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2004/12/30

内田百閒『百鬼園随筆』

 本書は昭和8年10月に三笠書房より刊行され、平成6年5月に福武文庫としても収録されたものらしい。小生が読んだのは、平成14年5月に新潮文庫に収録されたものである。昨年末、近くの駅ビル内の書店で見つけたものだ。
 誰だったか忘れたが、百閒の随筆を褒めていたことも、頭の片隅にあったに違いない。車中で暇の徒然に読むに最適だろう。それに、見様見真似で小生も雑文を書くので、少しは参考になればという欲目もあったような気がする。
 内田百閒については、知る人ぞ知るという存在になってしまったかもしれない。参考に年譜を見てもらえたらと思う。
 1889年5月29日、岡山市に、老舗の造り酒屋の一人息子として生まれる。本名は栄造。(途中、略)1971年4月、82歳で死去。
 うーん、小生が高校最後の年度には御存命だったのだ。
 上掲のサイト運営者による内田百閒の読書感想がいろいろ読める。

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岡本綺堂『江戸の思い出』

 先月、車中で読むに相応しい本を物色していたら岡本綺堂の『江戸の思い出』(河出文庫刊)が目に付いた。
 表紙に「日本名所図 駿河町雪」(小林清親)が使われている。文庫本を手にして、まず、その表紙の絵が気に入ったような気がする。
 岡本綺堂というと、何といっても、「半七捕物帳」である。この捕物帳という言葉も綺堂の創案なら探偵物も綺堂の創案になることは、今となっては知る人ぞ知るの部類だろうか。
 上記の岡本綺堂自身の話でも分かるように、大岡政談など裁判物はあったのだが、探偵物はないということで彼は書き始めたのだが、その際、自身、「江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っている」強みを生かして、純日本的な探偵物ということで捕物帳を書いたわけである。

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2004/12/25

モーム著『月と六ペンス』

 サマセット・モーム著の『月と六ペンス』(阿部知二訳、岩波文庫刊)を読んだのは初めてのことである。モームは小生の好きな作家の一人で、『人間の絆』は敢えて原書を入手して読んだほどである。
 最近、モームの『雨・赤毛』を読み直したが、改めて関心を惹かれたので、この際、まだ手を出していない『月と六ペンス』を思い切って読むことにしたのである。
 小生が、どうしてこの作品に手を出せなかったかというと、巷間、言われていることだが、ゴーギャンの生涯に暗示を受けてこの作品を書いたというイメージが、いつの間にかゴーギャンの伝記的な小説だという思い込み乃至偏見に成り代わっていたことがある。
 実を言うと、小生はゴッホはともかくゴーギャンの絵があまり好きではなかったのである。
 あるいは、ぶっちゃけた言い方をすると、南海の島へ行ってその土地の女性も含めた開放的な風土に接したなら、誰でもあんな絵が描けるんじゃなかろうか、とさえ思っていた節があるのだ。

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2004/12/24

河盛好蔵著『藤村のパリ』

 島崎藤村は1872年から1943年の人。本書の著者である河盛好蔵氏は1902年に生まれ2000年に97歳で亡くなられている。生まれは三十年違うとはいえ、40年以上も生きている時代が重なっている部分がある。
 小生が藤村に傾倒し始めたのは、この数年のことと言える学生時代からポツポツ、読んではきたのだが)。その小生にとって島崎藤村というのは、完全に古典の域の方なのだ。
 その方がつい2年前の2000年まで生存しておられたというのは、小生の感覚が狭苦しいというだけのことかもしれないが、ちょっと驚異に感じられたりする。

 河盛氏は、旧制中学時代に藤村の文学に触れたという。そして一気にのめり込み、フランス文学を志すようになったのも藤村の影響だと自ら語っている。
 1913年に渡仏した藤村を追って、昭和3年(1928年)に河盛氏が渡仏する際には、河盛氏は、藤村の傑作だと評される『エトランゼエ』を携えて行ったという。

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2004/12/22

ジョナサン・ワイナー 著『フィンチの嘴』

「『フィンチの嘴』雑感」

 ジョナサン・ワイナー 著『フィンチの嘴』(樋口広芳・黒沢令子 訳、ハヤカワ文庫NF)を読了した。
 ちょいと古い本(単行本は95年に刊行)だが、どうしても読みたかったので、今度文庫本に入ったのを契機に読んだのである。

 副題に「ガラパゴスで起きている種の変貌」とある。ダーウィンがビジョンと理念しか示せなかった、また、人間が現実に垣間見ることは叶わないだろうと思っていた進化の実態を観察・研究した成果が、二十年に渡る経過をも含め、生き生きと描かれている。

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円地文子著『朱を奪うもの』

 12月の季語をつらつら眺めていて、今日の表題を最初は「近松忌」にしようかと思った。つい、そこに目が行ったのだし。
 何故、何十個も季語の例のある中で、「近松忌」に目が止まったのか。どうやら、一昨日、読了した円地文子著の『朱を奪うもの』の印象が残っているかららしい。
 この小説、冒頭がとにかく鮮烈。何がどうなのか、詳細は書かないが、老いた女性ならではの記述なのかなと、一気に彼女の作品世界に引き込まれていった(歯を全部、抜き、片方の乳房を失い、子宮をも無くし…。驚いたのは、女の性質の欠如を自覚した際に、主人公の滋子を力づけたのは、司馬遷の「史記」であり、宮刑を受けた過酷な運命、その上での酷薄なまでの非常な人間の歴史の叙述だった、というくだり)。
[宮刑や宦官などについては、ネットでも情報を豊富に入手できる。「司馬遷は生き恥さらした男である。」という書き出しに始まる、武田泰淳の『司馬遷―史記の世界』を読んでもらうのがいいのだけど、「第30回 新から後漢」などを参照。]
 小説の主人公は(この作品、作者である円地文子は自伝ではないと断っているが、自伝風な連作の一つのように感じつつ読んでしまう)、育てた方(祖母たね)の影響もあって、子どもの頃から、随分と異様な文学世界に浸ってしまう。サラリーマンになっても漫画の本の手放せなかった、漫画から活字の多い本へ移行する、乃至読書範囲を広げるのにかなり難儀した小生などと引き比べるのは、いかがなものか、だろうけれど、それにしても、祖母に話を聞かされたとはいえ、馬琴の「八犬伝」や「弓張月」の世界に親しんで育つとは、異様に過ぎる。

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2004/12/15

「立花隆著『21世紀 知の挑戦』(続)

 本書の最後に「21世紀 若者たちへのメッセージ」と題された章がある。
 本書のために書いた文章ではない。ただ、「科学技術創造立国」を目指す日本として、立花氏が将来を背負って立つだろう若者たちへ贈るメッセージとして、科学技術への基礎的な理解をもっとしっかり持つべきだと語っており、本書の締め括りの章として相応しい内容だとして、収録されたのである。
 そのメッセージを贈るとして為された講演は、一つは「新人若手官僚に語る  科学技術創造立国なんてとんでもない」というもの。
 無資源国日本としては、科学技術で付加価値を高めていくことで生き残っていくべきなのに、現実には、ゆとり教育などにより、日本の国民全体の科学技術に対する理解の水準が低くなっている。その結果、日本の科学技術の研究水準そのものが低いままであると立花氏は熱く語っている。
 アメリカの大学では、トップレベルの大学では、理系・文系に関わらず全学生に分子生物学、細胞生物学を必修として義務付けている、などの例を挙げ、現状の格差が広まる一方であるという。
 今や、遺伝子研究を初めとするバイオ研究は国の浮沈を左右する分野となっており、そのことへの理解は必要不可欠のものとなっている。科学技術に関わる交渉を海外の国々と行うに際しても、常識レベルの底上げがない限り、交渉そのものが成り立ち得ない…。
 この講演は、若手官僚を一堂に会してのものであり、期日は短い。なのに、その貴重な会期をラジオ体操やジョギングに費やしているとは何事かと語る。危機感が感じられないということなのだろう。

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宮部みゆき著『理由』

 今度、宮部みゆき著の『理由』が文庫本化された(朝日文庫刊)こともあり、名うてのストーリテラーの評判を持つ氏の著を一冊くらいは読んでおこうと思い立った。
 なるほど、語り口が上手い。必ずしもよい小説読みとは思えない小生をも、グングン小説世界に引き込んでくれた。仕事が忙しく、本を読む時間もままならず、断続的にしか読めないはずの小生が、一気に読了できたのは、偏に作者の筆力の賜物である。
 刊行されて数年が経っており、改めて内容を紹介する必要はないだろう。
 が、老婆心ということで、簡単に紹介しておこう。それに本書はサスペンス的小説で、推理小説ではないので、誰が犯人かというネタをばらしても、本書を読む障害にはまるでならない。
 そう、誰が陰惨な殺人事件の犯人なのかは途中で早々と分かってしまうのである。だから謎解きの楽しみもない。そんなことを求めるのは筋違いである。作者の意図は、もっと別のところにあるのだ。

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立花隆著『21世紀 知の挑戦』

 本書の文章は一九九九年二月号から二〇〇〇年六月号までの月刊誌『文芸春秋』に掲載されたものであり、二〇〇〇年七月には文芸春秋社より刊行されている。
 もともとは、TBSで九九年と〇〇年に放送された「ヒトの旅、ヒトへの旅」という番組のための取材で得られたが、テレビでは使い切れなかった膨大な材料を本に纏めたものなのである(小生は、今夏に出た文春文庫版にて読んでいる)。
 従って、科学的なデータなどとしては、全く新しいというわけではないが、古びているともいえない。
 参考のため、本書の目次を紹介しておく:

  はじめに
Ⅰ.20世紀 知の爆発
  サイエンスが人類を変えた
  バイオ研究最前線をゆく
  残された世紀の謎
Ⅱ.21世紀 知の挑戦
  DNA革命はここまで来た
  ガンを制圧せよ
  天才マウスからスーパー人間へ
  21世紀若者たちへのメッセージ

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2004/12/13

養老孟司著『毒にも薬にもなる話』余談

「今の時代に自分の言葉を持つということ」という表題の雑文(作成年月日不明。但し、メルマガの2001/04/07配信号にて公表)の中で、『毒にも薬にもなる話』(養老孟司著)に若干、触れている。なので、先の書評エッセイに続ける形で載せておく。(04/12/13 記)]

[漢文という古典]
 過日、車の中で休憩しながら読んでいた本(『身体の文学史』養老孟司著、新潮文庫)の中に気になる記述を見つけた。
 それは「芥川とその時代」と題された一文の中にあるもので、養老氏が引用しておられる源了圓氏の『型』(創文社)の中の一文である。その源氏の文の一部を示すと以下のようである:

「唐木(順三)氏はこの中([型の喪失])で、大正四・五年に日本の近代精神史における断層が生じたというきわめて注目すべき見解を示しておられるが、その徴候として氏が掲げておられるのは、漢文を古典としない世代の登場ということである。すなわち安部次郎・小宮豊隆・安部能成・和辻哲郎・武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦・長与善郎らのいわゆる[大正教養派]や[白樺派]の成立がそれである。」

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養老孟司著『毒にも薬にもなる話』

「養老孟司著『毒にも薬にもなる話』雑感」

 本書は月刊誌の「中央公論」(93年から97年まで不定期に掲載)や季刊誌の「アステイオン」(91年夏から93年夏)に掲載された社会時評的な文章を纏めたもので、97年10月に中央公論社から刊行されている。
 小生が読んだのは、中公文庫版(2000年刊)である。
 小生は、『唯脳論』以来の養老氏のファンである。昨年も、『身体の文学史』(新潮文庫刊)を読み、文学を「身体」という切り口から読み解く養老氏の独特の文学論に感激したものだった。
 この『身体の文学史』は推奨に値する。
 以前にも既に『身体の文学史』には触れいているので、参照願いたい:
 nifty:FBUNGAKU/MES/314/15813
[残念ながら、上記のサイトでの記述は行方不明となってしまった(04/12/13 記)]

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2004/12/05

堤隆 著『黒曜石 3万年の旅』

「堤隆 著『黒曜石 3万年の旅』(NHKブックス No.1015)」

 小生は何故か黒曜石に魅せられてきた。といいつつ、だからといって黒曜石の原産地を訪ねるとか、せめて黒曜石を使って造形されたアクセサリーの類いを購入したわけではない。
 記憶をたどると、小学生の終わり頃だったか、妙に石に興味を抱くようになり、木の化石とか黄鉄鉱の欠片とか、磁力のある石、模様や形の綺麗な石ころだとかを集めていた。
 あるいは中には、低くとも透明度のある青みがかった石ころなどもあった。もしかしたら、新潟は糸魚川が原産地として有名だが、富山は朝日町の河口に当たる海辺などでも採れる、ヒスイではないかと思っていた(思わせられていた)のかもしれない。
[ヒスイについては、「朝日町 - ヒスイ海岸」などを参照のこと]
 そうした石ころのささやかな蒐集の中に黒曜石もあった。尤も、最初はストーブにくべる石炭と区別が出来たかどうか怪しいものだが、次第に黒曜石の持つ特有の奥深い、柔らか味のある黒い耀きに見せられていった。
 悲しいことに、宇宙をテーマにした切手の収集などと共に、中学に入って間もない頃には、蒐集するというひめやかな、しかし、小宇宙ではあるとしても、その奥行きの計り知れない世界からは撤退していってしまった。
 何故なのだろう。自分に探究する心が足りなかったといえば、それまでだが、中学校でもあまりに出来が悪く、また、受験戦争の最中でもあり、中学三年は、二年の時までの成績で1組から10組まで振り分けられるという現実に心を傷付けられ、また、水俣病やイタイイタイ病など公害病や公害裁判がテレビなどマスコミを賑わしていたこと、さらには、安保の自動延長問題などにも関心を抱いたりして、どちらかというと社会問題への関心に傾斜していったこともあったのかもしれない。
 これが、単なる社会問題・政治問題に止まらず文学を飛ばして哲学への関心に向かってしまうのだが、これは、また、別の話である。
 とにかく、黒曜石の持つ言い知れない魅力は、一旦は、心の海の底に沈んだが、近年、また、何故か浮かんできたのだった。
「黒曜石を使い工芸品を加工・販売いたして」いる工房である「十勝工芸社」さんのサイト、「黒曜石の世界」にもリンクさせてもらったりしている。
 ここで原石の魅力を画像を通してだが確かめてみるのもいいし、宇宙やフクロウ、モモンガ、シルエットなどの造形を楽しむのもいい。いつかは北海道にある工房に訪れたいと思いつつ、望みは叶わないでいる。
 せめてもの慰みというわけでもないが、「翡翠の浜、そして黒曜石の山」という掌編を書いたこともある。

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ウォルフ著『地中生命の驚異』

 デヴィッド・W・ウォルフ著『地中生命の驚異』(長野敬+赤松眞紀訳、青土社刊)を読了した。
 本書の帯には、大きな文字で、「ダーウィンはなぜ、ミミズに熱中したのか?」とある。
 ミミズの研究の本なのか?! 
 しかし、同じく帯の下にはこれより小さな文字で、「ひとつかみの土の中には、10億の生き物がいる!」とある。が、さらにまた小さな文字で書いてある説明が本書の中身を示している。
「穴掘りのプレーリードッグ、植物を育てる菌類のネットワーク、地下数千メートルに息づく不思議な微生物集団……知られざる地中生物たちの奇妙きてれつな世界を初めて紹介し、生命の起源から生態系の未来まで、地球の見方を地底から覆す。」

 
 ちなみに、二本の指先でつまみ上げた土に見出される「10億に近い生物個体、ことによると一万種ほどの微生物を手にしていることになる」、それらの「大部分には名前がなければ、分類も理解もされていない」のだとか。
 都会育ちの方だと、よほど、意識的に田舎のほうで暮らす機会を持たないと(親によって与えられないと)土の感触を裸足で感じるなどということはないだろう。小生自身は、生まれ育った頃は、家の周囲の道は砂利道だし、家の庭も今のように車の駐車のためにコンクリートの道を入り口から玄関まで敷かれてはいなかった。また、家の居間からは田圃の原が見渡せた。
 大概はズックなどを履いているので、裸足になるのは、田圃に入るときが主だが、それでも遊びの最中に自然に脱げたのか、それともわざと脱いだのか、裸足になることもあって、そんな時に味わった大地のひんやりした感触は、何故か今も忘れないでいる。
 土というのは、不思議なものだ。あまりに当たり前にそこにある。今でこそ、アスファルトやコンクリートに覆われてしまって、大地と人間(や多くの動物)は切断されてしまった。お陰で雨が降って、道路がぬかるむこともないし、排水溝が整っていれば水溜りができることもないし、逆に晴れた日、風が吹いて土埃が立つこともない。生活に不都合でで邪魔な土の原は壁の向こう側(下側)に閉じ込められてしまったのである。
 たまにハイキングなどに行くと、靴を通してだが、土の上を歩くあの得も言えない豊かな感触を味わうのみになっている。

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2004/12/02

『ヤクザの文化人類学』(続)

「ヤコブ・ラズ著『ヤクザの文化人類学』雑感(続)」


 前編を書いてから再度、ヤコブ・ラズ著の『ヤクザの文化人類学』を読み進めていたら、まさに、前編でも評価しておいたD.E.カプランとA.デュプロの共著による『ヤクザ』に言及されていた。
 その日本語訳を出版するに際しての、苦労話というのか内輪話も書いてあるので、関連する部分を引用しておきたい。実は、共著者の一人、カプランは一九八八年七月に日本を訪れた。未だ、翻訳先が決まる前である。

 その訪問の前にカプランの日本の代理人が、すでに六ヶ国語に翻訳されていたこのベストセラーの翻訳権について十八社にのぼる日本の出版社にあたったにもかかわらず、一社として関心を示さなかったという。代理人は「出版社の大半はこの本が日本社会のタブーにふれるので、何らかの妨害や圧力にあうだろうと感じている」と述べたという。カプランは日本のメディアがヤクザの活動を報道しようとしないで口を閉ざしていることを直接的な言葉で批判した。彼は出版社が勇気を奮い起こすにはロッキード事件のような大きな起訴事件が起こらなければならないのだと言い、「国際化を進めますます暴力化していくこの暗黒の世界を、喜ばせおだてるような記述はできても、批判的な記述はできない。ヤクザをロマン化するような映画や漫画や本はいいが、批判的な報道はできない。これが日本の出版社の送っているメッセージなのか?」と述べている。(p.292-3)
                               (引用終わり)

 出版に興味を示さなかった十八社の会社名を知りたいものだ。きっと誰もが知る大手の出版社なのだろう。
 それに引き替え、『ヤクザの文化人類学』は、『ヤクザ』とほぼ同時期(数年遅れ)で書かれた本書は、テキヤなどヤクザの古きよき文化をも含め、別に肯定的というのではないが、カタギの世界とヤクザの世界の曖昧な境界線に沿
うようにしてヤクザの世界の一端を描いている。
 「訳者あとがき――文庫版によせて」の中で、小生と同じく富山出身だという訳者の高井宏子氏が、「個人的な話のついでに言えば、富山県出身の訳者にとって、裸電球のぶら下がった多くの露天が軒を連ね、静かな田舎町が一変したお祭りの風景は、最も郷愁を誘われる子供時代の思い出である。原風景の一つとも言える祭りの風景がラズ氏の考察を読んで新たな意味合いを帯びるように思えたことを覚えている。」(p.376)
 などと記されているのは、微笑ましいし、そうした感想を述べる雰囲気のある書なのである。
 
 さて、こうした感想はともかく、両書が書かれ出版されてから(『ヤクザ』は91年刊、『人類学』は96年刊である)、ヤクザ事情は大きく変わっている。
 というより、日本の社会が激変したのだというべきかもしれない。高度成長経済が終息し東西の冷戦構造も終焉した。バブルは華やかなりし頃、多くの経済事件が頻発し、日本社会を揺るがしたことは、前編にも記した。
 ヤクザについても、代紋を表に掲げて堂々と(?)営業するような状況は消え去った。地域社会、共同体的社会が崩壊し、人々の世界は流動的になった。
 地域に根ざした、住民に愛される(?)ヤクザではありえなくなったのである。地域住人の構造が激変し始めてしまったのである。
 また、戦後の一時期、日本の共産主義化を防ぐという名目で、警察(当局)は、スト破りなどの目的もあり、右翼や暴力団を利用した。つまりは蜜月関係にあったわけである。が、冷戦構造の崩壊した今は、暴力団の利用価値は低下し、少なくとも表向きは暴力団に厳しく当たる余地が警察当局側に生じたわけである。
 そのエポックが、暴力団対策法が施行され、容赦なく適用されることになったことに象徴される。ヤクザは、地下に潜るか企業社会に姿を変えて浸透していくようになった。
 従来より、一層、カタギの人々からは姿が見えなくなったのである。
 暴力団(この名称は警察が付けたものである)の構成員も不明確化し、警察にマークされていた人物は表向き組を追い出された。建前であろうと、素人集やカタギには手は出さないという自制も、土台から意味をなさなくなってしま
った。
 従来の「しのぎ」(経済的基盤や対象、例えばパチンコなどの利権)が(警察に移り)奪われてしまった以上、カタギだろうが何だろうがカネの匂いのする所は遠慮なく手を突っ込むようになったのである。
 ところで、警察とヤクザとが利害の上で共通することが一つある(一つかどうかは分からない)。
 それは治安である。ヤクザが商売をする上で治安(ヤクザの場合の治安とは、多くは組の関係者以外の者がシマ(縄張り)を荒らすこと)が悪いことは何かと困る。警察も治安が悪化すれば、まずは警察のせいにされる。だから両者は治安の維持には神経を払うのである。
 暴力団の言い分を真に受けると、”カタギの社会が俺たちを必要としているから、俺たちは存在する”となる。麻薬などの薬物、売春、ポルノ、ギャンブル、民事の紛争…。
 こうみてくると暴力団などのなくなる日が来るとは、到底、思えなくなる。
 つい先日も、東京ドーム側が暴力団に長年、便宜を図ってきたことが露見した。バブルの際の地上げには銀行が暴力団を利用していたことが暴露された。大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶ事件を見ると、国家の中枢にも暴力団が食い入っていることが知れる。
 竹下元総理が総理総裁になる時は、ほめ殺し事件が起きたりして、一国の総理も暴力団に頭を下げないとなれない日本の事情が世界中に知れ渡った。不良債権問題も、利権が絡む連中と当局の関係が深すぎて、問題を解決を図れないのだろうことは、容易に察せられる。暗黒の時代は、より深い闇へと突入していく。
 きっと、形を変え、より巧妙な形でヤクザは生き残っていくのだろう。

(02/09/29)

[昨日(12月1日)の営業で、タクシーのお客様を目的地に向け、走っていたら、某所でヤクザに行く手を阻まれてしまい、お客さんの了解を得てだが、仕方なく若干の迂回をする羽目に。本稿のアップは、その記念(?)かも。]

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ヤコブ・ラズ著『ヤクザの文化人類学』

「ヤコブ・ラズ著『ヤクザの文化人類学』雑感」


 今、読んでいるヤコブ・ラズ著の『ヤクザの文化人類学』(高井宏子訳、岩波現代文庫)は、ひどくつまらない。
 こんな言い方をすると偏見に満ちていると言われそうだが、いかにも岩波書店が出しそうな(出せそうな)ヤクザ(やテキヤなど)についての当り障りのない文献だ。
 車中で先週、読みつづけていたが、もう、退屈さに我慢がならず、今日、残りの部分を読み飛ばすことにする。
 何がつまらないかというと文化人類学的御託があまりに大仰で、その割にヤクザ社会への切り込みが甘い。これは全く、転倒している。
 十年程前、D.E.カプランとA.デュプロの共著による『ヤクザ』(松井道男訳、第三書館刊)を読んだが、こちらはヤクザと右翼暴力団の実態や日本の企業社会との絡みを抉っていて、読み応えがあった。時代にビビッドに感応しているタイムリーな書だった。
 世界七カ国語翻訳の国際的ベストセラーであるにも関わらず、さすがに日本では翻訳出版するところがなく、ようやく第三書館が出すことになったというイワクつきのものだ。
 こういう本は岩波では決して手が出せないだろう(出すつもりもない?)。現代に関しては、人畜無害な空論を振り回す理論書でないと怖くてダメってこと。後は古典で頑張ればいいのだろう。
 後者の本が出された当時、佐川急便事件とか、野村證券による右翼総会屋への不正利益供与事件、リクルート事件、金丸信ゼネコン汚職事件など、自民党政権の終焉を意味する事件が頻発していた。
 その後は住専(住宅金融専門会社)問題で、公的資金を投入し、住専の大口債権者だった農林系金融機関を助けました。住専問題で焦げ付いた融資の大半は不動産投資であり、その多くに暴力団が絡んでいたことは周知の事実。つまりは、暴力団との絡みが露見されたくなくて、政官界がこぞって公的資金の投入に奔走したわけだ。
[住専処理問題については、ここを参照のこと]
 しかし、こうした数々の不透明な事件の数々にも関わらず、結局、自民党は生き残り、政界・官界・企業界の闇と混迷は、行き着くところまで行ってしまった。
 今度は日銀が、不良債権問題に絡み、銀行や民間の企業を救済するため株を購入するという。
 政権の交代がないと、ここまで汚職と腐敗が進むという、悲しい忌むべき現実が今、進行中なのだ。
 しかし、これも日本国民の選んだ政権の行う事だ。悲しいけれど、日本丸に乗る日本国民は、みんなで沈めば怖くないという諦めの心境なのかもしれない。
 尤も、金持ちは海外へと資産の移動を始めているらしい。沈みゆく船に、いつまでも乗船はできないってこと。さすがに目ざとい。


                            (02/09/29)

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