神野清一著『卑賤観の系譜』
「神野清一著『卑賤観の系譜』:卑賤観の系譜…」
H さん、こんにちは。コメントをありがとう。
差別という言葉について、つまり従前は「差別=区別」であり、中国より由来した差別に特に、区別と異なる色合いは帯びていなかったものが、日本の近代、特に昭和以降において意味的変化をどうやら遂げてきたらしいという視点は、ちょっと虚を突かれたようで、興味深い指摘でした。
考えてみれば「差別」の歴史にも、有史で見るだけでも相当な時間的堆積があるわけです。
ふと、5年ほど前に読んだ神野清一氏著の『卑賤観の系譜』(吉川弘文館刊)のことを思い出しました。
本書を読んで、「今も弱者や少数民を実質上排除している現代日本社会の縮図」としての「いじめ」という視点を学んだものでした。
古代の何処かの時点で「天皇」という特殊な身分上の焦点が作られたと同時に、その対極としての蔑視されるべき卑賤なる身分をも相関する形で生れざるを得なかったわけです。
残りの大多数は、後の世で言う「平民」なわけですね。その平民の枠から食み出て、卑俗な民へと突き落とされないよう、大多数の「平民」は高貴なるお方を大事にし、卑賤なる少数の民を虐げ軽蔑するという構造が成立してしまったわけです。
これは天皇制の問題でしょうけど、その矮小化された差別の構造というのは、どんな社会、どんな集団においても、あたかもそれが自然発生的であるかのように、必ずのように生じてしまうのは、日本における人間社会だけの問題なのでしょうか。
それとももっと普遍性を帯びた次元にまで抽象度の高まる問題なのでしょうか。
もしかしたら、そうした捻れた陰鬱な構造が、民族に倒錯した自尊心とか、多民族に対する根拠なき優越感を齎せているのかもしれませんね。イスラエル(ユダヤ人)の選民思想の強靭なまでの存在感を思ったりもします。
余談ですが、「遺伝子情報の取り扱いについて~差別と区別の違いを考える 」というサイトを発見しました:
http://www1.plala.or.jp/MUSASHI/jiyu/sabetsu.htm
このサイトでは、遺伝子情報と生保との関係という視点から「差別と区別」を考えているようですし、あくまで小生としては問題提起として上記のサイトを示したつもりなのですが、いずれにしろ、問題の奥行きの深さを改めて感じずにはいられませんでした。
あ、ところで、小生のパソコンですと「ぶらく」と入力したらすんなり「部落」と変換されました。小生の所有するパソコンは、結構、ナイーブなパソコンだということなのでしょうか。
では、また。
(02/04/24)
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