養老孟司著『毒にも薬にもなる話』
「養老孟司著『毒にも薬にもなる話』雑感」
本書は月刊誌の「中央公論」(93年から97年まで不定期に掲載)や季刊誌の「アステイオン」(91年夏から93年夏)に掲載された社会時評的な文章を纏めたもので、97年10月に中央公論社から刊行されている。
小生が読んだのは、中公文庫版(2000年刊)である。
小生は、『唯脳論』以来の養老氏のファンである。昨年も、『身体の文学史』(新潮文庫刊)を読み、文学を「身体」という切り口から読み解く養老氏の独特の文学論に感激したものだった。
この『身体の文学史』は推奨に値する。
以前にも既に『身体の文学史』には触れいているので、参照願いたい:
nifty:FBUNGAKU/MES/314/15813
[残念ながら、上記のサイトでの記述は行方不明となってしまった(04/12/13 記)]
さて、養老氏は専門としては解剖学者だった。『唯脳論』という養老氏を有名にさせたベストセラー書があるためか、氏は脳の専門家と誤解されている向きもあるようだが、本書の中でも断っているように、氏は解剖学の専門家なのだ。
その上で、氏はいわゆる専門家は二つに分けられるという。
一つは社会など、まさに意識などに関わる専門家。もう一つは、自然に関わる専門家だといういう。言うまでもなく解剖学など医学に関わる専門家は、自然に関わる専門家であり、先の読めない世界を相手にする専門家なのである。
一方、社会などの人工の世界を相手にする専門家の典型がお役人だと、養老氏は言う。実際に目にしたり分析したりする対象は、生の現実世界にいる人間ではなく、統計であり資料であり過去の事例でありetc.で、システムの範囲を食み出さない。
従って出来上がったシステムの中で前例との比較考量は得意だが、前例にないことになるとお手上げなのだと、説く。
ほんの数年前までは(つまり阪神・淡路大震災が発生するまでは)大震災のような天災でさえ、あってはならないことであり、従ってあtってほしくないものであり、従ってないものとして思慮の範囲外にあったことは記憶に新しい。
一方、死体など自然に関わる専門家は一歩先が読めないことは分かりきったことなのである。何が起こるか分からない世界で、一つ一つの現実を観察し読み解いていく。それしかできないのだ。
養老氏は脳化社会という言葉をよく使われる。簡単に言うと、全てが情報化され管理される社会ということだ。特に都会というのが典型だろう。
遊園地のブランコや柵のない池で、あるいは学校で事故を起こして子どもが死んだりすると、何故、こんなことが起きたのか、誰の責任なのかと、管理責任を親やマスコミは追求する。
つまり、都会化された社会においては全てのシステムは人間の管理化にあり、事故など生じてはならず、何か生じたなら、それは必ず誰か管理者の責任になるのだ。予想外の事態が生じてはならないのである。
それに対比されるのが、農村である(嘗てのだが)。
山の中に迷い込めば、帰れないこともありえるし、何かの獣に襲われるかもしれないし、食べてはいけない植物を口にして死ぬこともありえる。何しろ自然の世界に取り囲まれているのだから、何が起きても不思議はないわけで、誰彼の責任問題に発展するより、自然の驚異や恐ろしさの前に畏怖するしかないこともあるわけだ。
そして、現代というのは、実は決して自然を全て人間が取り込み理解し管理し情報化しているわけでもないのに、まるで既に自然を、世界を、身体を、分かりきったものとして受け止めてしまっている、そんな過度の言葉化、人工化、脳化された社会になっているのだと養老氏は言うわけだ。
身体に限っても、脳は実は全てをコントロールしているわけではない。
しかし、足の痛みも体の不調も脳において感じるし、脳が指令を出して対処を施そうとする現実に我々は慣れてしまったので、身体さえも管理下に既に納まったかのような誤解を抱いてしまっているのだ。
病気は治るものだ、というのが我々の思い込みになっている。死などは路上に、社会にあってはならないものなのだ。
が、決して身体は言葉でもなければ、人工物でもなければ、情報に還元される、つまりデジタル的数値と等価な存在でもないのだ。無数のウイルスや細菌が共生し、脳では決して管理されきれない膨大な身体の機能の複合体なのである。
つまり、身体は我々にとって一番、身近な自然なのである。
しかし、脳化社会においては、あるいはますます脳化社会へ傾斜する現代においては、自分の身体さえも自然物であるという驚異に疎くなりつつある。
自然でさえも、われわれ(特に日本人)は、何か花鳥風月のような穏やかで繊細で風流な、まるで盆栽か箱庭のような感覚で受け止めてしまいがちなのだ。
どこまでも脳化せんとする現代。しかし、自然は(決して理解不能とは言わないが)科学の粋を尽くしても、まだまだ当分は人間の理解にも管理にも及ばない遥かなものなのだ。
その間の乖離こそに、実は現代の悲劇がある、このように養老氏は訴えていると小生は理解している。
(02/10/25)
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