「立花隆著『21世紀 知の挑戦』(続)
本書の最後に「21世紀 若者たちへのメッセージ」と題された章がある。
本書のために書いた文章ではない。ただ、「科学技術創造立国」を目指す日本として、立花氏が将来を背負って立つだろう若者たちへ贈るメッセージとして、科学技術への基礎的な理解をもっとしっかり持つべきだと語っており、本書の締め括りの章として相応しい内容だとして、収録されたのである。
そのメッセージを贈るとして為された講演は、一つは「新人若手官僚に語る 科学技術創造立国なんてとんでもない」というもの。
無資源国日本としては、科学技術で付加価値を高めていくことで生き残っていくべきなのに、現実には、ゆとり教育などにより、日本の国民全体の科学技術に対する理解の水準が低くなっている。その結果、日本の科学技術の研究水準そのものが低いままであると立花氏は熱く語っている。
アメリカの大学では、トップレベルの大学では、理系・文系に関わらず全学生に分子生物学、細胞生物学を必修として義務付けている、などの例を挙げ、現状の格差が広まる一方であるという。
今や、遺伝子研究を初めとするバイオ研究は国の浮沈を左右する分野となっており、そのことへの理解は必要不可欠のものとなっている。科学技術に関わる交渉を海外の国々と行うに際しても、常識レベルの底上げがない限り、交渉そのものが成り立ち得ない…。
この講演は、若手官僚を一堂に会してのものであり、期日は短い。なのに、その貴重な会期をラジオ体操やジョギングに費やしているとは何事かと語る。危機感が感じられないということなのだろう。
さて、もう一つの講演は、「21世紀のサイエンチストたちに語る 科学はどうあらなければならないか」と題されて、総合研究大学院大学での入学式の際に行われた。
この大学は博士課程のみの学生が集まる。その大学への入学生相手に日本の科学技術研究の現状の危機的状況を語っている。
曰く、今や不可欠の言語となった英語で論文を書けないのは、競争上相当のマイナスである。
ヒトのアクティビティが世界のあり方に大きな影響を与えるようになっている。
しかし、その影響力に従来あまりに無自覚で、その結果、環境問題などを人類は引き起こした。
だからこそ、ヒトは自己の役割の大きさを自覚し、責任を持たなければならない。
バイオテクノロジーの問題についても、「それが個人にとってよいことか。その人の属する社会にとってよいことか。地球社会にとってよいことか。ヒトという種にとってよいことか。生命界全体にとっておいことか。自然界全体にとって
よいことか――といったことまで考えなければ正しい答えは出ない」と最後に語る。
つまり、「我々の時代は科学なしには何事も進まない時代になったとともに、科学が科学だけではすまない時代になった」「我々はそういう時代を生きなければならないのだ」と語るのである。
さて、以下は小生の本書を若干離れたところでの感想である。
日本は今、不良債権問題の処理に苦しんでいる。構造改革も必要なのだろう。将来の成長産業を見据えた投資や研究や人員の配置も必要なのだろう。
失われた10年とよく言われる。何故に失われた、みすみすきちんとした対策も打てないままの10年で終わったのか。
それは政治家の責任もある。あまりに経済に疎く、難しいことは官僚に任せ、自分たちは80年代前半までと似たり寄ったりの利益誘導型政治しかできなかったとも云える。
しかし、そんな政治家を選んだのも、現状維持しかできない官僚を育てたのにも国民の責任が皆無とは云えない。
高い理念や構想力や知識を持つ政治家や官僚を持つかどうかは国民次第なのだ。経済での大失敗は、不況という形で如実に現れるから、責めやすい。
しかし、大失敗は何も経済だけではない。科学技術の面でも大失態を日本の政治も行政も犯してしまった。
バイオテクノロジーもナノテクノロジーも80年代末には欧米で喧伝され、アメリカでは将来を見越した体制作りを急いだ。
コンピューター産業も同様だ。日本には坂村健を象徴とするトロンという基礎理論があったのに、みすみすアメリカに研究の先行を抑えられ、その間にマイクロソフトの勃興を許し、例えば、パソコンを立ち上げるだけでも相当の時間を要してしまうような不完全なパソコン(ソフト)の世界制覇を許してしまった。
これは政治家の科学技術への無理解と(当然、国民)バックアップがないばっかりに、官僚の一部はトロンの技術的な優位を知りながら、為す術がなかったのだ。
科学は諸刃の刃であることは、今更贅言を弄するまでもなく、明らかだろう。
しかし、科学、あるいはもっと広く、人間が人間や動物や生物や自然や宇宙や、を理解しようという欲求を抑えることができるとは思えないし、抑える必要もないと考える。
大切なことは、科学技術の先端において行われる研究をできるだけ幅広い視野を持つ人々、あるいは幅広い層に渡る人々によって検証され議論の俎上に乗せていくことだろう。
科学、これはサイエンスの訳語である。意味的には「知識」を意味する。日本語に翻訳される際、個々の科目に細分化された知識ということもあり、科学と訳されたようである。
大本は、もっと幅広く哲学という土台に繋がるものなのだと考える。知りたいという欲求と同時に、何を知ろうとしているのか、知ったことの意味は何か、その根本を今こそ考えるべきなのだろう。
原題:「立花隆著『21世紀 知の挑戦』あれこれ(続)」(02/11/07)
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