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2004/11/27

吉本隆明著『言語にとって美とはなにか Ⅱ』

吉本隆明著『言語にとって美とはなにか Ⅱ』


 これは印象による感想に過ぎないことを最初に断っておく。
 それはまず、自分が吉本隆明のいい読者ではないこと。少なくとも読んだ本は、ごく僅かである。
 それと、何より、本書を読んでも彼の言いたいことがよく理解できないことだ。
 彼は対談などでも、持って回った言い方は決してされない方であり、むしろ問題に対して真正面から取り組もうとされる方だと実感する。
 そう、小生が吉本隆明を知ったのは、埴谷雄高との対談の相手として昭和40年代の後半に文芸や思想系の雑誌盛んに登場された時のことだった。
 当然のように彼に興味を持ち、幾つかの本に挑戦したのだが、明瞭に語っているようなのだが、しかし、小生にはまるで理解が及ばす、以来、敬遠してきたのである。
 特にこの数年、吉本隆明はドンドン、本を出しておられる(ちなみに昨年から今年だけで30冊以上!)。多くは出版社の企画であり、インタビューのテープ原稿を出版社の側の責任で原稿の形に編集され、それに吉本隆明が手を入れる(?)という形になっているようである。
 それゆえか、編集者の力量がその著作(?)の出来具合を大きく左右している。編集者によっては吉本隆明の主張が明瞭に理解できたと読者を喜ばせる結果を招来するケースもあるようだ。
 しかし、それは本当に吉本隆明の主張なのかというと、若干の疑問の余地もないわけではない。
 もしかして(これは、小生の臆断である)、吉本氏は、独特な寛容の精神の立場にあって、少々の誤解や無理解や偏見など度外視して、取りあえずは吉本隆明ワールドに読者を取り込むことを最優先にしているのではないかと思う。
 一旦、読者を虜にしたなら、その読者が吉本ワールドに深入りし、読者自身のそれまでの浅薄な理解に恥じるもよし、あるいは誤解のままに擦れ違っていくも良しと、割り切っているのではないか。
 その上で、ほんの僅かの読者でもいいから、吉本ワールドの宣伝マンになるもいい、あるいは一層深い理解を目指すのもいいと思っているのではないか。
 
 さて、しかし、本書である。
 これは、一言一句、吉本隆明が書いた、まさに著作である。彼がその骨太な骨格と繊細なる精神とでもって、「わたしは、いままで考察してきた言語や表現の概念のほかになにもつかわずに、文学作品の構成の本質にちかづきたい」として、書かれた一文だ。
 つまり、一言で言うと、「文学作品の構成が、なにを意味するかを問う」こと、「指示表出の展開、いいかえれば時代的空間の拡がりとしての構成にふれ」ることで、文学作品のもつ価値を考えるということだ。
 芭蕉と西鶴はどちらがすぐれているとはいえない。ただ、「西鶴の長編小説では、構成が作品の価値にかかわる重さが、芭蕉の短詩よりもはるかに大きい」もんだいだと、吉本は考える。
 けれど、何故、構成に拘るのか、まだ分からない。
 ただ、構成の方法の中にこそ、「時代的空間の拡がり」が見られると考えているのだろうとは、推測できる。
「表出のはりつめた励起を、その時代の言語水準のうちでもちこたえている作品――詩作品――は、会話をふくみ、説明の描写をふくみ、筋書きの展開をふくむことがさけられない作品――散文作品――よりも、先験的に価値があるということ」になりがちだが、そのことに、吉本がどこか飽き足らないものを感じているということなのか。 
 あるいは、言語表出の価値のおおきさは、もちろんそのまま言語芸術としての文学作品の価値のおおきさではない」と吉本自身が語っている以上、「文学作品を言語芸術としての価値としてあつかうために、何か他のものが必要であり、そのために、「構成とはなにか」を考えるということなのなのかもしれない。
 この点の理解に役立つと思われる一文がある。

「詩の発生の時代では、まずはじめに言語の構成は、人間と人間との地上的な関係が融けあったすがたを象徴したが、物語が文学として成立したとき構成そのものの基底は、ある<仮構>線にまで上昇した」
「詩は共通感をもとにして、わたしたちにちかづく。だが、物語は同伴感をもってわたしたちをつれてゆく。物語としての言語はまずひとをひきつれてゆくための<仮構>をつくり、それをとおって本質へゆこうとする」(p.82)

 吉本は、I・A・リチャーズの『文学批評の原理』での主張を敢えて要約している。
「芸術をつくるということは、人間の心のなかにあって混沌とした無秩序のままのものを、秩序化することだ。そしてこれは人間の活動や反応を体制化することと対応しているということになる」(p.302)
「ここから価値のある芸術作品は、人間のさまざまな活動をいちばんひろくつつみこみ、精神の体制化にどうしてもつきまとってくる犠牲とか葛藤とか制限とかを、いちばんすくなくなるようにして秩序化をなし遂げている作品だといわれている」(p.302)

 文学の価値について述べると、どうしても陳腐になりがちなのだ。
 吉本自身による文学の価値の定義は、「自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開」(p.304)ということになる。
 この際、「自己表出」などの用語を正確に理解する必要があるが、小生には、結局、理解できなかった。幾度も吉本が説明を試みているにも関わらず。

 小生が素朴な気持ちとして吉本の凄いと感心するところは体系化への意思である。決して印象批評にも感覚的直感的な理解で糊塗することも潔しとしないのだ。丈夫そうな歯と強い意志とで課題を断固として噛み砕いてしまおうとする(そういう印象を受ける)。
 文学の価値などについて、陳腐に陥りやすい危険を顧みず、敢えて体系的に理解し尽くそうとする、その無謀さ(無謀だと感じるのは、平凡なる小生の決め付けである)に気迫を感じてしまうのだ。
 どんな精緻な理論を駆使してみたって文学の価値についてかたりえるはずがないじゃないかという諦めが、まず最初にありきなのが、常識というものなのだ。
 が、吉本は真正面から課題に立ち向かうのである。
 吉本隆明については以下のサイトがまず浮かぶ:
 http://shomon.net/


                              (02/06/16)

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