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2004/12/02

『ヤクザの文化人類学』(続)

「ヤコブ・ラズ著『ヤクザの文化人類学』雑感(続)」


 前編を書いてから再度、ヤコブ・ラズ著の『ヤクザの文化人類学』を読み進めていたら、まさに、前編でも評価しておいたD.E.カプランとA.デュプロの共著による『ヤクザ』に言及されていた。
 その日本語訳を出版するに際しての、苦労話というのか内輪話も書いてあるので、関連する部分を引用しておきたい。実は、共著者の一人、カプランは一九八八年七月に日本を訪れた。未だ、翻訳先が決まる前である。

 その訪問の前にカプランの日本の代理人が、すでに六ヶ国語に翻訳されていたこのベストセラーの翻訳権について十八社にのぼる日本の出版社にあたったにもかかわらず、一社として関心を示さなかったという。代理人は「出版社の大半はこの本が日本社会のタブーにふれるので、何らかの妨害や圧力にあうだろうと感じている」と述べたという。カプランは日本のメディアがヤクザの活動を報道しようとしないで口を閉ざしていることを直接的な言葉で批判した。彼は出版社が勇気を奮い起こすにはロッキード事件のような大きな起訴事件が起こらなければならないのだと言い、「国際化を進めますます暴力化していくこの暗黒の世界を、喜ばせおだてるような記述はできても、批判的な記述はできない。ヤクザをロマン化するような映画や漫画や本はいいが、批判的な報道はできない。これが日本の出版社の送っているメッセージなのか?」と述べている。(p.292-3)
                               (引用終わり)

 出版に興味を示さなかった十八社の会社名を知りたいものだ。きっと誰もが知る大手の出版社なのだろう。
 それに引き替え、『ヤクザの文化人類学』は、『ヤクザ』とほぼ同時期(数年遅れ)で書かれた本書は、テキヤなどヤクザの古きよき文化をも含め、別に肯定的というのではないが、カタギの世界とヤクザの世界の曖昧な境界線に沿
うようにしてヤクザの世界の一端を描いている。
 「訳者あとがき――文庫版によせて」の中で、小生と同じく富山出身だという訳者の高井宏子氏が、「個人的な話のついでに言えば、富山県出身の訳者にとって、裸電球のぶら下がった多くの露天が軒を連ね、静かな田舎町が一変したお祭りの風景は、最も郷愁を誘われる子供時代の思い出である。原風景の一つとも言える祭りの風景がラズ氏の考察を読んで新たな意味合いを帯びるように思えたことを覚えている。」(p.376)
 などと記されているのは、微笑ましいし、そうした感想を述べる雰囲気のある書なのである。
 
 さて、こうした感想はともかく、両書が書かれ出版されてから(『ヤクザ』は91年刊、『人類学』は96年刊である)、ヤクザ事情は大きく変わっている。
 というより、日本の社会が激変したのだというべきかもしれない。高度成長経済が終息し東西の冷戦構造も終焉した。バブルは華やかなりし頃、多くの経済事件が頻発し、日本社会を揺るがしたことは、前編にも記した。
 ヤクザについても、代紋を表に掲げて堂々と(?)営業するような状況は消え去った。地域社会、共同体的社会が崩壊し、人々の世界は流動的になった。
 地域に根ざした、住民に愛される(?)ヤクザではありえなくなったのである。地域住人の構造が激変し始めてしまったのである。
 また、戦後の一時期、日本の共産主義化を防ぐという名目で、警察(当局)は、スト破りなどの目的もあり、右翼や暴力団を利用した。つまりは蜜月関係にあったわけである。が、冷戦構造の崩壊した今は、暴力団の利用価値は低下し、少なくとも表向きは暴力団に厳しく当たる余地が警察当局側に生じたわけである。
 そのエポックが、暴力団対策法が施行され、容赦なく適用されることになったことに象徴される。ヤクザは、地下に潜るか企業社会に姿を変えて浸透していくようになった。
 従来より、一層、カタギの人々からは姿が見えなくなったのである。
 暴力団(この名称は警察が付けたものである)の構成員も不明確化し、警察にマークされていた人物は表向き組を追い出された。建前であろうと、素人集やカタギには手は出さないという自制も、土台から意味をなさなくなってしま
った。
 従来の「しのぎ」(経済的基盤や対象、例えばパチンコなどの利権)が(警察に移り)奪われてしまった以上、カタギだろうが何だろうがカネの匂いのする所は遠慮なく手を突っ込むようになったのである。
 ところで、警察とヤクザとが利害の上で共通することが一つある(一つかどうかは分からない)。
 それは治安である。ヤクザが商売をする上で治安(ヤクザの場合の治安とは、多くは組の関係者以外の者がシマ(縄張り)を荒らすこと)が悪いことは何かと困る。警察も治安が悪化すれば、まずは警察のせいにされる。だから両者は治安の維持には神経を払うのである。
 暴力団の言い分を真に受けると、”カタギの社会が俺たちを必要としているから、俺たちは存在する”となる。麻薬などの薬物、売春、ポルノ、ギャンブル、民事の紛争…。
 こうみてくると暴力団などのなくなる日が来るとは、到底、思えなくなる。
 つい先日も、東京ドーム側が暴力団に長年、便宜を図ってきたことが露見した。バブルの際の地上げには銀行が暴力団を利用していたことが暴露された。大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶ事件を見ると、国家の中枢にも暴力団が食い入っていることが知れる。
 竹下元総理が総理総裁になる時は、ほめ殺し事件が起きたりして、一国の総理も暴力団に頭を下げないとなれない日本の事情が世界中に知れ渡った。不良債権問題も、利権が絡む連中と当局の関係が深すぎて、問題を解決を図れないのだろうことは、容易に察せられる。暗黒の時代は、より深い闇へと突入していく。
 きっと、形を変え、より巧妙な形でヤクザは生き残っていくのだろう。

(02/09/29)

[昨日(12月1日)の営業で、タクシーのお客様を目的地に向け、走っていたら、某所でヤクザに行く手を阻まれてしまい、お客さんの了解を得てだが、仕方なく若干の迂回をする羽目に。本稿のアップは、その記念(?)かも。]

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