モーム著『月と六ペンス』
サマセット・モーム著の『月と六ペンス』(阿部知二訳、岩波文庫刊)を読んだのは初めてのことである。モームは小生の好きな作家の一人で、『人間の絆』は敢えて原書を入手して読んだほどである。
最近、モームの『雨・赤毛』を読み直したが、改めて関心を惹かれたので、この際、まだ手を出していない『月と六ペンス』を思い切って読むことにしたのである。
小生が、どうしてこの作品に手を出せなかったかというと、巷間、言われていることだが、ゴーギャンの生涯に暗示を受けてこの作品を書いたというイメージが、いつの間にかゴーギャンの伝記的な小説だという思い込み乃至偏見に成り代わっていたことがある。
実を言うと、小生はゴッホはともかくゴーギャンの絵があまり好きではなかったのである。
あるいは、ぶっちゃけた言い方をすると、南海の島へ行ってその土地の女性も含めた開放的な風土に接したなら、誰でもあんな絵が描けるんじゃなかろうか、とさえ思っていた節があるのだ。
念のため、ポール・ゴーギャンの紹介をするサイトを挙げておく:
「ポール・ゴーギャンの生涯」
このサイトの中に、「ポール・ゴーギャンの作品」というページがある。
小生の中にあるゴーギャンという画家に対するイメージは、「エア・ハレ・イア・オエ(お行き!)」や「テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)」にトドメをさす。
絵画にも造詣の浅い小生は、技術的に稚拙なものを感じて、要するにゴーギャンはゴッホとの絡みの中で登場する画家の一人に過ぎなかったのである。
が、例えば、下記のサイトの絵を見て欲しい:
「かぐわしき大地」 1893/4年
あるいは、「笑い」
このような作品を知っていたら、小生のゴーギャンに対する見方も違うものであったに違いない。
邪道なのかもしれないが、(かぐわしき大地)や(お行き!)より、こちらの木版画作品に凄みのようなものを感じる。生命の横溢、生の賛歌どころではなく、何か敢えて異常とは言わないまでも、どうにも持て余してしまう過剰なる命の炸裂を感じるのである。
こんな作家なら、モームならずとも、惹かれても当然かなと、遅まきながらに思うのである。
いずれにしても、いつしか思い込みの中で、今更ゴーギャンをモデルにしたような小説など読めるかという気持ちのまま、この小説を放置してきたのだ。
さて、岩波文庫の表紙の謳い文句を参考にしたい。
そこには、このように書いてある:
「絵を描きたい一念でロンドンの幸福な家庭から突然姿を消した男,ついには文明社会から逃れて太陽と自然の島タヒチに身をひそめ,恐ろしい病魔におかされながらも会心の大作を描いて死んで行った男がこの作品の主人公である.フランスの画家ゴーギャンの生涯にヒントをえて創作したといわれ,モームの代表作である.一九一九年刊」
ちなみに小生が読んだ岩波文庫の表紙には、ほぼ同じ文章だが、このように書いてある:
「絵画への情熱にかられて突然妻子を捨てたあげく、ついには文明社会から逃れて南海の島タヒチに身をひそめ、恐ろしい病魔に冒されながらも快心の大作を描いて死んでゆく主人公。画家ゴーギャンの生涯に暗示をうけ、芸術のデーモンに魅入られた男の凄絶なエゴイズムを描いたモームの代表作」
以下、小生の勝手な読みに入る前に、高名な方の書評を参考に示しておこう。賢明なる方は、このサイトを読むだけで、その先の小生の雑感は自重されることと思う。
この中で、氏は、本書を読む三つの理由を列挙しておられる:
「(1)サマセット・モームはもともとがイギリス諜報機関のメンバーで、ジュネーブでの諜報活動に携わっているうちに激務で健康を害し、スコットランドのサナトリウムで静養しているあいだに本書を書きあげた。
(2)『月と六ペンス』の主人公はチャールズ・ストリックランドというのだが、これはポール・ゴーギャンその人をまるまるモデルとしたかなり風変わりな伝聞伝記なのである。
(3)そこには、作家の「僕」がパリで出会った画家(ストリックランドすなわちゴーギャン)が妻を捨てパリに出て、友に助けられながらも、友の妻を自殺に追いやり、その夫が去った妻を思い、画家が南国の女に愛されるといったよう
な男女の絆が、次々に描かれている。」
(1)はともかく、(2)はゴーギャンの生涯にヒントを得たのは間違いないが、「ポール・ゴーギャンその人をまるまるモデルとしたかなり風変わりな伝聞伝記」というのは間違いだろう。モームはゴーギャンの生涯に暗示を受けたとい
うのがせいぜいである。実際、本書の冒頭に自分でそう書いている。
(3)は、とくに可もなし不可もなしである。
さて、ゴーギャンを彷彿とさせるかのような主人公チャールズ・ストリックランドは、岩波の謳い文句の中の言葉を借りるなら、芸術のデーモンに魅入られた男として描かれている。そしてそんな男の凄絶なエゴイズムを描いたと理解しがちである。
(余談だが、ストリックランドという名前、なんとなくだが、かのストリンドベルィを連想させるのだが…)
が、小生が今度読んで感じたのは、まるで逆だった。むしろ、チャールズ・ストリックランドという芸術家は謎の人物であり、彼の内面が描かれることはない。あくまで外聞であり噂であり、素行の類いが描かれるだけなのである。
また、仮にストリックランドが主人公であるとしても、芸術というデーモンに取り憑かれた人間の生涯など、常軌を逸しがちなのは、ある意味、当然なのかもしれない。幸福な家庭(妻子)を捨てたりすることもあっても、不思議は無いとも思えなくも無い。
それより、小生が常軌を逸している、その意味で、凄みを感じさせるのは、ストリックランドの友人である。
言うまでも無く、月というのは芸術への情熱を象徴し(岩波文庫の解説によると、「手の届かぬもの」を含意しているとか)、六ペンスというのは世俗的なもの、取るに足りない常識の類いを象徴させている。ストリックランドはデーモンに駆られているのだから、妻子を捨てるのも無理からぬのかもしれない。
しかし、ストリックランドの友人は、ストリックランドに妻を奪われ、しかもその妻は追い詰められて自殺してしまう。それでも彼はストリックランドを信じつづける。詰問する語り手(私)にも関わらずストリックランドを擁護する。誰もが評価しないどころか、歯牙にもかけなかったストリックランドの作品に未曾有の芸術の出現を感じる。それが、ディルク・ストルーフェという人物である。
語り手である<私>によるとディルク・ストルーフェは、「あざけり笑ってやりたくなるか、それとも、とても太刀打ちできぬと、こちらが肩をすくめずにいられないか、こちらの性格しだいで、そのいずれにかになるというような人物だった。生れついての道化というべきだった。
画家だったが、ひどく下手なもので、私は、はじめてローマで彼に会っていらい、彼の絵の思い出には悩まされつづけてきた。彼は平凡陳腐なものに、ひたすら情熱をかたむけて仕事する男だった。魂を芸術愛で燃えたたせながら…(略)…」
「彼の画室といえば、とんがり帽をかぶり口ひげをつけ目玉をむいた農夫たち、注文どおりのぼろ服をきた浮浪児たち、はでな色のペチコートの女たちといったものを描いた画布でいっぱいになっていた」
気のせいか、後段を読むと、ゴッホを連想したりする。糸杉を描く、などと叙述してあると、ついそう思いたくなる。
でも、違う。
彼は「モネとかマネとか、その他の印象派の画家などが、かつて存在していなかったのではないかというような気に」させる、そんな入念な筆の運び、入念な色彩、写真も敵わないような正確さを誇る画家なのである。
そんな彼だが、誰もが見向きもしないような才能の持ち主を見出す眼識は確かなのである。<私>には評価できないストリックランドを高く評価する。ストリックランドに妻を奪われ、その妻が自殺に追いやられてさえ、その評価は変わらない。
巷間、言われているようには、ゴーギャンをモデルとしたかのようなストリックランドが主人公なのではなく、そのストリックランドを評価し擁護しつづけるストルーフェこそが主人公なのではないかとさえ、思われてくる。
端的には、芸術へのデーモンに取り憑かれ妻子を捨て、他人の妻を奪っても芸術に惑溺するストリックランド、そしてそんな彼に私生活をズタズタに引き裂かれながらも芸術を信じつづけるストルーフェ、そんな手の届かぬものへの憧れに駆られる、芸術への情熱に駆られる芸術家像(芸術へのデーモンに駆られる人物像)こそが主人公なのだろう。
恐らくは、モームは、諜報活動に携わりながら、人間の情熱という魔を見てきたのだろう。幸福を求めながら、しかし、それ以上に手の届かない世界に焦がれる人間という生き物の不可思議さに圧倒されてきたのだろう。
そして、モームも自身のうちに、作家として、プロの書き手としてデーモンを感じていたのだろうか。
最後に、モームの生涯を見ておくのもいいだろう。
その末尾にある、コメントは、引用するに値する:
「ヴォルテールの散文を完璧と推称し、スウィフトの散文は、モーム自身殆ど暗唱し尽くして、自由にあたかもスウィフト自身のように書く事ができるようになった」…。
(原題:「モーム著『月と六ペンス』芸術という魔」 03/07/20 記)
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