« 円地文子著『朱を奪うもの』 | トップページ | 河盛好蔵著『藤村のパリ』 »

2004/12/22

ジョナサン・ワイナー 著『フィンチの嘴』

「『フィンチの嘴』雑感」

 ジョナサン・ワイナー 著『フィンチの嘴』(樋口広芳・黒沢令子 訳、ハヤカワ文庫NF)を読了した。
 ちょいと古い本(単行本は95年に刊行)だが、どうしても読みたかったので、今度文庫本に入ったのを契機に読んだのである。

 副題に「ガラパゴスで起きている種の変貌」とある。ダーウィンがビジョンと理念しか示せなかった、また、人間が現実に垣間見ることは叶わないだろうと思っていた進化の実態を観察・研究した成果が、二十年に渡る経過をも含め、生き生きと描かれている。

 小生のこと、どんなとんでもない説明をするか知れないので、以下に本文庫の裏表紙にある能書き(の一部)を転記しておく:

 ガラパゴスには多彩な嘴で有名な鳥ダーウィンフィンチが生息している。20年をかけて彼らを丹念に調査した研究者のグラント夫妻は驚くべき事実を見出した。鳥たちは気候の変動に応じて刻々と変貌し、「現在」も進化を遂げているのだ――種を突き動かす驚異的な自然の力を克明に描き出し、進化は「過去」の出来事に過ぎないという固定観念を打破する
                                 (以下略)

 更に老婆心(但し、小生は男性である)で紹介しておくと、本書の的確で簡潔な感想と解説が以下のサイトで読める。これで満足された方は以後を読まなくていいはずである:
 http://www.ne.jp/asahi/rover/sfx/books/0112/b011211.htm

 さて、やっと本題だ。
 たとえばアメリカでは国民の半数以上の人がダーウィンの進化論を信じないという。
 種はあっても、地上の生物は神の創造によって全て生まれたのであり、それが今日も続いているのだと信じている、という。
 が、そうした彼らに「進化」という言葉を示さずに進化の事実や実態を説明すると興味深く拝聴する。が、最後にこれがつまり進化なのだと、「進化」という言葉を告げた途端に、聞き手はカンカンに怒るというのだ。(p.451)
 知る人ぞ知る話だが、ダーウィンも、かの有名な『種の起源』の中では一度も「進化」という言葉を使っていない。彼は実に慎重なのである。彼は徹底した観察に基づいて彼の「思想」を生み出していったのだ。
 けれど、彼にも苦手な分野があった。それは数学(的手法)である。『種の起源』や『人間の由来』にしても、調査し観察し記述するけれど、得られたデータを統計処理するなど数学的分析はしていない。
 彼がそうした技術を持っていたら……などと考えるのは無意味なことかもしれない。もし、統計処理の手法を持っていたら、ガラパゴス諸島で観察した結果から「進化」の実態を垣間見ることが出来た……とは、簡単には言えないだ
ろう。
(尤も、『種の起源』などには数式が一切ない。だからこそ、一般の人にも広く読まれただろうとは言えるかもしれない。)
 なぜならダーウィンは、生物の系統が枝分かれするという「進化」が現実にあったとは確信していたが、人間が進化の実態を見ることができるのは、せいぜい化石などの過去の痕跡に頼るしかないと思い込んでいたからだ。
 仮に現在も進化の軌跡を描きつつあるとしても、それは人間的時間を超えた長いスパンのもので、現実の進化の進行に気付くことは難しいだろうと考えていた。
 従って、進化を跡付ける証拠である化石を都合よく集められるとは限らず、実際には相当に飛び飛びの化石(の断片)を年代順に並べて、「進化」を理論的に確証・裏付けるしかないと考えていたようだ。
 だからこそ、化石など、あるいは現に生存している種の実態の観察の結果として、『進化』論は、説得力ある語り口と共に、理念・ビジョンとしては一部の学者に対し説得力を持ったわけだけれど、一方、本当の意味で「進化論」が
科学的に確証されたわけではなかった(そう考える学者が多くなった)。
 やがて「進化論」が廃れていった所以である。あくまで、説得力のある理論に過ぎないというわけだ。
 そうした「進化論」の学問的位置付けが長く続いた。証明されざる理論として、やがて理論の化石となっていく歴史が続いたのだ。

 さて、本書に扱われているグラント夫妻は、長年の観察調査と数学的統計処理の手法を駆使することで、ダーウィンが求めていた科学的実証を明確に示したのである。
 主にフィンチという鳥の嘴の、それこそミリ単位(あるいはそれ以下)の微細な大きさの変化と天候(エルニーニョ現象の影響などによる洪水や旱魃)との相関関係を歴然と示したのである。 
[エルニーニョ現象については、下記などを参照:
     http://www.ccsr.u-tokyo.ac.jp/docs/elnino/elnino.html ]
 グラント夫妻らはガラパゴス諸島に棲息するフィンチの尽くに番号を附した。一羽一羽を識別できるようにしたのである(番号はやがて万を超えた!)。
 そうすることで、親子関係や先祖と子孫の関係、一羽一羽の誕生から死に至るまでの変化など、変貌の実態を細かく観察することが出来たのだ。
 その上での数学的統計処理なのである。
 まさに地道な研究の勝利だが、同時に数学の威力(コンピューター)の勝利でもあったわけである。

 今では我々は、至る所で現に「進化」が進行しつつあることを知っている。
 その代表格の一つは、農薬と「害虫」の関係だろう。アメリカの綿花畑で大々的にその進化のドラマは繰り広げられた。
 DDTなど新しい農薬を撒く。すると一旦は蛾などの害虫は、ほぼ全滅したりするのだが(その意味では農薬は効く)、すぐに蛾は復活する。
 撒かれた農薬に耐性を持つ蛾が農地の全域に広まるわけである。
 そこで更に強い農薬を散布する。一旦は害虫は駆除される。が、復活を遂げる…。
 その繰り返しなのだ。ダーウィンの進化論は知らなくても、現実には「進化」の現実が、それも人間の圧力(農薬、農業生産、食糧、そもそも人間の存在そのものetc.)によって自然(「害虫」)に強いられて生じていたわけである。
 それこそ「進化論」など信じない農地や地域も含めて。
 やがて、では害虫の被害を受けないような植物、農産物を、というわけで、遺伝子加工された農産物を作ればいいじゃないか、となっていったわけである
(当然、これはこれで問題がある。食べる上で仮に問題がなくても、「害虫」に与える影響が大きい。食物連鎖が大きく崩れる可能性も考えられるだろうし)。
 
 他にも抗生物質が知られている。これまた現在進行形であり農薬に劣らず身近現実として起きつつあることが怖い。
 抗生物質とは、所詮は化学薬品の一種であり、本書の表現を借りれば、「身体の中の害虫に」投与する農薬のようなものだ。目には見えなくとも、我々の身体の中で激しい「害虫」の生存闘争が日々行われているのだ。
 「1950年代に欧米の病院で抗生物質を使い始めると、一、二年のうちに耐性が現れた」
 そして農薬と同じような展開が抗生物質でも見られたわけである。
 しかも、日本では、恐らくは一部の怠慢(ないしは無知の)医者が、病原菌に冒された患者に治療を施すに当たって、病原菌をやっつけるほどほどの強さの抗生物質を投与すればいいものを、いきなり最新の一番強い抗生物質を患者に投与してしまったりした(多分、過去のこと、今は行われていないことだと思いたい)。
 つまり、ひよこ程度の最近なのだから水鉄砲でも撃っておけばいいものを、いきなりダイナマイトかバズーカ砲をぶっ放したというわけだ。
 なるほど、取りあえずは病原菌の背反は死滅し、患者の容態も回復するかもしれない。
 しかし、やがてバズーカ砲に身構えることを学んだ世代の病原菌が即座に現れてくる。となると、既に最新の強烈な抗生物質を使い終わっているため、次の新薬が現れるまで、手の施し様がなくなってしまう。
 ひよこ程度の病原菌には水鉄砲を、もっと強い菌には鉄砲をと徐々に適宜、投与していけば、多少は新薬の開発にも時間的な余裕が持てたかもしれないし、病原菌の進化を遅らせることができたかもしれないのに。
 今では日本でも結核が蔓延している、などと最近、テレビ等で報道されたことを知っている方も多いだろう。今、なぜ、結核が?! しかし、自業自得の結果なのかもしれない。ウイルスなどの進化の早さの凄まじさを見くびってい
たということなのだろう。
 かのO157という大腸菌についても、あまりに抗生物質などを安易に使いすぎて、急激に薬に耐性を持った菌の一種という現実を示しているのだろう。

 進化は身近で、身体の中というあまりに身近な場所での病原菌の様変わりという形で、あるいは農産物(に集る「害虫」)という我々の口に入る身近な場所で、現実に起きていることなのである。
 これは蛇足になるかもしれないが、そもそも「進化」という言葉が、何かあやしい雰囲気というか偏見を持ちやすい言葉に思えてならない。
 この日本語の進化という言葉の裏には、原始的な生物から高等な生物へ、サルから人間へといった、まさに高等な段階へのレベルアップというニュアンスがどうしても読み取れてしまう。
 昔の生物などの教科書で、左から右へ、サルからゴリラやヒヒ、チンパンジー、そして人間へ。
 人間でも、原始人からネアンデルタール人へ、クロマニヨン人から我々の段階へという図式を散々、見せられてきたものと思う(場合によってはアフリカ人から東洋人、白人へ!)。
 さすがに最近の進化の図は違う。原始的な生物でも現在も生きている生物であれば、まさに現在に生きる生命体として人間と同等な水準に置かれている。ウイルスだろうがミミズだろうがゴキブリだろうがアメリカ人だろうが、アフ
リカ人だろうが日本人だろうが、全て、今を生き、今を共有し、また共生すべきものとして理解されているのだ。
 逆に言うと今に生きることが出来なければ、どんな生物でもとっくに死滅しているわけで、今、生きている以上は、今という時の環境に取りあえずは適応しているのである。
 むしろ、今の人間のように人口が急激に増大していることは、過剰適応であり、何か狂っている可能性だってありえる。

 辞書的な意味合いを調べてみると、日本語に「進化」と訳された元の英語は、「evolution」であり、「evolve」である。ラテン語に由来する言葉で、「進化する」という意味合いもあるが、「徐々に発展する、展開する」などの意味がある。外に向って開いていくというニュアンスが強い言葉である。
 が、日本語で「進化」と訳されると(これはダーウィンの篭めた意味を反映しているのかもしれないが)、高級な方向へのステップアップのニュアンスしか嗅ぎ取れないのではないか。
 わざわざ語源的な話を持ち出すのは、最近の生物進化に関する理解の問題に関わるからである。

 つまり、従来は「生物界は動物界、植物界、微生物界」に分けられる。そのうち、微生物界は真核生物(バクテリアなど)と原核生物(核がない)に分けられる。
 その真核生物から微生物界の一部と、植物界、動物界に枝分かれし進化し、残りは原核生物として進化を遂げたと考えられてきた。
 が、1980年代に入って、極限環境(高温、高圧、高酸性など)に住む微生物が発見され(そのうちの有名な微生物が石油を作る微生物だ)、それらは原核生物より古いことが分かってきた。これらを古細菌と呼ぶ。
 今日は、古細菌(特に海底の熱水噴出口などに住む好熱菌)として原始生物が生まれ、そこから真核生物へ発展したのであり、原核生物は傍流だと理解されてきた。
[この項は、立花隆著『21世紀 知の挑戦』(p.152-3)参照] 
 原核生物から真核生物へという基本的な構図が崩れてしまったのだ。最も原始的な生物も、構造の複雑な生物も、それぞれに進化し今日を生きているということなのである。

 現代において地球環境は、人間の数の急激な肥大という異常環境下にある。そのことの環境への(生物の連鎖を維持する上での自然環境への)過大な負荷という事態に遭遇している。
 そのことの行方は誰も分からない。
 想像を超えるものがあるのかもしれない、とは思うけれど。


                             (02/11/11)

|

« 円地文子著『朱を奪うもの』 | トップページ | 河盛好蔵著『藤村のパリ』 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

私も農薬の話がインパクトがありましたね。

薬のきかないウィルスがどんどんできているんですから。

投稿: 本のソムリエ | 2011/07/08 08:23

本のソムリエ さん

人間の活動などの自然に及ぼす影響は、深甚なものがありますね。

農薬もそうだけど、放射能汚染物質の脅威は、想像を超える。

ウイルスの脅威も、今、そこにある危機のうちの大きな一つですね。

投稿: やいっち | 2011/07/09 21:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ジョナサン・ワイナー 著『フィンチの嘴』:

« 円地文子著『朱を奪うもの』 | トップページ | 河盛好蔵著『藤村のパリ』 »