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2005/01/23

坂崎乙郎著『夜の画家たち』

 坂崎乙郎著『夜の画家たち』を読了した。小生には懐かしい本である。学生時代、講談社現代新書の中の「ロマン派芸術の世界」「幻想芸術の世界」「夜の画家たち」などを書店で見かける先から買い求め読み漁っていた。
 今度、読んだのは、講談社現代新書版ではなく、まして、著者にとっても懐かしいだろう、雪花社版でもなく、『完全版 夜の画家たち 表現主義の芸術』(平凡社ライブラリー)である。
 さすがに古びてしまったとはいえ、手元に講談社現代新書版の『夜の画家たち』があるにも関わらず、本書を手に取ったのは、過日、図書館にて本を物色していたら、この本を見つけた…、そこには、「完全版」と銘打ってある…、だったら、久しぶりだし、読まねばと咄嗟に思ってしまったのである。

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2005/01/22

谷川晃一著『絵はだれでも描ける』

 谷川晃一著『絵はだれでも描ける』(生活人新書、NHK出版)を読んだ。
 以下、例によって小生流の勝手な感想文を綴るので、まずは本書のカバー裏にある謳い文句を転記しておく:

子供のころ、絵はだれもが楽しめるものだった。自由な発想、自由な想像力で純真な絵を描いていた。しかし大人になって「うまさ」を意識しはじめたとたん、自由な想像力は失われ、絵は魅力をうしなった。子供のころの「絵心」を失わせたものとは何か。美術教育に内在する問題とは何か。内外のナイーブ・アートを例示しながら絵心の復権を提唱する。
(転記終わり)

 著者の本を読んだのは、初めてなので、同じく、本書にある著者紹介を転記させていただくと、「画家、美術評論家。1938年東京都生まれ。絵画は独学。70年代より絵画制作と並行して美術批評活動を開始。88年に伊豆高原に転居、自然をモチーフにした絵画制作を精力的に行っている。2000年に『ウラパン・オコサ』で日本絵本賞を受賞」とある。

 本は読むに越したことはない。本書の場合は読むというより、描くという実践を勧めている。
 特に、本書は絵を描くこと、まずはペンでも筆でも木炭でも、手に取り、新聞チラシの裏面に、去年の日記の余白(埋めきれなかった白いままの頁)に、最初は、三角やら四角やら○など、これなら誰でも描けるという記号っぽいもので見たもの感じたものを描いていくことからだと、著者は勧めているだけに、尚更、読むより、まずは実行を、となる。
 NHKの「生活ほっとモーニング」でも紹介されたことがあるので、本書を(著者を)知ってる、という方も多いだろう。
 
 あまり野暮なことは書きたくないが、それでも、という方は、続きをどうぞ、である。

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小熊英二『単一民族神話の起源』(2)

 本稿は引き続き以下の書を扱う:
 小熊英二著『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社刊)
 
 先の15年戦争に日本が突入した背景の一つとして、近頃、保守系の政治家などが洩らす単一民族思想があるものと思っていた、しかし、その小生の勝手な思い込みは本書を読んで呆気なく崩れ去ったと前回述べた。
 前回、引用したように、本書の冒頭で既に小生の思い込みは脆くも潰え去ったのである。久しく、自分なりに考古学や古代史の諸著を読んで、その最終的な民族の成り立ちないし、淵源(由来)に関して決定的な論は未だないのだとしても、北方のシベリアの何処かだとか、蒙古などツングース系であり、朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきたのだとか、弥生時代の始まりないし、弥生時代の特長が明確になったのは、中国から徐福が大勢の臣下らと共に渡来し(その際蓬莱信仰が伝わった)て以降だとか、否、中国の東南部や朝鮮半島の南部、そして日本海に面する一体を荒らしまわり活躍した倭寇(の魁)だとか、それこそ東南アジアから島伝いに渡ってきたのだとか、説はいろいろある。
 そうした説のどれかということではなくて、その複合ということもありえるし、全く逆に、日本民族は、断固、縄文時代から連綿と続いてきたのだ、その途中でいろんな起源を持つ民族や集団が加わったとしても、神代の昔からの万世一系の民族だという主張もある。
 最後の説はともかく、日本の民族(この呼称では、単一の民族という印象を受ける恐れがある。日本人という曖昧な言い方で誤魔化しておくべきなのか)は、多様な背景を持つ民族や集団の複合だという基本的な見解は動かないのではないか。
 その主流が何処に(南方か北方か、朝鮮系か中国系か、縄文人)なのかは別として。
 そしてこの基本的な見解は戦前どころか、明治以降、早い段階で常識になりつつあったようだ。

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小熊英二著『単一民族神話の起源』

 本稿は、下記の書を扱う:
 小熊英二著『単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社刊)

 小生は、15年戦争を思うとき、その背景に狭量な右翼思想なり超保守主義の思想があるものと思っていた。
 その一つの典型が、保守派の政治家などが時折、口を滑らす単一民族云々の発想だろうと思っていた。「天皇を中心とした神の国」など、その分かりやすい例だろう。
 ちなみに、マスコミなどはこの発言を「神の国」発言として言及するのが通例だった。そこに違和感を持ったのは小生一人ではないはずだ。単に「神の国」発言ないし発想だったとしたら、それは一つの識見であるし、八百万の神々の国、森羅万象のそれぞれに神がいるという素朴な、宗教というより習俗というか民俗というか、そういう自然(動物)と人間とを截然とは切り分けてしまわない発想はあったのだろうし、今もあってもいいと思う。
 問題なのは「天皇を中心とした」という冠があるから、非難の対象になるわけで、まるで戦前に戻そうかというようなそんな発想で政治を行われては堪らないと考えるのだ。なのに、マスコミの記事では「神の国」発言と見出しに明記されている。
 これでは焦点がまるでボケている。

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2005/01/17

山田吉郎著『前田夕暮の文学』

 山田吉郎著『前田夕暮の文学』(夢工房)を読了した。
前田夕暮年譜」(「前田夕暮研究室」の中の頁)を見ると、彼は短歌の作風上、実にいろいろな変遷を遂げたのが分かる。常に前向きであり、模索しつづけた歌人だったのだろう。
 それは、人生の初めからだったようで、学業は窮めて優秀だったにも関わらず、厳しい父のプレッシャーもあり、神経衰弱となり、自殺を図ったりもした。中途退学した彼には、結局、中学から先の学歴はない。父の医者になってほしいという願いにも関わらず、放浪して回り、やがて文学に目覚めるわけである。
 前田夕暮の本名は、前田洋造である。筆名の「夕暮」は、定家、寂連と並ぶ三夕の歌である西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」から採ったと言われるが、決めたのは実に二十歳の頃なのである。
 筆名を決めたのは、鴫立庵の西行歌碑を見てのことだったようだ。
 この大磯には、前田夕暮とも親交のあった、島崎藤村の旧居跡もある。
 前田夕暮の歌を幾つか、ネット上のサイトなどにて詠むのもいいのではないか。
 著者である山田吉郎氏には、本書に続き、『前田夕暮研究 受容と創造』(風間書房刊)という大部の研究書があるようだ。
 尚、 小生には、前田夕暮について触れたエッセイがある。前田夕暮のこと(03/04/06 作)である。一昨年に書いたものだが、評伝などを読んでいなかったので、ちょっとあっさりし過ぎているのが情ないような。
 けれど、まあ、小生らしい前田夕暮との出会い方や、出会った頃の思い出なども記してあるので、恥ずかしいながらも覗いて欲しいのである。

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古矢 旬著『アメリカ 過去と現在の間』

 ブッシュ現大統領のアメリカのことについては、また、ブッシュ大統領の登場以後のアメリカや世界、そして日本のことについては、幾度か言及してきた。
 小生など、ジョージ・W・ブッシュ氏(Bush,George Walker)がゴア氏らと共に、大統領候補に名乗りを挙げた時、まさか彼が大統領になるはずなどありえないと高を括っていた。直感的なものに過ぎないが、視野の狭さ、信念の強さというより頑迷固陋なまでの自説への固執、かならずじも秀でているとは思えない知性など、どう見てもアメリカの大統領になるには相応しくないと思っていたのである。
 勿論、小生の読みは明らかに外れた。しかも、再選までされてしまった。
 アメリカ国内でも大統領の資質に欠けると感じている人が多いというが、日本の首相や政権内部の方々、経済界の一部の方たち等々は別にして、日本でも、また、ヨーロッパを中心にした世界の多くの国々においても、ブッシュ氏の再選は好ましくないものだと見なされていた…にも関わらず、あと四年は余程のことがない限り政権に居座ることになる。
 ああ、見たくない、というのが少なくとも小生の本音である。
 しかし、ブッシュ氏がアメリカの現大統領であるという現実は歴然たるものであり、その現実から目を逸らすわけにはいかない。
 なぜにアメリカはブッシュ氏を選んだのか。しかも、前回の時のように疑惑が生じる余地があるようなギリギリの勝利ではなく、多少の誤差があってもブッシュ氏の勝利は疑いない程度の差を以っての勝利なのである。
 となると、ブッシュ現大統領を選ぶには、何か理由があるに違いない。新聞やテレビ・ラジオ・雑誌、さらにはネットなどマスコミを通じての断片的な情報では理解しきれない何かがあるのだろう。
 そう思われ、本書・『アメリカ 過去と現在の間』(古矢 旬著、岩波新書)を手に取ったのである。

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フォーティ『生命40億年全史』(3)

 本稿は、リチャード・フォーティ著、渡辺政隆訳、草思社刊の『生命40億年全史』を扱う(3回目):

 生命は宇宙から飛来したという説は古来よりある。この説では、結局、生命の起源についての説明を、下駄を宇宙に預けるという形で先延ばしというか、他人(宇宙)任せにしたことになる。
 それでも、生命の起源(由来)説の一つとして有力であることは否めない。
 すなわち、たとえば、某所で見つかった最古の堆積岩のなかに生物が存在したことを示す直接的な証拠を発見した、あるいは地球外生命が存在したことを示す証拠が見つかった、炭素質コンドライト中から見つかった球体構造物は、明らかに有機体のものと思われる、細菌は宇宙から地球に飛来した。
 生命とは、地球だけに見られる特異な現象ではないし、太陽系の中の地球の位置関係などの好都合な諸条件の結果などではない。宇宙のほとんどどこにでも存在するありふれたものだ。生命の種子は偶然に左右されてあちこちに撒かれている。地球その他の惑星のそばを通過する彗星は、宇宙から地球へのおあつらえむきの捲種器だったという内容の講演は、それなりに説得力を持つように思われた。

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フォーティ『生命40億年全史』(2)

 本稿は、リチャード・フォーティ著、渡辺政隆訳、草思社刊の『生命40億年全史』を扱う(2回目)。

 地球上には想像を絶する生命体が存在している。その中にはもしかしたら初めて出来た当時の細胞のあり方を保っているような古細菌がある。そうした原始的な生き物の属性はまさに特殊としか言い様がない。
 そうした古細菌の正式名称は「超好熱性化学合成無機独立栄養生物」である。
 多くは尋常ではない熱さを好む。「摂氏八〇度を切れば増殖できなくなるし、しかもその多くは沸点付近で活発に増殖する。それらが見つかる場所は、火山の火道、海底の熱水噴出孔周辺、地底の奥深くである」ある古細菌は、「その成長に最適な温度はなんと摂氏一〇五度である」生息する場所が場所だけに、目に入らないことが多いようだ。
 こうした古細菌(一般の真正細菌とは別のグループをなす)と呼ばれる超好熱菌のなかの硫黄代謝好熱古細菌とメタン生成細菌が、あらゆる生物の祖先と近い関係にあることが証明された」のだという。 (p.62)
「リボゾームRNAの相対的な類似性と、全生物共通のある種の酵素の合成を指令する遺伝子にもどづく系統樹によって明かされた」のである。
 その系統樹については、このサイトを見て欲しい。

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フォーティ『生命40億年全史』(1)

 リチャード・フォーティ著『生命40億年全史』(渡辺政隆訳、草思社刊)を読んでいる。期待以上に面白いので、若干、触れてみたい。まずは、刊行した出版社の宣伝文句から紹介しておく。
 小生は別に出版社の回し者ではないが、「絶滅、激変、地殻変動――生命がつむぐ物語の圧倒的な面白さがこの1冊に!謎とドラマに満ちた40億年を一気に語り下ろす、決定版・生命史」という謳い文句は、誇大広告ではないと感じつつ、読み進めている。

 本文の中身に入る前に、朝日新聞の論説委員である吉田文彦氏による本書の案内も紹介しておこう。これだけ読むだけでも、本書の面白味は察せられるし、著者のプロフィールも知ることが出来る。

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2005/01/10

阿部和重著『IP』というか

 阿部和重著の『アメリカの夜』に続き、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫刊)を読んだ(表題では、「インディヴィジュアル・プロジェクション」をIPと略した)。
 ある意味で予想通りの中身だった。『アメリカの夜』についての感想文の中で、阿部氏の小説世界は、とことん物語という名の繭に包まれてしか生きられない現代の若者を象徴するものだと書いた。
 そうである以上、とりあえずはその方向を徹底するしかないに違いないと予想した。どこかで壁か限界を感じるまでは。
 そして、本書は、まさに幾重にも堆積した物語の世界を渋谷というドラマ性のあるかのような街を舞台に描き示したものだと感じた。そして案の定でもあった。
 小説のストーリーについて述べるのは控えておこう。それはネタバレの話になるという意味もあるが、同時に徹底して物語を意識している以上、その物語性は白夜のように明けることのない悪夢であることは明らかだからだ。
 ネットで、この比較的新しい、しかし一部の若者には指示をされている書き手の作品をどう批評されてるか、あれこれ検索してみた。
 比較的分かりやすく妥当な理解だと感じたものを一つ、紹介しておく。小生の感想文よりは、ずっと現代の常識に叶っているのだろうし。

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阿部和重著『アメリカの夜』

 本書阿部和重著『アメリカの夜』(講談社文庫刊)を<紹介>するに当たって、本を読み理解するとは誤読以外の何ものでもないことを断っておこう。読書するとは、別の物語を作ることでしかないのだ、とまで開き直りはしないけれど。
 要するに、小生は阿部和重の『アメリカの夜』をとても面白く感じ、一気に読めたが、さて、一体、何が面白かったのか、あるいは作者が意図した何かに多少でも触れたのか、その全てがあやふやのままなのである。
 本書(講談社文庫刊)の帯文をまず紹介しておこう:

映画学校を卒業し、アルバイト生活を続ける中山唯生。芸術を志す多くの若者と同じく、彼も自分がより「特別な存在」でありたいと願っていた。そのために唯生はひたすら体を鍛え、思索にふける。閉塞感を強めるこの社会の中で本当に目指すべき存在とは何か? 新時代の文学を切り拓く群像新人文学賞受賞作。
                             (転記終わり)

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2005/01/09

高橋哲哉著『戦後責任論』

 高橋哲哉著『戦後責任論』(講談社刊)を大晦日の日、帰省に際し持って行き、正月のうちに読了した(高橋哲哉氏については、以下、敬称を略させていただきます。それだけの存在になっていると勝手ながら思っている)。
 日中は家事手伝いなどで読めなかったので、読むのは夜中、両親等が寝静まってから。灯油ストーブがシューシューという音を枕元で立てている。噴出し口がまともに頭に当たるので、部屋が暖まるとストーブを消し、読み出して、部屋が冷えると本を傍らにおいて、ストーブのスイッチを入れる、の繰り返しだった。
 年初に重たい内容の本というのも、と思いつつも、読書の時間が取れない中では仕方がない。列車の中では、往路では安部公房の『無関係な死・時の崖』(新潮文庫刊)を読了し、復路では樋口一葉(ちくま日本文学全集、筑摩書房刊)を手にしていた。
 田舎では、『カサノヴァ回想録』(抄本)も読んでいたけれど、途中、退屈になり、放棄してしまった。
 後者は、11年前の入院の際、寝床で大量に読んだ本の一冊。田舎の書棚を物色していて、あ、当時、一葉の作品をまとめて読んでいた…退屈な入院生活の無聊を紛らわせていた…谷崎潤一郎の『細雪』など読みたくても長篇で手が出せない作品とか、文体的に馴染めない樋口一葉を今のうちに読んでおこうと思っていた…と、懐かしくなり、久しぶりに一葉の世界に浸ろうと手を出したのである。

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2005/01/06

五十嵐謙吉著『植物と動物の歳時記』

 五十嵐謙吉著『植物と動物の歳時記』(八坂書房)を読了した。「梅の香、桃の節句、燕の飛翔、鮎釣り、蝉時雨、稲雀の群…。日本の季節の豊かな移ろいの中で、人々はさまざまな植物や動物と共に暮らしてきた。東西の古典から民俗誌、近現代文学まで、広範な視野で綴る歳時記エッセイ。」などと出版社は謳っている。
 著者の五十嵐謙吉(いがらし・けんきち) 氏は、本書カバーに記された紹介を転記すると、「1929年、新潟県生まれ。 平凡社に勤務し、百科事典、雑誌『太陽』などの編集に従事、世界大学選書、平凡社選書、世界大百科年鑑、日本歴史地名大系の各編集長を務める。1986年退社。」 だとのこと。
 著書には、本書の他に、『四季の風物詩』、近刊に『十二支の動物たち』(いずれも八坂書房刊)や、『歳時の博物誌』(平凡社)『新歳時の博物誌 (1)(2) 平凡社ライブラリー (243)(259) 』などがあるようである。

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榊原悟著『日本絵画の見方』

[以下の小文は、季語随筆日記「無精庵徒然草」の日記「鳥総松(とぶさまつ)」(January 6, 2005)からの転記である。ほんの一部だけ、手を加えている。それなりに重大な部分なのだが、さて、何処でしょう、なんちゃって。]

 本日の季語随筆日記の表題は、「鳥総松(とぶさまつ)」 である。この言葉自体、馴染みが薄いかもしれないが、まずは、この言葉を表題に選んだ理由を示しておきたい。
 それは、今から紹介する画人の運命に関係する。彼は江戸時代の絵師なのだが、何故か島流しの刑に処せられたのである。しかも12年も。それでも、生きて帰る僥倖に恵まれた。
 ところで、我が季語随筆日記は、季語随筆と銘打っている。一月の季語に関係し、且つ、島流しに多少でも関係する適当な季語はないか、物色してみた。
 島流しが季語・季題にあるとは、さすがの小生も思わなかったが。
 が、つらつら眺めていると、「鳥総松」という季語があるではないか。確か以前、この言葉に関連する話題を採り上げたことがある。調べたら、あった!
 小生には、「前田普羅のこと」という我が郷里・富山に関係のある俳人を採り上げたエッセイがある。この前田普羅の絶句に「帰りなん故郷を目指す鳥総松」がある(余談だが、普羅が亡くなった年に小生が生まれている。普羅が富山で居住した地は小生の生地に近い。尚、「帰りなん故郷を指す鳥総松」と表記されているサイトもある。字数の上でも、また、鳥総松の持つ性格からしても、「目指す」よりは「指す」のほうを表現として選びたい)。
 別に前田普羅が島流しで富山の地に流れたというわけではないが、何処か遠い地に長くあって、ようやく故地に帰る心境が詠い込まれているということ、且つ、「鳥総松」が一月の季語だということで、本日の季語随筆の表題に選んだわけである。

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2005/01/05

チャンドラー『プレイバック』

 小生は推理小説やミステリー小説、サスペンス小説の類いは読まない。
 別につまらないとか、退屈だとかという格別な理由があるわけではない。単に読書の範囲をやたらと広げているので、そこまでは手が回らないというに過ぎない。
 尤も、推理小説は若干、事情が違う。誰が犯人かを推理するのが推理小説の楽しみの一つらしいのだが、小生はそんなことを考えるのが面倒なのだ。楽しみのために読んでいるのに、頭を使わせるなって思ってしまって、大概、読んでいる途中で、否、ほとんど冒頭付近でうんざりしてしまう。
 横溝正史氏の小説は、推理小説の分野に入るのかどうか知らないが、彼の本を読んだのは小説の持つ独特の雰囲気に釣られてなのだと思う。といっても、実際に読んだのは、『本陣殺人事件』『八つ墓村』くらいのもので、あと、『犬神家の一族』や『悪魔が来りて笛をふく』は、映画で見て、もう、読んでしまったような気分になっていて、小説には手を出さなかったのではないか。
 彼の作品のタイトルを見るだけでも、彼の小説の雰囲気や傾向が察せられるかもしれない。

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松本清張『顔・白い闇』

 小生は推理小説は苦手である。そもそも推理するのが苦手なのだ。あるいは、もともと頭を使うのが面倒なのかもしれない。それよりSF(空想科学)小説の世界を好んだ。近くにある貸し本屋さんで小学校の頃は漫画の本を、やがてSF小説の世界に分け入った。
 推理小説に何となく抵抗があるのは、あくまで想像に過ぎないのだが、父の書斎に原因があるかもしれない。座敷や仏間などに父の書架があり、磨りガラスの扉を開ける方式の書棚にはびっしり本が並んでいた。
 小生は、まず、本の量に圧倒された。それでも、恐る恐る、誰もいないときに、読みもしないのに本を抜き出し、頁を捲ってみた。活字、活字、活字! 
 小生は尻尾を巻いて本の山から逃げ去った。
 それでも好奇心があるものだから、また、恐々覗いて見る。小学校の頃だったかテレビでは石坂洋次郎原作のドラマが全盛だった。
 「青い山脈」「陽のあたる坂道」「何処へ」「若い人」「風と樹と空と」…。テレビに映画に石坂洋次郎は持て囃されていた。一体、どれほどの作品がドラマ(映画)化されたかしれない。
 何故に当時は石坂洋次郎作品に人気が集まったのか。

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