び程度のものが圧倒的なのだ。
その中で、松本清張の古代史の推理は歴史家にも瞠目に値すると評価される。彼は、なんと銅鐸まで集めるほどの研究振りだったのだ。
表題の『顔・白い闇』(角川文庫刊、平野謙解説)については、敢えて語ることもないだろう。読んで楽しめばいいのだ。多くの柔な小説家と違い、彼の作品には骨がある。小生の大事にする現実感が漂っているのだ。だから読むに耐えるのだろう。それで十分だと思うのである。
[原題:「松本清張『顔・白い闇』の周辺」(03/01/27)]
[但し、最近は、彼の小説などの迫力は、取材力に拠る部分が大きいのかな、早くに作家になった方の通弊なのかもしれないけれど、現実の社会で泥まみれになって身に付けた経験的なものでは、あまりないのかもしれないと感じている…。(05/01/05 追記)]
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コメント
今、録画しておいたNHKドラマ「顔」を見終えた(まとまった時間が取れないので、1時間15分のドラマを5回に分けて見た)。
主役の男性が翳のある役を演じ切れていないのが残念。
体型が主演の方も共演の女優さんもスリムで戦後間もない時代の人間とは到底、思えなかったし。
でも、原作はさすがなんだけどね。
それに女優さん、美人!
投稿: やいっち | 2009/12/30 16:20