立花隆著『21世紀 知の挑戦』
本書の文章は一九九九年二月号から二〇〇〇年六月号までの月刊誌『文芸春秋』に掲載されたものであり、二〇〇〇年七月には文芸春秋社より刊行されている。
もともとは、TBSで九九年と〇〇年に放送された「ヒトの旅、ヒトへの旅」という番組のための取材で得られたが、テレビでは使い切れなかった膨大な材料を本に纏めたものなのである(小生は、今夏に出た文春文庫版にて読んでいる)。
従って、科学的なデータなどとしては、全く新しいというわけではないが、古びているともいえない。
参考のため、本書の目次を紹介しておく:
はじめに
Ⅰ.20世紀 知の爆発
サイエンスが人類を変えた
バイオ研究最前線をゆく
残された世紀の謎
Ⅱ.21世紀 知の挑戦
DNA革命はここまで来た
ガンを制圧せよ
天才マウスからスーパー人間へ
21世紀若者たちへのメッセージ
小生は、あれこれの科学や技術関連の啓蒙書を読むのが好きだが、とにかく科学・技術の進展は凄まじい。一年二年前のデータが通用しないことは珍しくはない。
まして、一般の我々が科学や技術関連の情報を知りうるのは、科学研究者・技術者らの現場から様々な評論家やマスコミなどを経由して、何年も経ってからだし、しかも、正確な情報を得ているか、そして的確な理解をしているかというと、肌寒い状況にある。
特に日本は、そうした状況が一層、際立っているようだ。
過日の文部省などの調査結果などを見ても、日本における科学・技術理解の度合いは、相当に低下しているようだ。とくに、ゆとり教育が喧伝されるようになって、尚更、科学離れ、理科離れの傾向が進行しているようで、憂えるべき事態とさえ云われたりする。
科学や技術の発展が、直接、人間の幸福や生活の向上に直結するかどうかは議論の分かれるところだ。生活の変化には明らかに論議の余地なく密接に関わっている、このことは科学に疎い小生にも理解できる。
が、医学が発達して、寿命が伸びることで、それで多くの高齢者の方たちの生活が幸せになったかというと、多くの方が疑問を抱くだろうし、実際、寝たきりだったり、介護の環境が整わなかったり、それこそ身体中に何かの装置から伸びるパイプが繋がっていて、雁字搦めの状態で延命しているという方もいる。
医学や生活のレベルの向上によって齎された高齢化の促進と、それに対応する社会の受け入れ態勢や、意識の変化が追いついていないというのが現状なのだろう。
しかし、単純に考えても、例えば外科手術を施す場合でも、「華岡青洲の妻」の物語ではないが、昔は麻酔なしでの手術を余儀なくされていたのだ。想像するだに、背筋が寒くなる。
しかしこれが、僅か、百年余り前までの現実だったのだ。
多くの病気が医学の発達で克服され、治療可能となっている。また、今もなりつつある。このこと自体を咎める理由など、何もない。
医学は治療などの機会をより高めるのだ。そのことと人間としての幸福に直結しないとしても、それは問題を混同しているのであって、医学に象徴される科学・技術の発達というのは、基本的には今も素晴らしいことだし、小生もそうした見解を持っている。
しかし、身体が強健だったり、あるいは資産が豊かであっても、だからといって、その人間が幸せかどうかは、全く別問題なのだ。
医学や科学技術の発展は、健康で幸せに生きるためのベースを確実なものにする手段なのだ。失恋は、健康だろうが病体だろうが、する時は、失恋する。
でも、仮に恋が叶っても、病気だったら、デートもできない。ただ、ベッドで恋心を抱くだけに終わる。それはそれで深い情緒を味わえるのだとしても。
むしろ、問題は別のところにありそうだ。
つまり、科学・技術の進展で、理論的に病気は全て克服されてしかるべきものという観念を我々は昔の人よりも強く抱いている。というより、どんな病気も本来的には治療可能なはずなのだ。なのに、直らない、あるいは、つい病気に罹ってしまうというのは、まさに不幸であり、不運の極みということになる。
遠い将来はともかく、人間は(大概の生き物は)いずれは死ぬ。何かの病気に罹患してか、事故によってか、老衰によってか、精神的苦悩の果てにか、戦争やテロや犯罪に巻き込まれてか、理由は事情は様々であれ、とにかく死ぬことに定まっている。
なのに、自分が何かの病気に見舞われたなら、それは正に不幸である。治療の機会を求める。直ってしかるべきである。医者が治せなくて、どうするのだと思ったりする。
もう、病気というのは、事故と同じ偶発的なものであって、技術的対処によって避けられるべきものなのだ。
ということは、病気というのはあくまで外的なもの、偶発的なもの、本来余計なもの、あって欲しくないのは勿論のこと、あってはならず、従ってないはずのもの。
こういう意識を一旦、持ってしまった人間=恐らくは先進国の大半の人間は似たり寄ったりの意識を有しているだろう=は、肉体的苦痛であろうと精神的苦痛であろうと、生きる上での障害物でしかない。
健康で、明るくて、元気で、楽しく、悩みなど全くなくのびやかに生きてこそ、人間なのだと考える。最近のテレビの風潮だと、活発で談論風発な人間が持て囃される気味があるようだ。価値観が狭すぎる気がするのだが。
明るさが持て囃されていて、その実、病気は恐らくは今世紀中はなくならないだろうという現実がある。
だとしたら、何かの病気に罹患した当人は、ただの不幸な人、治療法に恵まれなかった、新しい措置に間に合わなかった不運な人以外の何者でもなくなるのだ。
病気が単に外的なもの、偶発的なものということは、病気が人間(生物)に本来的に避けられないものではないのだから、病に苦しむ人は、その人だけが、孤独に苦しむしかないことになる。
傍から見ると病者というのは、不運を託つ人間、勝手に悩むしかない人間なのである。
なぜなら、病気が人間(生物)に不可欠の、避けようのない運命であって初めて、誰しもが苦しみを共有し、互いを理解し合えることになる。それぞれに抱える病気の種類は違っても、とにかく何かの病気に苦しむ、人間として病を抱えるという共通性から、共感の余地が生じえるのだ。
さて、今世紀の少なくとも前半は医学的には、遺伝子治療が治療法の主役になりそうな勢いである。体というのは、遺伝子の働きに、ほとんど全てといっていいくらいに支配されているという事実が、日々、一層、明らかと成っているのだ。
旧来のように、遺伝子というのは、親から子へ伝えられる遺伝子情報として、何か生殖に関わるだけのものではないことが分かってきている。免疫も、細胞の増殖や修復やホルモンのバランスも、つまりは、日常の身体的機構の細部に渡るまで遺伝子が機能していることがわかってる。
ガンも、複数のガン遺伝子が複合的に作用することで発生する。何かの事情でガン抑制遺伝子がうまく作用しなかった結果なのだ。
だからこそ、遺伝子治療の役割はますます高まるわけだ。
あくまで複雑な遺伝子の働き。免疫もそうだが、その昨日の複雑さは眩暈を起こしてしまいそうなほどだ。
それゆえになのだろうか、遺伝子治療の困難さがクローズアップされてもいる。
何かの遺伝子上の欠陥を直そうと遺伝子治療を施したところが、全く予想外の部位に治療の効果が及んで、想像外の副作用を生じてしまったりするというのだ:
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Bio/200204/29-1.html
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Bio/200204/19-1.html
特に後者の「遺伝子治療のマウスに白血病発症 安全性問われる──ドイツ 」という記事は、最近、イタリアで遺伝子治療を施された患者の一部で白血病を発症したということが話題になり、日本で同様の治療を予定した病院も、治療を中止したという。
別に、このことによって直ちに遺伝子治療を止めるべきだと、小生は主張するつもりはない。むしろ、遺伝子治療は、まったくの黎明期にあるのだと思っている。
遺伝子の働きは、想像を絶するほどに入り組んでいて、どれかの欠陥のある遺伝子を健全な遺伝子で置換すれば済むというような簡単なものではなく、膨大な遺伝子の相互影響が何処まで及んでいるか、今は全く未知なのだという認識を改めて確認したということに過ぎない。
遺伝子操作食品(遺伝子組み替え食品)も、その未知の有害性が話題になったことがある。従って遺伝子操作された食品が添加されている場合は表示が義務付けられている。
と云っても、完全に全ての添加されている遺伝子操作食品が表示できるはずもない。それは現実性がない。
本来、食品というのは、食べると消化される。ということは、遺伝子操作食品であっても、胃の中などで消化されれば、吸収される段階では、遺伝子も完全に溶け去ってしまうわけである。
それより遺伝子操作食品を一切、認めないで、従来どおりの製法で作られた食品しか認めないということになれば、除草剤・殺虫剤などの明らかに有害な薬剤を使った農法を続けるしかなくなる。
こうした殺虫剤・除草剤をできるだけ使わないためにこそ、遺伝子操作農法が考え出されたのに、である。どっちが危険なのか、明らかなような気がする。日本の米は、大袈裟にいえば、石油で作られていると云っても過言ではないほど、化学肥料を筆頭にした石油製品に頼っている。
我々は石油を食べている、と、コピー風に言えるかもしれない。
ホントは、日本でこそ、徹底的な遺伝子操作技術の開発が必要なのではないか。前門のトラ、後門のオオカミ、そのどっちを選ぶかなのだろう。
遺伝子操作食品ないし、遺伝子操作を利用した農法の悪影響は、遺伝子操作食品を食べることによる影響ではなく、むしろ環境への影響のほうが大きいかもしれない。
つまり、害虫を寄せ付けない形で植物(トマトであれ、大豆であれ)が育つということは、害虫とされる虫類が食べるべき餌がなくなるということであり、ということは、虫類を餌とする鳥類にとって貴重な餌がなくなるということであり、
ということは、以下、蜿蜒と環境における動物連鎖が続き、結果としてどのような生態系の異変が生じるか、想像を超えるものがあるに違いないのだ。
原題:「立花隆著『21世紀 知の挑戦』あれこれ」(02/11/03)
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