円地文子著『朱を奪うもの』
12月の季語をつらつら眺めていて、今日の表題を最初は「近松忌」にしようかと思った。つい、そこに目が行ったのだし。
何故、何十個も季語の例のある中で、「近松忌」に目が止まったのか。どうやら、一昨日、読了した円地文子著の『朱を奪うもの』の印象が残っているかららしい。
この小説、冒頭がとにかく鮮烈。何がどうなのか、詳細は書かないが、老いた女性ならではの記述なのかなと、一気に彼女の作品世界に引き込まれていった(歯を全部、抜き、片方の乳房を失い、子宮をも無くし…。驚いたのは、女の性質の欠如を自覚した際に、主人公の滋子を力づけたのは、司馬遷の「史記」であり、宮刑を受けた過酷な運命、その上での酷薄なまでの非常な人間の歴史の叙述だった、というくだり)。
[宮刑や宦官などについては、ネットでも情報を豊富に入手できる。「司馬遷は生き恥さらした男である。」という書き出しに始まる、武田泰淳の『司馬遷―史記の世界』を読んでもらうのがいいのだけど、「第30回 新から後漢」などを参照。]
小説の主人公は(この作品、作者である円地文子は自伝ではないと断っているが、自伝風な連作の一つのように感じつつ読んでしまう)、育てた方(祖母たね)の影響もあって、子どもの頃から、随分と異様な文学世界に浸ってしまう。サラリーマンになっても漫画の本の手放せなかった、漫画から活字の多い本へ移行する、乃至読書範囲を広げるのにかなり難儀した小生などと引き比べるのは、いかがなものか、だろうけれど、それにしても、祖母に話を聞かされたとはいえ、馬琴の「八犬伝」や「弓張月」の世界に親しんで育つとは、異様に過ぎる。
今よりはるかに封建的だったはずの江戸の世において、発端が「犬と人間の女が結婚する不健康なテーマから出発している」作品が書かれ、読まれ、親しまれてきたというのは、何故なのだろう。むしろ、窮屈な世だからこそ、書かれ読まれ馴染まれたということか。
円地文子のこの小説の記述を引用させてもらうと、「馬琴に限らず、江戸時代の廃頽期に生れた読物や草双紙、戯曲の類は文学に与えられている本来の批判性が全く抑圧され、思想的に窒息状態に陥っている時期のものだけに単純な主題を動かしてゆく筋の経緯――つまり趣向が複雑になり、怪異やエロチックな要素がアブノーマルに発展して、官能を刺激する傾向が強くなっている。」
あるいは、「忠義とか孝行とか貞操とかの美徳を離れることなく肉体に宿している勇ましい男や女があらゆる○詐と迫害と陵辱に耐えて精神の光を増してゆく話や、美貌の悪人が思い切って非情に残忍な悪事を犯す有様や、ともあれ南北や黙阿弥の歌舞伎、馬琴や種彦の読本草双紙の世界では、人間は千変万化する虚構の縦糸横糸となって金銀五彩のけばけばしい織物をくりひろげるが、そこには土の匂いや芽の勢い、太陽の溢れる自然は片はしも見られず、すべてが人工的な照明に彩られた――言わば劇場的な世界なのであった。」(○は漢字が見当たらなかった)。
主人公の滋子は、祖母たねの話し上手にすられ、そんな世界に浸る。「その中でも、滋子を異様に眩惑したのは美女の虐待される所謂責め場や殺しの場面であった。」のである。
祖母たねは、どうしてそんな話を孫娘に聞かせたのだろう。どうして滋子はその世界に魅せられたのだろうか。祖母自身は、「頽廃芸術の毒を身に受けなかった健康な女だったと苦笑する」というのに。
「祖母は性欲にてい淡であったので恐らく嗜虐性の官能についても無智であったのであろうが、彼女の呼吸した青春の雰囲気は孫娘の中に美しい茸のような毒を見事に移し植えたのである。」
その滋子は、一方では子供らしい遊戯にも興じたりする普通の子であるのだけど、「そういう子供らしい無邪気な世界の他に人間の智能が人生から虚構した第二の世界の魅力は早くも幼い滋子に一種の毒を放射しはじめていた。」というのである。
今は、ネットでも、あるいはビニール本でも、女性の裸や、さらに過激な写真も存分に見られる、その意味で情報が満ち溢れているのだが、一昔前だと、女性のヌードというと、写真は勿論、絵の形でも、子供にはなかなか入手することができず、余儀なく百科事典の医学(女性の病気)の分野や、風俗の項などを渉猟し、小さなモノクロの、大概は中途半端な(求めるものに比しての話だが)ヌードをやっとのことで<発見>し、乏しい情報(写真)であるが故に想像力などを掻き立てられて、徒労というのか、不毛というのか、どこまでも徒なる世界に夢馳せたものだ。
そうした思いというのは、男ならではのものというのは、とんでもない勘違いということなのか。伊藤晴雨の世界を何かの雑誌で見つけて、ああ、こんなことしちゃっていいの、されちゃって喜ぶ女性もいるの、その実、好きな女の子に声一つかけられない自分がいる、その虚実の懸隔の巨大さに圧倒されてしまって、ああ、でも、この不毛さに生きるのが男の宿命、性(さが)なのかと、天を仰ぎつつ溜め息を吐(つ)いてみたりする、そんな夜々をどれほど送ったことか。
思えば、父の書架には、『伊藤晴雨自画自伝』のような世界は見当たらなかった。ガキの小生には見つからぬよう秘蔵されていたのか、マイナーな世界として目を背けていたのか。
早くから親しんでいたら、小生も、もっと立派な、人間性豊かな大人に育っただろうか(そんなわけ、ないか)。
が、密かにひめやかに、女の子も、誰もがということではないのだろうが(それとも誰もが、なのか)男には比べものにならない想像力で背徳というか頽廃というのか、表に見える世の取り澄ました世界とは懸け離れた世界へ分け入って倦むことなどないという…。
ああ、このままでは余談だけで終わってしまう。円地文子から責め絵の世界や封建の世だからこそ、豊穣なる淫靡の世界が胚胎され育まれた…、そこから「近松忌」を表題に選ぼうかと、一時は思ったのだけど、小生には手に余る奥深い世界なので、触れるのは断念し、「毛糸編む」という季語を選ぶことに決めたのである。
[本稿は、「無精庵徒然草」に日記として書いた「毛糸編む」から抜粋したものです。 (04/12/22) ]
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