徳永進著『隔離』
「徳永進著『隔離』を読んで」
数日前に本書(岩波現代文庫)を読み終えた。通常なら読後感は、読了してすぐに書くのだが、どうにも頭の整理がつかなくて、本を片付けることも出来ず、今も困っている。
本書を単に紹介するだけなら簡単である。副題に「故郷を追われたハンセン病者たち」とある。1982年に『隔離―らいを病んだ故郷の人たち』の題で刊行されているので、文庫に入る以前に既に読まれた方も多いだろう。
副題にある通り、医者である徳永進氏が、彼の故郷である鳥取から国による強制隔離政策の犠牲になった40人ものらい病者たちへのインタビューを行われた。
本書ではハンセン病(患者)とは表記せず、あくまで古来より使われたらい病、らい者という表記を敢えて徳永氏は使っておられる。副題の「故郷を追われたハンセン病者たち」というのは、出版社側が付けたものだろう(著者は、その表記を了解されているのだろうか?)。
本書(岩波文庫版)は、昨年の9月に刊行されている。つまり、昨年7月、和解勧告を国が受け入れることで、ハンセン病訴訟全面解決へ向かった流れに乗っての刊行なのかと推測したくなる。まさに時宜を得た再出版ということだろう。
ちなみにハンセン病訴訟については、療養所への入所歴のないハンセン病元患者と、入所者の遺族の起こした訴訟が、国側が裁判所の和解勧告を受け入れたことで、ほぼ全面解決を見たことになる(本年1月28日)。
ほぼ、としたのは、今も圧倒的多数の患者は故郷から拒絶されたままだったり、あるいは患者の側が施設から出ることを望まない状況にあるからである。
ライ病というのは、それこそ聖書にも記載されるほどに古い病気で、恐れられた病でもある。日本では時に天刑病と呼ばれたこともあった。
死に至る病は無数にある。戦後にしても結核に倒れた人は多い。否、らいよりはるかに伝染性も高く、罹患したなら死亡に至る確率の高い病気も少なくない。
らいは一時、遺伝病と思われたことがあったが、その前は、人から伝染されるものだと思われていた。しかし、経験的な知識として感染力は弱く、症状の悪化の速度も遅い。まして死病というには、あまりに緩慢な症状の進行で、本来は恐れるより、養生第一に考えれば済むほどの病と考えることも可能だったはずだ。
それが、何故、業病として時に天刑病と呼ばれるような、強烈な偏見と恐怖を持って患者たちが差別され虐待され、仕舞いには国による隔離政策が実施されるようになったのか。
隔離政策が実施されるには医師らの研究成果とその主張が認められたからであろう。
むしろ、ここでは、医者等の判断より、そうした研究の結果として隔離政策がすんなり受け入れられ遂行された背景事情を見ておきたい。
しかし、実のところ、背景事情といっても、あまり深く考える必要もないことが悲しい。
このらいという病は、まさに病の特性である症状にある。世間は、人は病の結果を恐れたのだ。肺炎も結核も多くの死病も恐れるが、しかし、患者を差別したり偏見の目で見ることは、ちょっと考えられない。そうした病気に掛かる人をも、己の悪い業の故なのだと喧伝する性質(たち)の悪い宗教も中にはあるが、むしろ例外と言っていいだろう。
が、ライとなると事情は別である。
日本に限っても、多くの伝統ある巨大宗教団体が率先してらい患者に対する偏見を助長する役目を担ってきた。小生の郷里は浄土真宗王国だが、こうした動きに関しては例外ではない。
らい、この病に罹った人間は宗教的業罰を受けているのだと言うのだ。
しかし、もし仮に受け負っているものがあるとしたら、宗教的苦悩であろう。つまりは、らいに関しては、宗教的であるのは、宗教的苦悩に呻吟するのは患者たちであって、そうした患者を世間から追放する宗教側は、偏見と差別の上にあぐらをかいていたわけだ。
つくづく、宗教と言うのは、大多数の者のためのもの、政治の都合に乗りやすいもの、常識人のためのものだと痛感させられる。決して偏見に自らが立ち向かう覚悟など持とうとしないのだ。
昨年の劇的な和解が成って初めて、自分たちは間違っていましたと反省する始末だ。それだったら、ボンクラな小生だってできる。勇気のない小生だって、和解に喝采を送ることができる。時流に乗るようなもの、勝ち馬に乗るようなものなのだから。
そうではなく、世間の常識がどうであろうと、偏見に立ち向かい差別に抗しようと思うからこそ、宗教人と呼べるはずなのだ。
そしてそうした勇気がないから小生は宗教人にはならないのである。
思えば、らいというのは、それほど偏見と差別に見舞われやすいということだろう。外貌の崩れていく恐怖というのは、人間の多くの人が持つ根底的な恐怖なのではないか。何が怖いといって、外見的に人と違う容貌に変容していくことだ。
髪が抜け、瘤が出来、目が見えなくなり、足が腐ったとかで医者が半ば強制的に切ってしまう。その結果、足がなくなってしまう。顔が変形し、膿が出て止まらず…、と記述していったらキリがない。
しかも、そうしたらい者自身が直接に追う苦しみだけではなく、らい者への家族や親族や地元の人々の仕打ち。官憲もお坊さんもお医者さんも、世間からライ患者を追放しようとする。追放するだけではなく、関わり自体を否定する。
否定するというより関わりの存在自体をないものと考える。親でもなければ子でもない、夫でもなければ妻でもない、姉妹(兄弟)でもないし、そもそも存在していなかったとされる。
さて、しかし、自分がそうした立場になったら。それは弱い自分のことだから、流されるままに施設に追いやられていくのだろう。施設に入れば、入った当初は悲しく切なくても、少なくとも仲間はいるし、外貌を隠して世間に背を向けられて暮らす心配もいらないのだし。
でも、ところで、自分の親や、あるいは兄弟(姉妹)や子どもがらいに罹ったら?
隔離政策の中で、自分は一体、どんな振る舞いに及んだことだろう。
実を言うと、こっちのほうが怖い。下手したら、自分は率先して官憲や当局に、これこれという人物は怪しいです、などと訴えてしまうのではなかったか。少なくとも、地域から排除される人間を助けるような動きは決してできなかったことだろう。
そんな勇気が自分にあるわけもない。
ところで、本書を読んで感じたことは、案外に家族の絆は脆いことである。一旦、縁が切れると後は知らん顔というだけではなく、実際に存在を忘れてしまうことも往々としてあることだ。事情は双方にあっても、世間に止まれる方も結婚したりするし、施設に入ったほうも施設の中の人と結婚したりする。
遠くの親戚(家族)より近くの他人こそが大事ということ。
ただ、それでも、故郷への思いだけは消えない。家族とは縁も心の絆も切れていても、故郷への思いだけは、沸沸と湧き上がる。
故郷の土、山、緑、青空、川、田圃…。
故郷への思い。自分が生まれ育った地へのこだわり。それだけが心の救いであり、いつの日かの還るべき場所というのは、悲しい。
でも、そうした真実を知るだけでも、本書を読んだ甲斐があったということだろうか。
(02/08/19)
[ショックだった。本書の入手のため、書店にリンクさせようとしたら、「この商品はご注文いただけません」となっている。僅か二年前の本なのに。
なので、せめて「このハンセン病について書かれている本を紹介したいと思」う。
なお、ハンセン病の現在進行形の現実を見ておいてもいいのではないか。]
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