ウォルフ著『地中生命の驚異』
デヴィッド・W・ウォルフ著『地中生命の驚異』(長野敬+赤松眞紀訳、青土社刊)を読了した。
本書の帯には、大きな文字で、「ダーウィンはなぜ、ミミズに熱中したのか?」とある。
ミミズの研究の本なのか?!
しかし、同じく帯の下にはこれより小さな文字で、「ひとつかみの土の中には、10億の生き物がいる!」とある。が、さらにまた小さな文字で書いてある説明が本書の中身を示している。
「穴掘りのプレーリードッグ、植物を育てる菌類のネットワーク、地下数千メートルに息づく不思議な微生物集団……知られざる地中生物たちの奇妙きてれつな世界を初めて紹介し、生命の起源から生態系の未来まで、地球の見方を地底から覆す。」
土
ちなみに、二本の指先でつまみ上げた土に見出される「10億に近い生物個体、ことによると一万種ほどの微生物を手にしていることになる」、それらの「大部分には名前がなければ、分類も理解もされていない」のだとか。
都会育ちの方だと、よほど、意識的に田舎のほうで暮らす機会を持たないと(親によって与えられないと)土の感触を裸足で感じるなどということはないだろう。小生自身は、生まれ育った頃は、家の周囲の道は砂利道だし、家の庭も今のように車の駐車のためにコンクリートの道を入り口から玄関まで敷かれてはいなかった。また、家の居間からは田圃の原が見渡せた。
大概はズックなどを履いているので、裸足になるのは、田圃に入るときが主だが、それでも遊びの最中に自然に脱げたのか、それともわざと脱いだのか、裸足になることもあって、そんな時に味わった大地のひんやりした感触は、何故か今も忘れないでいる。
土というのは、不思議なものだ。あまりに当たり前にそこにある。今でこそ、アスファルトやコンクリートに覆われてしまって、大地と人間(や多くの動物)は切断されてしまった。お陰で雨が降って、道路がぬかるむこともないし、排水溝が整っていれば水溜りができることもないし、逆に晴れた日、風が吹いて土埃が立つこともない。生活に不都合でで邪魔な土の原は壁の向こう側(下側)に閉じ込められてしまったのである。
たまにハイキングなどに行くと、靴を通してだが、土の上を歩くあの得も言えない豊かな感触を味わうのみになっている。
事典などを引くと、「土」については長い説明が施されている。
一部だけを拾い読み風に引用すると、「土は地面の表部を覆う自然物で、かってその土地にあった岩石や砂礫の層が風化してできたものである。」とか、「人類は有史以前はるか昔から、土を用い、土とかかわって生活してきた。まず第一に、それは道具や装飾品を生み出すための素材だった。」とか、「中国の陰陽五行説のなかにみられるように、土を宇宙の構成要素の一つとする考え方も少なくない。(略)…メソポタミア人の伝承によれば、原初の人間は肉と骨と土からつくられた。『旧約聖書』のなかでもアダムは粘土からつくられたことになっている。」とか、「人間と土の関係を考えるうえで、農耕のもつ意味は非常に大きい。」などと、土の一項目を読むだけでも想像の翼はか
なり遠くへ羽ばたきそうである(『NIPPONICA 2001』より引用)。
われわれは、大概がコンクリートの壁越しの土の上で暮らしている。土(大地)のほんの表面の上で生活しているのである。その極表面の土壌について、では、相当程度に研究されていたかというと、「ごく近年まで、土壌微生物の九九パーセントについて我々は無知も同然であり、死骸が顕微鏡下に観察できるのを除けば、捕らえた状態で飼育することなどできなかった」という状態にあったのだという。
それが新しい手段が見出され、たとえば犯罪捜査でほんのわずかな遺留品(遺伝物質の切れ端)から容疑者を割り出すように、ひと掬いの土や地中深くの岩石標本から特有の生物の証拠を検出したり、微生物の多様性の幅を残らず突き止めることができるようになっているのだとか。(p.12)
粘土
土の上を裸足で歩く感触は、土の成分や粒がきめ細かくなると、もっと豊かな感覚、不可思議感とでも言うしかないような感覚を味わうことが出来る。その究極が粘土だろうか。
「肉眼で見ると粘土は「土」を構成する他の成分とほとんど区別できず、特別な存在には見えない。しかし、電子顕微鏡で見ると、結晶構造と絶妙な美しさが明らかとなる。」(p.42)
「粘土の表面積は、重量に比べて信じがたいほど大きい。一つまみ、一グラムの粉末粘土の表面積は、何と野球の内野と同じ広さがある。」(p.44)
「外側にさらされている粘土表面の原子は静電気を帯びているので、反対の電荷を持つ原子や分子が引きつけられる。」
「帯電した粘土の表面に引き寄せられて結合する分子にはアミノ酸やヌクレオチドなど、有機物質もたくさん含まれている。粘土が単純なたんぱく質とか遺伝子の配列を決める鋳型の役目を果たすという説は、こうした事実にもとづいている。」(p.44)
「粘土が生命の起源いおいてこのような触媒の役割を果たしただろうという推測は、約半世紀前の一九五〇年代初期にイギリスの物理化学者ジョン・デズモンド・バナールが提唱した。」(p.45)
このことは、後に、「粘土が最初の簡単なRNA遺伝子の触媒になった可能性を支持する」実験で確かめられている。(p.45)
しかもさらに、「グラスゴー大学の著名な化学者グレーアム・ケアンズ=スミスは、粘土が生命の起源においてさらに重要な役割を果たしたと強く主張している。」のである。(P.46)
「最初の生命は極めて「ローテク」で、今日の細胞と異なる材料で作られていたのだろう。進化は、極めて単純で容易な道に沿って始まったのだろう。粘土は自然に自己集合し(地質学的また水理学的な力を借りて)、自己複製を行い、初期の地球に大量に存在していたと思われるので、遺伝子の前駆物質になりやすかっただろうと彼は論じている。」(P.48)
今日では、「生命の起源に関しては詳細が依然としてはっきりせず、理論には議論の余地が多く残されている。しかし、生命が始まった場所に関する限りでは、正解に近づいてきたのではあるまいか。」と考えられている。(P.51)
「科学者は新しい技術によって、我々の遺伝的ルーツをごく初期の祖先までたどれるようになった。」結果、「何と何が親戚関係にあるかということばかりでなく、進化の系統樹で最も古い根のところにある生物は何かということも、知ることができる。」「その結果から、今日の地球で最も住みにくそうな地下の環境でいいている多種多様の珍しい微生物が、最も原始的な祖先生物を代表して今日まで生きているものであることが明らかになった。」それこそが、「極限環境生物」なのである。(P.51)
極限環境生物
その極限環境についても、小生などの想像を絶する範囲が今日、考えられている。
「今では宇宙のかなりの部分が居住可能で、生命の進化、少なくとも地球初期の生命に似た微生物の進化に必要なすべての材料が備わっていることがわかってきた。」(P.75)
その典型的な場所が我が地球の地下なのである。「今では地球で生物が生きられる空間と生命の形態は、想像もしていなかったほど桁違いに大きいことがわかってきたのだ。」「我々が慣れ親しんできた太陽によって温められた地表は、生命がそれぞれ独自のお祭を開いている舞台のうちで、一つのものにすぎないという事実を受け入れなければならない。」「宇宙全体のなかでの生命を考えるとき、太陽エネルギーを利用する地球の表面は中心的な舞台ではなく、取るに足りない一部分にすぎないかもしれないのだ。」(P.75)
今日では、「日ごとに証拠が蓄積して、地球の全生命は(真性)細菌、古細菌、真核生物という三つの主要な上界(今日のドメイン[領界])に分類できることが、まもなくはっきりしてきた(真核生物のドメインにはこれまでの植物、動物、菌類、原生動物の四界が含まれる。」(P.92)
上掲の引用にもあるように、「身の回りに見られる生命の多様性、つまり多細胞の植物と動物が、新しい普遍的な系統樹では真核生物という一つの枝の二本の小枝に過ぎない」という印象的な知見も示されている。なかでも、高熱を好む好熱古細菌が最も古い進化史をもつとう事実、つまり普遍的な系統樹の根元に位置するということは、生命が地下の深部あるいは海洋の火山性の噴出口周辺の堆積物中のような高温環境で始まったという仮説を裏付ける強力な証拠となる。」(P.95)
ダーウィンのミミズの研究
晩年のダーウィンはミミズの研究に没頭していた。しかし、それは高名な学者の気まぐれな研究というものではなかった。実は、ミミズの研究はダーウィンの若き日からの一貫したものだったのである。「もともとの彼の行き方は地質学者としてのもの、あるいはむしろ彼の研究は、まだ学問として認められていなかった生態学者としてのものだったというのが適切かもしれない。」(P.160)彼は、「ミミズが土壌形成において、まだ認識されていない重要な役割を果たしているのではないかと思ったのだ。」(P.160)
「一日で体重の一〇~三〇パーセントを消費するミミズは、ある意味で海に住む濾過摂食動物の陸上版であることが今では広く認められている。年間を通じて落葉のほぼ一〇〇パーセントが、ミミズに消費されている生態系おあるかもしれない。要するにミミズは生きた攪拌機として作用し、植物の残骸を粉砕してそれを土壌やそこの微生物群(生死を問わない)と混ぜ合わせるのだ。」(P.161)
以下は本書に引用されているダーウィンの言葉である:
「こうして私は、土地全体を覆っている腐植土はミミズの腸管を何回も通り、これからも何回も通るだろうという結論に達した……世界の歴史において、この下等生物ほど重要な役割を果たした動物が他にどれだけいるのかと疑ってみてよいだろう。」(P.160)
彼の進化説が政治的な問題を引き起こした現実を思うと、こうした彼の地道な、そして地味すぎる研究が周囲に理解されるはずもなかった。
「彼の科学的業績は信じがたいほど広い範囲に及ぶが、そこには少なくとも一つの中心的なテーマがある。小さ
な変化でも、想像を絶する時間をかけて作用すれば重大な結果をもたらすことがあるというのがそれだ。」「下等な虫であるミミズが他の土壌生物とともに、私たちが踏みつけ耕し高層ビルを建てる地球をかたち作るやり方も、まさにこのようなものである。卑小なものが、こうして偉大なものを説明できるのだ。」(P.166)
ミミズのことについては、本書の「訳者あとがき」で紹介されており、小生も読んで興味深かったリチャード・コニフ著『無脊椎動物の驚異』(長野敬訳、青土社刊)が参考になるだろう。
ミミズの住めない土地は貧困な土地、あるいは人の手により汚染された土地、破壊された土地だと思っていいだろう。同じことが、プレーリードッグについても言える。「プレーリードッグや他の動物が絶滅に近い状態に陥り、環境にも多大な影響が及んだ。」のである。(P.224)
アメリカの大平原では、かのイラクとの戦争の際に知られたイラク(バクダッド)の砂嵐を圧倒するダストボウル(黒い雲。破壊され荒れ死んだ土が埃となって舞い狂うもの)となり、農耕どころか生活の存続自体が脅威にさらされた。
「我々人類の活動の多くのものが、侵食を起こす以外にも土壌の生物資源や将来の食糧確保に対して、それと気づかれないまま地球規模の影響を及ぼしている。我々はかつてないほど大量の有害廃棄物を地中にたれ流している。大気汚染から生ずる酸性雨や気象の変化は土中の生命に直接影響を与え、地球の全生命にとって重要な栄養循環その他の過程に影響を及ぼす。」のである。(P.225)
文中でも引用したが、「今では宇宙のかなりの部分が居住可能で、生命の進化、少なくとも地球初期の生命に似た微生物の進化に必要なすべての材料が備わっていることがわかってきた。」というのは、改めて深く静かに思いを致したい洞察だと思う。
生命が宇宙のかなりの部分で居住可能なのだとしたら、形態はどうであれ、生命が宇宙に普遍的に存在する…、宇宙は生命に満ち溢れている…、宇宙は生命とは切り離せないのではないかとまで思われたりもする。もっと言うと、生命は宇宙の中のある存在形式なのではなく、むしろ逆に生命のある存在形式が宇宙に過ぎないのではない
かと思われたりもするのである。ここまで来ると、妄想が過ぎると思われそうなので、これで本稿は終わりとしたい。
引用ばかりの感想文となったが、本書は全文をそのままに紹介したくなるような面白い本だったので、仕方ないと思っている。
(03/12/17)
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 2024年8月の読書メーター(2024.09.04)
- 2024年7月の読書メーター(2024.08.05)
- 2024年5月の読書メーター(2024.06.03)
- 2024年3月の読書メーター(2024.04.02)
- 2023年10月の読書メーター(2023.11.01)
コメント