養老孟司著『毒にも薬にもなる話』余談
「今の時代に自分の言葉を持つということ」という表題の雑文(作成年月日不明。但し、メルマガの2001/04/07配信号にて公表)の中で、『毒にも薬にもなる話』(養老孟司著)に若干、触れている。なので、先の書評エッセイに続ける形で載せておく。(04/12/13 記)]
[漢文という古典]
過日、車の中で休憩しながら読んでいた本(『身体の文学史』養老孟司著、新潮文庫)の中に気になる記述を見つけた。
それは「芥川とその時代」と題された一文の中にあるもので、養老氏が引用しておられる源了圓氏の『型』(創文社)の中の一文である。その源氏の文の一部を示すと以下のようである:
「唐木(順三)氏はこの中([型の喪失])で、大正四・五年に日本の近代精神史における断層が生じたというきわめて注目すべき見解を示しておられるが、その徴候として氏が掲げておられるのは、漢文を古典としない世代の登場ということである。すなわち安部次郎・小宮豊隆・安部能成・和辻哲郎・武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦・長与善郎らのいわゆる[大正教養派]や[白樺派]の成立がそれである。」
養老氏が上掲の文を引用したのは、ある種の日本文化の切れ目が生じているが、その切れ目に芥川が加えられていない不思議を述べるためである。
芥川は実際には、同世代の中では別格なほどに漢文の素養があった。しかし、それは漢文を古典とする世代のものではなく、文学としての漢文に親しんだ、と養老氏は指摘する。
ところで、小生はここで芥川論を展開するつもりは毛頭ない。ただ、日本の文学を背負ってきた重鎮においても、明治以降のある時から、唐木氏の指摘では大正の四・五年辺りから漢文は文学的背景に一応はあっても、古典として生まれながらに血に染み込んだものではなくなっていることはいえそうだという点である。
小生自身の好みと言ってしまえばそれまでだが、大正以降の文学に何処かしら物足りなさを覚えてきた。が、そうした中で読むたび小生を圧倒するのは明治の文学者達、中でも漱石や鴎外などなのである。
小生など全く単なる教養としても漢文など身近にはないのだが、それでも折に触れ、蘇軾やら漢文の名文集などに親しんではきた。今も思い出したようにだが、漱石の漢文はひもとく時がある。
幕末から明治の世、急激に流れ込んできた西欧の文化や習慣・思想の数々。それら異質の背景に由来する正に異物を曲がりなりにも消化したのは、言うまでもなく古典としての漢文が血肉としてあったからである。哲学という言葉を生み出した西周に代表される先哲が呻吟しつつ消化に勤めたのである。
しかし、明治の世も時代が経ち、文学の上でも言文一致運動なるものが勃興し、日常の言葉の延長として文学が考えられる中で、漢文は次第にもてあます対象にならざるを得なくなる運命にあったわけだ。
けれど、漱石や鴎外の世代は日常的に漢文に親しんでいたわけだし、その漢文世界の奥行きを生かすべく文学活動、あるいは文学以前としての血肉そのものである漢文を自ら織り成していったのである。
現代において、教養としてはともかく文学の世界に漢文を生かす方策があるのかは知らない。平野啓一郎氏が何年か前に芥川賞を取った作品は、彼の素養の一部に漢文があることを多くの方が新鮮に感じたことは記憶に新しいけれど。
カタカナ文化、ローマ字文化が横行する今日、時代錯誤な認識かもしれないけれど、遠い昔、『万葉集』や『古事記』などが成立した時代、漢文を読み下し文として読み込んだ先人がいることを思い出す。柿本人麻呂などが代表だろう。
恐らくは、縄文の昔から(少なくとも弥生の昔から)あっただろう日本語の源流を彼(等)が漢文世界という圧倒的な先進文化を前に融合させるべく、想像を絶する苦労を果たしたのに違いない。
今、文化の世界、経済の世界、否、あらゆる面で世界はその様相を変えようとしている。
何も日本だけが海外から奔流となった異質な文化の流入の時を迎えようとしているわけではない。アメリカだってそうだし、ロシアもそうだし、中国もインドも、北朝鮮も世界中がインターネットという未曾有の文化拡大・攪拌装置によって生まれ変わろうとしている。
その行く末はきっと誰にも見えないだろう。前代未聞の文化革命が始まっているのだと小生は予感している。
そうした中、消化・吸収の能力の如何に関わらず、文化や経済の洪水は起こる。殻に閉じ篭るもよし、特定のイデオロギーに拠り縋るもよし。
ただ、今の我々に古典という名の背景がないだけのこと。消化・吸収するには胃袋が必要なのだけれど、教養の極めて薄い私には消化不良を起こしそうだし、その以前に口に受け付けない恐れも大きい。
きっと、多くの人は寄らば大樹の陰とばかりに巨大メディアに世界を見るパラダイムを依存することになりそうな雲行きである。一時期言われたようには従来型のテレビや新聞やラジオなどはその座を危うくはされないようだ。寄らば大樹の陰なのだから、彼等のような存在は、その発する情報やパラダイムが正しかろうが、そのパースペクティブに大方の人が嵌められていく安心装置としての役割は安泰なのかもしれない。
実際、自分なりの視点、自分なりの言葉を、表現を持つなどということは至難のわざなのだから。
自分の言葉を持つためには、孤独な世界に迷い込む覚悟が要る。変化が急激であれば尚更だろう。情報が洪水のようになって我々を呑み込もうとしている。我々は情報洪水の荒波に揉まれる木の葉なのだ。
だとしたら、そんな中で自分の頭で考えること、すなわち孤独が怖いなら借り物の言葉を使いまわせばいい。そしてどちらの道を選ぶもその人の自由ではある。つまりマスコミや権威という大樹に引き摺りまわされるか、荒波に孤独に漕ぎ出していくのか。
但し、どちらも将来について何の保障もしてくれないだろうことは覚悟したほうがいいだろう。
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 2024年8月の読書メーター(2024.09.04)
- 2024年7月の読書メーター(2024.08.05)
- 2024年5月の読書メーター(2024.06.03)
- 2024年3月の読書メーター(2024.04.02)
- 2023年10月の読書メーター(2023.11.01)
コメント