加國尚志著『自然の現象学』
「加國尚志著『自然の現象学』」
加國尚志著の『自然の現象学』(晃洋書房刊)を読了した。基本的に「自然(西欧において、ロゴスと対比されるところのピュシス)の概念」をキーワードにしたメルロ=ポンティ論の書である。
本書で、メルロ=ポンティの第一作である『行動の構造』と、ポンティの最後期の頃の講義録『自然』に焦点を合わせて、ポンティの自然の哲学を抉り出そうとしている。
小生自身は、そんなにメルロ=ポンティに傾倒した人間ではないけれど、ポンティは肉体や自然や芸術などへの関心が深く、独自の哲学的探求を行った哲学者だったことから、小生にとって彼はずっと気になる存在でありつづけてきた。
本書から二箇所だけ、メルロ=ポンティの言葉を再引用しておこう。いずれも、彼の講義録『自然』からの引用である:
<世界の肉>、それは世界に内属するわれわれの身体の比喩
などではない。逆のことを言うこともできよう。われわれの身体も
やはり世界と同じ感覚的な生地でできているのである。それは
自然主義でも、人間学でもない。人間たちと時間、空間は同じ
マグマでできているのだ。(p.233)
まさしく<われわれにおいて語っている存在>としての哲学は、
沈黙した経験のそれ自身による表現であり、創造である。それ
は、同時に存在の再統合であるような創造である……存在は、
われわれがその経験を持つためにわれわれに創造を要求する
ものなのである。(p.234-5)
小生は、最後の「存在は、我々がその経験を持つためにわれわれに創造を要求するものなの」だという言明に、共感する。
同時に、西欧においては、『聖書』の影響なのか、ピュシスとロゴスとの対比や絡みがずっと問題でありつづけてきたことを感じる。
この問題は、特にギリシャ哲学者の間で追求されてきたものだが、そのギリシャが本来有していた豊かな緑が、無計画な開発と伐採のため、ついには壊滅し、土壌が露になった頃に、多くの哲人が現れてきたことに皮肉のようなものを感じる(ミネルヴァのフクロウの喩えなのか)。
あるいは、無慈悲なまでに容赦なく消え去る<緑の大地>という現実が厳然として彼らの前に迫っていたから、ピュシスとロゴスという対比が切実だったのだろうか。
木田元氏が、朝日新聞での本書の書評で(本年3月24日)、「…西洋の哲学者たちの思索は、最後には<自然の問題>にゆきつくようだ。西洋哲学がその端緒で<自然からの離反>という原罪を犯したせいだろうか」と書いている。
そのことの背景に、彼らの豊かな緑の大地へ犯した罪の結果(=荒地化)があったことを銘記しておくべきだろうと思う。
さて、しかし、では、東洋は自然から<離反>しなかったというのだろうか。
話を日本に限るとして、なるほど古来より日本の文学の世界などで自然が謳われて来たし、寺や神社などでも、必ずといっていいほど庭園や森が周囲に配されたりしている。あるいは鬱蒼たる林の中に潜むように、寄り添うように古
寺が佇んでいる。
だが、これは日本の湿気の凄さという風土性があることを忘れてはならないだろう。どんなに木々を切り払って土壌を露にしても、雨が降り、苔が蔓延り、草木がやがて生い茂るのだ。
つまり、日本人は古来より自然を大事にして来たというより、どんなに自然を痛めつけても、勝手に黴が生え苔生し、緑に覆われてくる風土に恵まれていたに過ぎないのだ。
あの屋久杉で有名な屋久島だって、江戸時代には島津氏による大掛かりな屋久杉の伐採があったという。江戸時代だけではない、高度成長を謳歌していた昭和四十年代でも、屋久杉は盛んに伐採され、森林面積が激減したのだ。
それでも、世界でも有数な多雨の故に、今日でも世界遺産に指定されるほどに、木々が生き残ることができたのだ。それは単に人々の努力の結果ではなく(当然、一部の識者、先覚者の努力の賜物でもあるが、それ以上に)、土壌の力であり風土の力なのである。
その上で、平安時代において、世界で圧倒的なレベルに達する日記文学などが生み出された。
それらの作品は、十分に日本的なロゴスの成果といっていいのではないか。
決して日本であっても、自然からの離反がなかったわけではないのだ。ただ、(湿気や雨などのゆえに自然が部屋の中にまで忍び込む風土的現実があっただけなのである。それを後世になって、昔の日本人は自然を大切にしただなどと勝手な世迷言を述べているに過ぎないのである。
ここで、必要なことは、ロゴス(言語)とピュシス(自然)という形で対比される西洋と、自然(花鳥風月)と言葉(またしても花鳥風月)で対比する日本との、もっと違った視点での細密な分析なのだろう。
つまり、ロゴスとピュシスの対比は、西洋だけの問題ではなく、日本においても形を変えて問題とされるべきだということだ。
実は、この点の無自覚さが、せっかくの豊かな森林や河川や海辺などの遺産を十分に生かしきれない結果をもたらしている原因だと思われる。
からっとした論理性のあるロゴスと、厳しい現実としてのピュシスという西洋。一方、ジトッとした苔と黴っぽい自然と情緒性に傾斜しすぎるロゴスという日本。でも、構図そのものは共通しているよう思われるのである。
(02/07/27)
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