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2004/12/24

河盛好蔵著『藤村のパリ』

 島崎藤村は1872年から1943年の人。本書の著者である河盛好蔵氏は1902年に生まれ2000年に97歳で亡くなられている。生まれは三十年違うとはいえ、40年以上も生きている時代が重なっている部分がある。
 小生が藤村に傾倒し始めたのは、この数年のことと言える学生時代からポツポツ、読んではきたのだが)。その小生にとって島崎藤村というのは、完全に古典の域の方なのだ。
 その方がつい2年前の2000年まで生存しておられたというのは、小生の感覚が狭苦しいというだけのことかもしれないが、ちょっと驚異に感じられたりする。

 河盛氏は、旧制中学時代に藤村の文学に触れたという。そして一気にのめり込み、フランス文学を志すようになったのも藤村の影響だと自ら語っている。
 1913年に渡仏した藤村を追って、昭和3年(1928年)に河盛氏が渡仏する際には、河盛氏は、藤村の傑作だと評される『エトランゼエ』を携えて行ったという。

 本書河盛好蔵著『藤村のパリ』(新潮文庫)は、かの「新生」事件(藤村が自らの姪と関係を持ってしまった)を引き起こし、自らの傷を癒すためと自らに罰を加えるため渡仏した藤村のパリ時代の生活ぶりを描く。
 ただし、いかにも河盛氏らしく、むしろ藤村が滞在した頃のパリを描いているといったほうが相応しいかもしれない。それほどに足跡を事細かに調査している。単に藤村への思い入れを語っているわけではないのだ。
 本書の圧巻は、モラリスト(人間研究家)を自認する河盛氏らくし、藤村がパリで居住していた下宿の女主人の素性を探っての探偵紛いの探求振りにある。
 『藤村のパリ』の連載のためもあり、二度に渡って彼女の郷里リモージュを訪ねている。そしてとうとう実際に女主人の疎開時代の彼女の(そして藤村の)寓居を探し出し、名前、生年月日、死亡年月日、生涯独身だったことなどを調べ上げている。
(ちなみに、その寓居は、この河盛氏の探索が機縁になり藤村の記念館になったという。本書『藤村のパリ』の「あとがき」によると、「藤村の名を冠した藤村通りもできるだろうと聞いている」というが、さて、どうなったのだろうか。河盛氏も、顛末が知れなくて残念がられているようだ。)
 藤村と彼女が出会ったとき、藤村は41歳、マリー・シモネエは55歳だった。二人の間に何かあったのかなかったのか、あるいは彼女の郷里を第一次大戦の戦禍を避けるため訪れた他の日本画家たちは、どうだったのか。そこは憶測を逞しくするしかない。

 さて、本書の中には実に様々な既に歴史上の人物となった方々が登場する。藤田嗣治、正宗得三郎、安井曾太郎、梅原龍三郎(但し、藤村とは入れ違い)、山本鼎、柳田国男、田山花袋、正宗白鳥(彼は『エトランゼエ』を日本人の欧州印象記として、永井荷風の『ふらんす物語』と双璧をなすものと評価している)、徳田秋声、吉井勇、市川左団次、有島生馬、郡虎彦、伊藤道郎(末弟の千田是也も)……。
 この中の藤田嗣治は藤村に遅れること二ヶ月ほどでパリにやってきた。パリ滞在中の藤村の数少ない親しく交流した人物の一人である。多くの人士との関わりや、著名人の記録の中に藤村が登場するのだが、密に付き合った人物は少ない。
 というのは、もともと藤村は人付き合いが得意なほうではなかったし(少なくとも彼を知る人の一部には、そういう印象を持つ人がいる)、パリにやってきたのは自己懲罰的な意味合いもあったわけで、殊更に交流を求めることはなく、むしろ孤立をも求めた節も(少なくとも最初の頃は)見受けられるのである。
 その数少ない親しくあれこれを語り合った人物に河上肇(経済学者で『貧乏物語』などの著者。1879-1946)がおり、石原純(のちの東北大学物理学教授で、歌人でもある。1881-1947)らがいる。画家らとの取り留めのない雑談とは違って彼らとは藤村としても実のある話が出来て嬉しかったようだ。
 
 『藤村のパリ』には藤村に纏わる逸話も数多く見受けられる。言語学者のダニエル・レヴィに藤村が日本で今、一番重要な文学者は誰かと問われた際、北村透谷と答えたことなど小生は興味深かった。
 北村透谷(「内部生命論」の著者。詩人・評論家。1868-1894)は、のちに藤村らと雑誌「文学界」を創刊している。

 藤村は芝居や音楽界にも積極的に足を運んでいる。『青い鳥』で有名なメーテルリンク原作の芝居を見ているし、作曲家ドビュッシー自身の指揮したオーケストラを聴いたこともある。
 さらに藤村は小山内薫とも交流があり、オペラ座で小山内と一緒にグノーの歌劇『ファウスト』を観劇したり、シャンゼリゼエ劇場の舞台開きということでパリの舞台に上ったロシアの舞踏家ニジンスキイ一行の舞踏を観ている。
[ニジンスキーについては、多くのサイトで語られている。]

 逸話の数々は枚挙に遑がないほどだが、その多くは『エトランゼエ』を参照している。『藤村のパリ』の半分は、「エトランゼエを読む」と題したいほどのものだ。それほど河盛氏も『エトランゼエ』を資料的にも、一冊の本としても高く評価しているということだろう。
 本書『藤村のパリ』は、河盛氏の藤村への愛惜の念を知ることができると同時に、その念を藤村の足跡を執拗に調べ上げることで人間藤村を知ろうとするモラリスト(人間研究家)河盛の面目躍如といった本である。
 河盛氏は、89年に昭和天皇の大葬をテレビで見ているうちに気分を害し倒れられた(脳梗塞)。以後、リハビリを重ね、一度は中断していた『藤村のパリ』の校正に着手することが出来たのだ。
 本書は、97年の最晩年に至るまで涸れなかった河盛氏のモラリストとしての情熱と執念と人間性が著作の形で示された好著だった。
 本稿において幾度もモラリストという言葉に触れて、久しぶりにモンテーニュ(1533~92)の『エセー(随想録)』やパスカル(1623~62)の『パンセ』を読みたくなったよ。


 (原題:「河盛好蔵著『藤村のパリ』あれこれ」 02/11/23記。尚、島崎藤村の小説については、幾つかを採り上げ感想文を書いている。「書評と著作の部屋」を参照のこと。)

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