宮部みゆき著『理由』
今度、宮部みゆき著の『理由』が文庫本化された(朝日文庫刊)こともあり、名うてのストーリテラーの評判を持つ氏の著を一冊くらいは読んでおこうと思い立った。
なるほど、語り口が上手い。必ずしもよい小説読みとは思えない小生をも、グングン小説世界に引き込んでくれた。仕事が忙しく、本を読む時間もままならず、断続的にしか読めないはずの小生が、一気に読了できたのは、偏に作者の筆力の賜物である。
刊行されて数年が経っており、改めて内容を紹介する必要はないだろう。
が、老婆心ということで、簡単に紹介しておこう。それに本書はサスペンス的小説で、推理小説ではないので、誰が犯人かというネタをばらしても、本書を読む障害にはまるでならない。
そう、誰が陰惨な殺人事件の犯人なのかは途中で早々と分かってしまうのである。だから謎解きの楽しみもない。そんなことを求めるのは筋違いである。作者の意図は、もっと別のところにあるのだ。
一家四人殺人事件は雨の夜、東京都荒川区の超高層マンションで起きる。その事件の顛末の一部始終を小説(ノンフィクション仕立てなので、ライターが事件の関係者をインタビューする形式で作品は書かれている。形式はまさにノンフィクションなのである)の語り手が、時に語り手自らが、あるいは関係者らの口から語る形で小説は進行する。
誰が誰を殺したのか。最初は、いかにもこの人物が犯人と思われる人物に焦点が合わされる。マスコミも、その人物を犯人扱いして報道する。が、事件当夜の経緯が詳細に検討されることで、当初は予想されなかった人物が浮上してくるのである。
この辺りの綿密な検証や推理は、一級の推理小説のような緊迫感があり、読ませてくれる。宮部みゆきは(少なくとも本書を読む限りは)警察に対して、特に不信の念などを有していないようだ。事件の捜査についても、警察は慎重に行っており、マスコミが勝手に報道の上で突っ走ることがあっても、捜査そのものは地道に着実に進められていることが描かれているのだから。
小説の焦点が警察(の捜査)に当てられているわけではないから、敢えて格別警察への批判(共感も含め)を描き込む必要はなかったのだろう。
この事件の特徴は、実は殺された四人というのが、一体誰なのか分からないことにある。一応、名前はすぐに判明するのだが、いわゆる裁判所の競売物件によくある占有屋ということで、それぞれ過去に経緯のある人物達であり、実名を隠して占有していたのである。
従って、一体、それら四人はどういう人物達なのかを追及していくことで、事件の周辺に絡まる人間模様、家族模様が浮かび上がっていくのである。
実際、この小説を読んでの感想で、家族とは何かを改めて考えさせられたというものが多かった。小説の中では五つの家族模様が語られている。多くは不幸だったり、重かったりして、家族がバラバラになっていく過程が、それぞれ当人たちの口で語られるのだから、そういった感想を持つのも不思議はない。
もしかしたら、作者のこの小説を書いた意図の半分は、そこにあるのかもしれない。
[参照のため、以下のサイトを例示する。小生の見解と一致するからではない:
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/s-miyanaga/riyu.htm
http://www.slis.keio.ac.jp/~ueda/mystery/riyuu.html ]
さて、実は、小生の率直な感想を述べると、失望感そのものだった。
文庫本で600頁余りの本書で、その結末部分を残す大半を面白くは読めたのに、肝心の結末部分で小生はガッカリしてしまったのである。
何故か。
それはまさに、犯人である若者の描き方にある。彼は暗い過去を持つ。母親は誰にでもすぐに惚れこんでしまう女である。そして一旦、惚れると後先もなしに男に尽くし、やがて捨てられる。残ったものは男の子種だけ。
若者の「兄弟」も父親がそれぞれに違う。若者は夫婦とか家庭に根底から不信感を持って育つしかなかったのだ。
それゆえ、彼は彼を愛する女性が現れ、その人が身篭っても、俺は家庭を持ちたくない、俺の子どもなど要らないと、女と別れる。
その際、その若者は女の親元をわざわざ訪れて、結婚はできないときちんと断るのだ。彼という人間の、決していい加減でない、むしろ胸に抱える苦しみの深さと、にもかかわらず、その苦しみをできるだけ自分の中に抱えようとする律儀ともいえるほどの性格が分かる。
しかし、女は男を愛している。子供を産めば心が変わるかもしれないと産んでしまうのである。自分こそ、男の深く傷ついた心を癒し労わることができると信じているのだ。
さて、この若者こそ上に述べた占有屋の一人であり、一家四人殺しの犯人(の一人)なのだ。
今、小生は犯人(の一人)と書いたが、実はこの若者は殺されてしまう。何者かによってマンションのベランダから突き落とされる形で。
では誰が殺したのか。それは若者を愛するこの女なのである。それも、もしかしたらこの若者がとんでもない事件を引き起こすかもしれないという杞憂から、敢えて篠突く雨の中、赤子を胸に抱えて現場に飛び込んでいったのだ。
その惨劇の場で女は占有屋仲間を殺してしまった若者と出会うのだ。そして、勢いの余り若者を彼女が突き落としてしまう結果になる。
ここまで若者と女とのかかわりを描いている。また、家族とは何かと大方の読者をして考えせしめるほどに、それぞれの家族の人間模様を描きこんでいる。若者等についても同様だ。
なのに、犯人(の一人)である八代祐司を最後の最後で幽霊扱いにしている。かの事件のあったマンションで、幽霊が現れると評判になるのだが、それが八代祐司の幽霊だというのだ。
小説の最後である関係者は、この八代は「家族を全否定して、他人との温かい関わりも信じられなくて、ホントに自分だけっていう人間でしょう? 恋人とのあいだにできた赤ちゃんのことだって、愛せたとは思えない。」と語る。
さらにこの関係者は、この事件だって、結局はカネ目当てのもので、女を愛するが故の犯行ではないと続ける。要するに自分本位の人間に過ぎないという。
「今の若い人なんて、みんな八代祐司の素因を持っているんですよ。親のことだって、便利な給料配達人と、住み込みのお手伝いさんぐらいにしか思ってないんだものね。若い人には、八代祐司の気持ち、判るんじゃないでしょうか」
最後に、「ここの人たちにとって、八代祐司は、全然異質の怪物みたいな人間なんですよ。本当はそうじゃないんだけど、今はまだそう思っていたいのね。だから、怪物は怪物にふさわしく、死んだら怨霊になって出てきて、みんなを怖がらせてくれた方が、気分的に安心できるんじゃないかしら」と締め括る。
無論、これは事件の関係者のコメントである。決して作者自身の結論や感懐と単純に重ねられるものではない。
しかし、肝心の八代祐司の暗い胸のうちが、外見異常は描かれておらず、八代に対するコメントが幽霊だったり怪物だったりしか見出されない以上、読者たる我々(小生だけかもしれないが)は、八代はやっぱり怪物だったんだ、幽霊になるしかなかったんだ、読み手は、結末に至るわくわくドキドキさせてくれる宮部の語り口に酔っていればいいのよ、ってことになるしかないのだ。
小生は思うに、実は本当の物語はここから、まさに結末部分から始まるのだ。
何故なら物語の真の闇は、八代の胸のうちにこそあるのだから。
山口県光市で99年4月に起きた母子殺害事件で殺人罪などに問われた元会社員(事件当時、18歳の少年)の被告の述懐をここに少し披露しておく。
事件は、「99年4月14日、光市室積沖田のアパートで、主婦、本村弥生さん(当時23歳)を婦女暴行目的で襲い、抵抗されると手で首を絞めて殺害した後、陵辱。長女夕夏ちゃん(同11カ月)が泣き続けたため床にたたきつけ、首にひもを巻きつけて絞殺した」というもの:
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20020314k0000e040053000c.html
この犯人は、「選ばれたものは犯罪を犯す権利を持つ」こんな事件を引き起こしても、「そんな罪を犯しても、せいぜい数年(短ければ7年)で刑務所から出てこられるだろう」と、裁判の中で明らかにされた被告が友人に送った手紙の中で書いている。
彼を幽霊扱いしていいものだろうか。怪物扱いしていいものだろうか。それでは、なんのことはない、臭いものに蓋、訳のわからないことを天狗や神隠しのせいにしているようなものではないか。
本当のルポやノンフィクションなら、探求しても限界があるということがないではない。所詮は関係者の口や胸のうちが全て開陳されるはずもないのだから。
しかし、本書は小説なのだ。この肝心な闇を追求しなくて小説を書く、どんな意味があるというのか。娯楽小説だから、直木賞の対象のエンターテイメントなんだから、ほぼ最後まで物語を堪能できたからいいじゃないか、だからこそノンフィクションの形式にしたんじゃないか、結末を狐に抓まれたような形で終えるのも娯楽小説の約束なんだよ、で済ませるべきなのか。
ここまで来ると、小説(物語)に読者は何を求めるかという分岐点に至る。読者の好み、書き手の好みということになるのかもしれない。
そして、たまたま小生は、思いっきりフラストレーションが溜まったよ、ということなのかもしれない。
ということで、宮部みゆき著『理由』の読後感、まさに感想になってしまった。
せっかくなので、宮部みゆきの公式ホームページを以下に示しておく。ホームページの名称は、大極宮(たいきょくぐう)という。大沢在昌、京極夏彦、宮部みゆきの人気作家三人を扱う大沢オフィスの開設したサイトである:
http://www.osawa-office.co.jp/
原題:「宮部みゆき著『理由』読後感」(02/10/30)
| 固定リンク
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- 2024年12月読書まとめ(2025.01.05)
- 2024年11月の読書メーター(2024.12.06)
- 2024年10月の読書メーター(2024.11.17)
- 2024年9月の読書メーター(2024.10.01)
- 2024年8月の読書メーター(2024.09.04)
コメント