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2004/11/30

徳永進著『隔離』

「徳永進著『隔離』を読んで」


 数日前に本書(岩波現代文庫)を読み終えた。通常なら読後感は、読了してすぐに書くのだが、どうにも頭の整理がつかなくて、本を片付けることも出来ず、今も困っている。
 本書を単に紹介するだけなら簡単である。副題に「故郷を追われたハンセン病者たち」とある。1982年に『隔離―らいを病んだ故郷の人たち』の題で刊行されているので、文庫に入る以前に既に読まれた方も多いだろう。
 副題にある通り、医者である徳永進氏が、彼の故郷である鳥取から国による強制隔離政策の犠牲になった40人ものらい病者たちへのインタビューを行われた。
 本書ではハンセン病(患者)とは表記せず、あくまで古来より使われたらい病、らい者という表記を敢えて徳永氏は使っておられる。副題の「故郷を追われたハンセン病者たち」というのは、出版社側が付けたものだろう(著者は、その表記を了解されているのだろうか?)。
 本書(岩波文庫版)は、昨年の9月に刊行されている。つまり、昨年7月、和解勧告を国が受け入れることで、ハンセン病訴訟全面解決へ向かった流れに乗っての刊行なのかと推測したくなる。まさに時宜を得た再出版ということだろう。
 ちなみにハンセン病訴訟については、療養所への入所歴のないハンセン病元患者と、入所者の遺族の起こした訴訟が、国側が裁判所の和解勧告を受け入れたことで、ほぼ全面解決を見たことになる(本年1月28日)。
 ほぼ、としたのは、今も圧倒的多数の患者は故郷から拒絶されたままだったり、あるいは患者の側が施設から出ることを望まない状況にあるからである。
 ライ病というのは、それこそ聖書にも記載されるほどに古い病気で、恐れられた病でもある。日本では時に天刑病と呼ばれたこともあった。
 死に至る病は無数にある。戦後にしても結核に倒れた人は多い。否、らいよりはるかに伝染性も高く、罹患したなら死亡に至る確率の高い病気も少なくない。
 らいは一時、遺伝病と思われたことがあったが、その前は、人から伝染されるものだと思われていた。しかし、経験的な知識として感染力は弱く、症状の悪化の速度も遅い。まして死病というには、あまりに緩慢な症状の進行で、本来は恐れるより、養生第一に考えれば済むほどの病と考えることも可能だったはずだ。
 それが、何故、業病として時に天刑病と呼ばれるような、強烈な偏見と恐怖を持って患者たちが差別され虐待され、仕舞いには国による隔離政策が実施されるようになったのか。
 隔離政策が実施されるには医師らの研究成果とその主張が認められたからであろう。
 むしろ、ここでは、医者等の判断より、そうした研究の結果として隔離政策がすんなり受け入れられ遂行された背景事情を見ておきたい。
 しかし、実のところ、背景事情といっても、あまり深く考える必要もないことが悲しい。
 このらいという病は、まさに病の特性である症状にある。世間は、人は病の結果を恐れたのだ。肺炎も結核も多くの死病も恐れるが、しかし、患者を差別したり偏見の目で見ることは、ちょっと考えられない。そうした病気に掛かる人をも、己の悪い業の故なのだと喧伝する性質(たち)の悪い宗教も中にはあるが、むしろ例外と言っていいだろう。
 が、ライとなると事情は別である。
 日本に限っても、多くの伝統ある巨大宗教団体が率先してらい患者に対する偏見を助長する役目を担ってきた。小生の郷里は浄土真宗王国だが、こうした動きに関しては例外ではない。
 らい、この病に罹った人間は宗教的業罰を受けているのだと言うのだ。
 しかし、もし仮に受け負っているものがあるとしたら、宗教的苦悩であろう。つまりは、らいに関しては、宗教的であるのは、宗教的苦悩に呻吟するのは患者たちであって、そうした患者を世間から追放する宗教側は、偏見と差別の上にあぐらをかいていたわけだ。
 つくづく、宗教と言うのは、大多数の者のためのもの、政治の都合に乗りやすいもの、常識人のためのものだと痛感させられる。決して偏見に自らが立ち向かう覚悟など持とうとしないのだ。
 昨年の劇的な和解が成って初めて、自分たちは間違っていましたと反省する始末だ。それだったら、ボンクラな小生だってできる。勇気のない小生だって、和解に喝采を送ることができる。時流に乗るようなもの、勝ち馬に乗るようなものなのだから。
 そうではなく、世間の常識がどうであろうと、偏見に立ち向かい差別に抗しようと思うからこそ、宗教人と呼べるはずなのだ。
 そしてそうした勇気がないから小生は宗教人にはならないのである。
 
 思えば、らいというのは、それほど偏見と差別に見舞われやすいということだろう。外貌の崩れていく恐怖というのは、人間の多くの人が持つ根底的な恐怖なのではないか。何が怖いといって、外見的に人と違う容貌に変容していくことだ。
 髪が抜け、瘤が出来、目が見えなくなり、足が腐ったとかで医者が半ば強制的に切ってしまう。その結果、足がなくなってしまう。顔が変形し、膿が出て止まらず…、と記述していったらキリがない。
 しかも、そうしたらい者自身が直接に追う苦しみだけではなく、らい者への家族や親族や地元の人々の仕打ち。官憲もお坊さんもお医者さんも、世間からライ患者を追放しようとする。追放するだけではなく、関わり自体を否定する。
 否定するというより関わりの存在自体をないものと考える。親でもなければ子でもない、夫でもなければ妻でもない、姉妹(兄弟)でもないし、そもそも存在していなかったとされる。

 さて、しかし、自分がそうした立場になったら。それは弱い自分のことだから、流されるままに施設に追いやられていくのだろう。施設に入れば、入った当初は悲しく切なくても、少なくとも仲間はいるし、外貌を隠して世間に背を向けられて暮らす心配もいらないのだし。
 でも、ところで、自分の親や、あるいは兄弟(姉妹)や子どもがらいに罹ったら?
 隔離政策の中で、自分は一体、どんな振る舞いに及んだことだろう。
 実を言うと、こっちのほうが怖い。下手したら、自分は率先して官憲や当局に、これこれという人物は怪しいです、などと訴えてしまうのではなかったか。少なくとも、地域から排除される人間を助けるような動きは決してできなかったことだろう。
 そんな勇気が自分にあるわけもない。
 
 ところで、本書を読んで感じたことは、案外に家族の絆は脆いことである。一旦、縁が切れると後は知らん顔というだけではなく、実際に存在を忘れてしまうことも往々としてあることだ。事情は双方にあっても、世間に止まれる方も結婚したりするし、施設に入ったほうも施設の中の人と結婚したりする。
 遠くの親戚(家族)より近くの他人こそが大事ということ。
 ただ、それでも、故郷への思いだけは消えない。家族とは縁も心の絆も切れていても、故郷への思いだけは、沸沸と湧き上がる。
 故郷の土、山、緑、青空、川、田圃…。
 故郷への思い。自分が生まれ育った地へのこだわり。それだけが心の救いであり、いつの日かの還るべき場所というのは、悲しい。
 でも、そうした真実を知るだけでも、本書を読んだ甲斐があったということだろうか。
 

                                 (02/08/19)

[ショックだった。本書の入手のため、書店にリンクさせようとしたら、「この商品はご注文いただけません」となっている。僅か二年前の本なのに。
 なので、せめて「このハンセン病について書かれている本を紹介したいと思」う。
 なお、ハンセン病の現在進行形の現実を見ておいてもいいのではないか。]

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2004/11/28

池波正太郎著『銀座日記』

「池波正太郎の『銀座日記』を読了」


 作家とはいえ、これまで彼の小説を一冊も読んだことがないのに、彼の日記を全く退屈せずに読めたのは、不思議。
 美味いものを食べ、映画(大抵は試写)や芝居を見、買い物も自分で済まし、体の具合を常に気遣い、そして小説を書く。
 彼は、小説を依頼され、いざ、書くに当たっても、小説の成り行きを予め考えたりしない。とにかく、最初の場面を書き始めて見る。やがて、人物設定とかが形を為してくる。すると、その先も書けそうだ、という気分になるのだそうだ。
 凡そ、ストーリーを考え出す才能の欠片もない小生は、彼らのような面白い小説を書ける人が凄いと、ただ、感服する。
 この日記もそうだが、読む人を気持ちよくさせてくれるのだ。文庫本で5百頁の本で、楽しんで読めるので、もっと、ゆっくり読み進めるつもりでいたけど、最後は土曜日の夜半から夜明けにかけて、一気に読んでしまった。
 読了して惜しい気がしたり、寂しい気がしたり。
 でも、やっぱり小説を読まないと、ホントの池波正太郎さんは語れないんだろうね。
 小生が池波正太郎の時代小説を未読なのは、やはりテレビの影響だろうと感じている。といっても、時代劇を見て、小説を読む気が萎えたというのではなく、あまりに鬼平犯科帳や剣客商売、雲霧仁左衛門、梅安etc.を見て、池波正太郎の世界を堪能したという気になってしまったからである。
 それでいて、藤沢周平の小説は、テレビで見たが、実際に買っているのだから、辻褄は合っていない(『溟い海』なんて、最高!)。
 もしかしたら、テレビで池波正太郎原作の時代劇を見たとき、ドラマの中に必ず入る洒落た、小粋な食の世界に、未だ幾分の反発心めいた気持ちがあったのかもしれない。
 美味しいものを食べることは好きなくせに、何処か禁欲的な心の働きがあって、池波正太郎の世界に素直に浸ることができなかった…ような気がするのだ。
 ま、理由はともかく、小生の郷里である富山とも縁の深い(池波さんの先祖は富山の井波町の方だった)池波正太郎さんの時代小説の世界は、これからの楽しみに残してあるのだと考えておくことにする。

『池波正太郎の銀座日記〔全〕』 池波正太郎著 新潮文庫
 参考:いなみ正太郎グルメの会

                            (02/08/04)
[その後、今年の夏になって、相当程度、読むことが出来た。嬉しい限りである。その代わり、一昨年にはあった「いなみ正太郎グルメの会」の存廃がどうなったのか、不明なのが悲しい。]

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加國尚志著『自然の現象学』

「加國尚志著『自然の現象学』」


 加國尚志著の『自然の現象学』(晃洋書房刊)を読了した。基本的に「自然(西欧において、ロゴスと対比されるところのピュシス)の概念」をキーワードにしたメルロ=ポンティ論の書である。
 本書で、メルロ=ポンティの第一作である『行動の構造』と、ポンティの最後期の頃の講義録『自然』に焦点を合わせて、ポンティの自然の哲学を抉り出そうとしている。
 小生自身は、そんなにメルロ=ポンティに傾倒した人間ではないけれど、ポンティは肉体や自然や芸術などへの関心が深く、独自の哲学的探求を行った哲学者だったことから、小生にとって彼はずっと気になる存在でありつづけてきた。
 本書から二箇所だけ、メルロ=ポンティの言葉を再引用しておこう。いずれも、彼の講義録『自然』からの引用である:

  <世界の肉>、それは世界に内属するわれわれの身体の比喩
  などではない。逆のことを言うこともできよう。われわれの身体も
  やはり世界と同じ感覚的な生地でできているのである。それは
  自然主義でも、人間学でもない。人間たちと時間、空間は同じ
  マグマでできているのだ。(p.233)

  まさしく<われわれにおいて語っている存在>としての哲学は、
  沈黙した経験のそれ自身による表現であり、創造である。それ
  は、同時に存在の再統合であるような創造である……存在は、
  われわれがその経験を持つためにわれわれに創造を要求する
  ものなのである。(p.234-5)

 小生は、最後の「存在は、我々がその経験を持つためにわれわれに創造を要求するものなの」だという言明に、共感する。
 同時に、西欧においては、『聖書』の影響なのか、ピュシスとロゴスとの対比や絡みがずっと問題でありつづけてきたことを感じる。
 この問題は、特にギリシャ哲学者の間で追求されてきたものだが、そのギリシャが本来有していた豊かな緑が、無計画な開発と伐採のため、ついには壊滅し、土壌が露になった頃に、多くの哲人が現れてきたことに皮肉のようなものを感じる(ミネルヴァのフクロウの喩えなのか)。
 あるいは、無慈悲なまでに容赦なく消え去る<緑の大地>という現実が厳然として彼らの前に迫っていたから、ピュシスとロゴスという対比が切実だったのだろうか。
 木田元氏が、朝日新聞での本書の書評で(本年3月24日)、「…西洋の哲学者たちの思索は、最後には<自然の問題>にゆきつくようだ。西洋哲学がその端緒で<自然からの離反>という原罪を犯したせいだろうか」と書いている。
 そのことの背景に、彼らの豊かな緑の大地へ犯した罪の結果(=荒地化)があったことを銘記しておくべきだろうと思う。
 さて、しかし、では、東洋は自然から<離反>しなかったというのだろうか。
 話を日本に限るとして、なるほど古来より日本の文学の世界などで自然が謳われて来たし、寺や神社などでも、必ずといっていいほど庭園や森が周囲に配されたりしている。あるいは鬱蒼たる林の中に潜むように、寄り添うように古
寺が佇んでいる。
 だが、これは日本の湿気の凄さという風土性があることを忘れてはならないだろう。どんなに木々を切り払って土壌を露にしても、雨が降り、苔が蔓延り、草木がやがて生い茂るのだ。
 つまり、日本人は古来より自然を大事にして来たというより、どんなに自然を痛めつけても、勝手に黴が生え苔生し、緑に覆われてくる風土に恵まれていたに過ぎないのだ。
 あの屋久杉で有名な屋久島だって、江戸時代には島津氏による大掛かりな屋久杉の伐採があったという。江戸時代だけではない、高度成長を謳歌していた昭和四十年代でも、屋久杉は盛んに伐採され、森林面積が激減したのだ
 それでも、世界でも有数な多雨の故に、今日でも世界遺産に指定されるほどに、木々が生き残ることができたのだ。それは単に人々の努力の結果ではなく(当然、一部の識者、先覚者の努力の賜物でもあるが、それ以上に)、土壌の力であり風土の力なのである。
 その上で、平安時代において、世界で圧倒的なレベルに達する日記文学などが生み出された。
 それらの作品は、十分に日本的なロゴスの成果といっていいのではないか。
 決して日本であっても、自然からの離反がなかったわけではないのだ。ただ、(湿気や雨などのゆえに自然が部屋の中にまで忍び込む風土的現実があっただけなのである。それを後世になって、昔の日本人は自然を大切にしただなどと勝手な世迷言を述べているに過ぎないのである。
 ここで、必要なことは、ロゴス(言語)とピュシス(自然)という形で対比される西洋と、自然(花鳥風月)と言葉(またしても花鳥風月)で対比する日本との、もっと違った視点での細密な分析なのだろう。
 つまり、ロゴスとピュシスの対比は、西洋だけの問題ではなく、日本においても形を変えて問題とされるべきだということだ。
 実は、この点の無自覚さが、せっかくの豊かな森林や河川や海辺などの遺産を十分に生かしきれない結果をもたらしている原因だと思われる。
 からっとした論理性のあるロゴスと、厳しい現実としてのピュシスという西洋。一方、ジトッとした苔と黴っぽい自然と情緒性に傾斜しすぎるロゴスという日本。でも、構図そのものは共通しているよう思われるのである。

                               (02/07/27)

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宮本輝著『泥の河・蛍川』

「宮本輝著『泥の河・蛍川』雑感」


 中に収められている「蛍川」を読みたくて、この新潮文庫を買った。
 恐らくは小説読みとしては邪道な動機からである。この小説は小生の郷里である富山が舞台なのである。そんなことを聞いたことがあったような気がするが、身近に小説好きな人間はいないので、話題になりようもないままに今日に至った。
 もし、ホームページを開設するようなことがないと、ずっと読まないままに終わったかもしれない。そう思うと、実に不思議な気がする。
 実は、ホームページを開設する際、何を売り物にするか、どんな特色のサイトにするべきか、何もアイデアが浮かばなかったのである。想を練っているうちに、ああ、なんて自分は何も特筆すべきもののない人間なんだろう。いかにこれまで何もしないで、平平凡凡と生きてきたんだろうと、つくづく思ったものだ。
 それでも、敢えてホームページを作りたいという欲求は抑えがたいものがあったのだ。
 そうして苦し紛れに考えついたことは、小生は富山生まれ(で今は東京暮らし)なのだから、富山をキーワードの一つにするということだった。あとは、オートバイ歴が四半世紀以上なので、オートバイ(スクーター)に関する情報や思い出。
 仕事がタクシー運転手なので、タクシー関連の情報や仕事上の感懐なども入れる。
 あとは、自分の過去の入院体験を少々。 
 大学は行ったが、素通りに近く、従って学問の欠片もない。
 それらに付け加えるに、読書(と執筆)が好きなので、読書や書籍関連の情報や感想文を加味するか、となった。
 結構、雑多である。が、何も他にないのだから、仕方ない。
 
 さて、富山関連の情報ということで、メルマガもホムペをベースにして配信する中で、あちこちのサイトを覗いたり、富山の関係者に情報を募ったりした。
 その中で、富山出身の小説家や、富山を舞台にした小説(随筆・研究)に関心を持ち出したのである。下記のサイトの「小説など」の項を参照のこと:
 http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/toyama/si.html
[残念ながら、上記のサイトは、「ページが見つかりません」となっている。なので、代わりに、下記サイトを紹介しておく(04/11/28 追記):
富山県文芸地図 富山・婦負地区編」]
 その中に、宮本輝の名前が見出される。しかも蛍(川)とある。
 実は、小生も富山に生まれ十八歳までは富山の農村で育った人間として、幼い頃には蛍狩りの思い出もないわけではない。が、農薬の影響なのか、次第にその姿を見かけることがなくなって、関心も薄れていったのだ。コオロギやバッタやカブトムシなども夏休みには虫篭と採集の網を手に、近所の林などを探して回ったものだった。
 それが、数年前、親戚の集まりがあり、その雑談の中で姪が不意に、「私の里じゃ、蛍が凄いのよ、もう、ワンワンするほどいるの。六月とかだと、見れる…」と語ったのである。
 小生には意外だった。確かに、小生の暮らした農村は、とっくに都会化され農地は工場やマンション、新築の家々に挟まれて窮屈そうに残っているだけである。なんといっても、富山駅から歩いて十五分ほどの距離にあるのだ。田圃が次々に宅地化されるのも、無理はないのだ。
 しかし、姉の嫁いでいった先は、まだ郊外に在り、道路沿いに住宅街が散在しているという風で、田圃や畑のほうが圧倒的なのである。近年はさすがに農薬も使用が控えられても来ている。
 だから、蛍(などの昆虫やタニシやヒルなど)が復活しても不思議はないのである。
 が、それを姪の口から告げられると、急に実感を持って蛍狩りをした昔の思い出が蘇るし、ああ、もう一度、自分の目で見てみたいと強く思われてしまったのである。
 そうしたことが重なり、宮本輝の「蛍川」への関心が強まったのだ。
 しかし、さらに彼の小説への関心を強める動機が自分にはある。
 それは、自分も富山を舞台に小説を書いたことがあったからである。ほとんどの小説(短編)は、現に居住している東京を背景にしている。しかし、原稿用紙で500枚ほどの小説は、富山と東京を絡めた内容になっている。
 当然、東京という都会の光景も描くが、力を篭めたのは富山の風景だった。それも、小生が未だ離郷する前の富山をいとおしみつつ描いたつもりなのだ。立山連峰や富山の海、そして神通川などの河川、田園風景…。
 ところが、その小説には蛍狩りの光景は入れていなかったのだ。というより、書いている時には思いつかなかったというべきか。
 大袈裟に言えば、ちょっと盲点を突かれたような気持ち、そして惜しいことをしたなという悔しさの念で、ようやく最近になって新潮文庫版の『泥の河・蛍川』を購入したというわけである。
 どちらの作品も素晴らしいものだった。恥ずかしながら、小生は宮本輝が「蛍川」で芥川賞を受賞したことさえ、知らなかった。受賞の当時は話題になったろうに。
 もし、小生が富山に在住したままだったら、さすがに富山で話題になるだろうし、晩生(おくて)の自分も手に取ったに違いないのだが。
 宮本輝が芥川賞を受賞したのは、78年である。その年、小生は大学のある仙台から、やっとの思いで引越し代を捻り出して上京したものだ。当然、テレビもないし電話もないし、新聞もとっていない。本を買うおカネなどあるはずもない。情報の孤島にいたがゆえに気付かなかったとも考えられる。
 
 昨日から今日の昼間にかけて、『泥の河・蛍川』の両作品を一気に読み通した。上記したように素晴らしい作品だった。「泥の河」も素晴らしいが、「蛍川」も、何も昭和三十七年三月末の富山市を舞台の小説であるが故に思い入れをしたということでなく、純粋に一つの作品として珠玉の作品だと感服した。
 大方の小説読みの方には、何を今更と呆れていることだろう。小生も、何故、こんな手堅さと叙述の透明で、清冽な、まさに天性の小説家とも言うべき作家の本を今まで読み漏らしてきたのだろうと、ちょっと情ない思いがしている。
 その凝縮された透明感というのは、何処か川端康成の『雪国』の示す象徴性の域に近いような気がした。
 新潮文庫の解説をしているのは、文芸評論家の桶谷秀明氏である。彼は「蛍川」から二箇所を選んで引用している。感服する場所は、やはり同じなのかもしれない。ここでも、再引用して、一緒に観賞したい。

 一年を終えると、あたかも冬がすべてであったように思われる。土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の余韻だった。春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。
                              (引用終わり)

 北陸の冬の空は、どんよりして重い。鉛色の雲が切れて陽光が差し込むことは、めったにない長い冬。そんな中、気も波も荒い海を前にして立つと、その海の水の冷たさが一層、辛く感じられる。新雪の積もった朝など、雪掻きをしてないと、人の行き交いが困難になる。行き過ぎるどちらかが譲って、相手の通り過ぎるのを待つのである。
 それは長い冬を待つ心性にも通い合うものがある。そうした重苦しい日々の果てだからこそ、春の日々の到来は嬉しいのだ。
 そのどちらが相手に譲るかという有り触れた、だからこそ当たり前に日常的に交わす心のささやかな気配りの果てに富山の人情が練り上げられていったのである。雪の少なくなった今日では、その辺りの事情はどうなのだろうか。
 さて、引用した文中に「裏日本」という言葉が見受けられるのは、愛嬌というものだろう。富山に過ごした人間なら、その「表日本」側の傲慢さを感じつつも、敢えて見てみぬ振りをするのも、北陸人の優しさなのだ。
 長く裏日本扱いされてきたこと。それは長い冬であり、重苦しく沈鬱な鉛色の空であり、時には牙を剥く七つの河の記憶であり、いつの日かの心の芽吹きへの渇望なのである。そんな鬱屈した心情は、一年余りの少年の日の富山経験では、宮本輝も知る由もないのかもしれない。

 さて、もう一つの印象的な描写は以下のようである。

 何万何十万の蛍火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ話ではなかったのである。
 蛍の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。
                              (引用終わり)

 小生なら違う表現を試みるだろう。が、これはこれである種の象徴性を感じさせる見事な世界だ。
 最後に、もっと素直に宮本輝の小説を読んでいる方のサイトを紹介しておく。読み方にあたたかさを感じる:
図書委員のおすすめ読書日記

                                   (02/06/29)

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2004/11/27

吉本隆明著『言語にとって美とはなにか Ⅱ』

吉本隆明著『言語にとって美とはなにか Ⅱ』


 これは印象による感想に過ぎないことを最初に断っておく。
 それはまず、自分が吉本隆明のいい読者ではないこと。少なくとも読んだ本は、ごく僅かである。
 それと、何より、本書を読んでも彼の言いたいことがよく理解できないことだ。
 彼は対談などでも、持って回った言い方は決してされない方であり、むしろ問題に対して真正面から取り組もうとされる方だと実感する。
 そう、小生が吉本隆明を知ったのは、埴谷雄高との対談の相手として昭和40年代の後半に文芸や思想系の雑誌盛んに登場された時のことだった。
 当然のように彼に興味を持ち、幾つかの本に挑戦したのだが、明瞭に語っているようなのだが、しかし、小生にはまるで理解が及ばす、以来、敬遠してきたのである。
 特にこの数年、吉本隆明はドンドン、本を出しておられる(ちなみに昨年から今年だけで30冊以上!)。多くは出版社の企画であり、インタビューのテープ原稿を出版社の側の責任で原稿の形に編集され、それに吉本隆明が手を入れる(?)という形になっているようである。
 それゆえか、編集者の力量がその著作(?)の出来具合を大きく左右している。編集者によっては吉本隆明の主張が明瞭に理解できたと読者を喜ばせる結果を招来するケースもあるようだ。
 しかし、それは本当に吉本隆明の主張なのかというと、若干の疑問の余地もないわけではない。
 もしかして(これは、小生の臆断である)、吉本氏は、独特な寛容の精神の立場にあって、少々の誤解や無理解や偏見など度外視して、取りあえずは吉本隆明ワールドに読者を取り込むことを最優先にしているのではないかと思う。
 一旦、読者を虜にしたなら、その読者が吉本ワールドに深入りし、読者自身のそれまでの浅薄な理解に恥じるもよし、あるいは誤解のままに擦れ違っていくも良しと、割り切っているのではないか。
 その上で、ほんの僅かの読者でもいいから、吉本ワールドの宣伝マンになるもいい、あるいは一層深い理解を目指すのもいいと思っているのではないか。
 
 さて、しかし、本書である。
 これは、一言一句、吉本隆明が書いた、まさに著作である。彼がその骨太な骨格と繊細なる精神とでもって、「わたしは、いままで考察してきた言語や表現の概念のほかになにもつかわずに、文学作品の構成の本質にちかづきたい」として、書かれた一文だ。
 つまり、一言で言うと、「文学作品の構成が、なにを意味するかを問う」こと、「指示表出の展開、いいかえれば時代的空間の拡がりとしての構成にふれ」ることで、文学作品のもつ価値を考えるということだ。
 芭蕉と西鶴はどちらがすぐれているとはいえない。ただ、「西鶴の長編小説では、構成が作品の価値にかかわる重さが、芭蕉の短詩よりもはるかに大きい」もんだいだと、吉本は考える。
 けれど、何故、構成に拘るのか、まだ分からない。
 ただ、構成の方法の中にこそ、「時代的空間の拡がり」が見られると考えているのだろうとは、推測できる。
「表出のはりつめた励起を、その時代の言語水準のうちでもちこたえている作品――詩作品――は、会話をふくみ、説明の描写をふくみ、筋書きの展開をふくむことがさけられない作品――散文作品――よりも、先験的に価値があるということ」になりがちだが、そのことに、吉本がどこか飽き足らないものを感じているということなのか。 
 あるいは、言語表出の価値のおおきさは、もちろんそのまま言語芸術としての文学作品の価値のおおきさではない」と吉本自身が語っている以上、「文学作品を言語芸術としての価値としてあつかうために、何か他のものが必要であり、そのために、「構成とはなにか」を考えるということなのなのかもしれない。
 この点の理解に役立つと思われる一文がある。

「詩の発生の時代では、まずはじめに言語の構成は、人間と人間との地上的な関係が融けあったすがたを象徴したが、物語が文学として成立したとき構成そのものの基底は、ある<仮構>線にまで上昇した」
「詩は共通感をもとにして、わたしたちにちかづく。だが、物語は同伴感をもってわたしたちをつれてゆく。物語としての言語はまずひとをひきつれてゆくための<仮構>をつくり、それをとおって本質へゆこうとする」(p.82)

 吉本は、I・A・リチャーズの『文学批評の原理』での主張を敢えて要約している。
「芸術をつくるということは、人間の心のなかにあって混沌とした無秩序のままのものを、秩序化することだ。そしてこれは人間の活動や反応を体制化することと対応しているということになる」(p.302)
「ここから価値のある芸術作品は、人間のさまざまな活動をいちばんひろくつつみこみ、精神の体制化にどうしてもつきまとってくる犠牲とか葛藤とか制限とかを、いちばんすくなくなるようにして秩序化をなし遂げている作品だといわれている」(p.302)

 文学の価値について述べると、どうしても陳腐になりがちなのだ。
 吉本自身による文学の価値の定義は、「自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開」(p.304)ということになる。
 この際、「自己表出」などの用語を正確に理解する必要があるが、小生には、結局、理解できなかった。幾度も吉本が説明を試みているにも関わらず。

 小生が素朴な気持ちとして吉本の凄いと感心するところは体系化への意思である。決して印象批評にも感覚的直感的な理解で糊塗することも潔しとしないのだ。丈夫そうな歯と強い意志とで課題を断固として噛み砕いてしまおうとする(そういう印象を受ける)。
 文学の価値などについて、陳腐に陥りやすい危険を顧みず、敢えて体系的に理解し尽くそうとする、その無謀さ(無謀だと感じるのは、平凡なる小生の決め付けである)に気迫を感じてしまうのだ。
 どんな精緻な理論を駆使してみたって文学の価値についてかたりえるはずがないじゃないかという諦めが、まず最初にありきなのが、常識というものなのだ。
 が、吉本は真正面から課題に立ち向かうのである。
 吉本隆明については以下のサイトがまず浮かぶ:
 http://shomon.net/


                              (02/06/16)

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神野清一著『卑賤観の系譜』

「神野清一著『卑賤観の系譜』:卑賤観の系譜…」

 H さん、こんにちは。コメントをありがとう。

 差別という言葉について、つまり従前は「差別=区別」であり、中国より由来した差別に特に、区別と異なる色合いは帯びていなかったものが、日本の近代、特に昭和以降において意味的変化をどうやら遂げてきたらしいという視点は、ちょっと虚を突かれたようで、興味深い指摘でした。
 考えてみれば「差別」の歴史にも、有史で見るだけでも相当な時間的堆積があるわけです。
 ふと、5年ほど前に読んだ神野清一氏著の『卑賤観の系譜』(吉川弘文館刊)のことを思い出しました。
 本書を読んで、「今も弱者や少数民を実質上排除している現代日本社会の縮図」としての「いじめ」という視点を学んだものでした。
 古代の何処かの時点で「天皇」という特殊な身分上の焦点が作られたと同時に、その対極としての蔑視されるべき卑賤なる身分をも相関する形で生れざるを得なかったわけです。
 残りの大多数は、後の世で言う「平民」なわけですね。その平民の枠から食み出て、卑俗な民へと突き落とされないよう、大多数の「平民」は高貴なるお方を大事にし、卑賤なる少数の民を虐げ軽蔑するという構造が成立してしまったわけです。 
 これは天皇制の問題でしょうけど、その矮小化された差別の構造というのは、どんな社会、どんな集団においても、あたかもそれが自然発生的であるかのように、必ずのように生じてしまうのは、日本における人間社会だけの問題なのでしょうか。
 それとももっと普遍性を帯びた次元にまで抽象度の高まる問題なのでしょうか。
 もしかしたら、そうした捻れた陰鬱な構造が、民族に倒錯した自尊心とか、多民族に対する根拠なき優越感を齎せているのかもしれませんね。イスラエル(ユダヤ人)の選民思想の強靭なまでの存在感を思ったりもします。
 余談ですが、「遺伝子情報の取り扱いについて~差別と区別の違いを考える 」というサイトを発見しました:
 http://www1.plala.or.jp/MUSASHI/jiyu/sabetsu.htm
 このサイトでは、遺伝子情報と生保との関係という視点から「差別と区別」を考えているようですし、あくまで小生としては問題提起として上記のサイトを示したつもりなのですが、いずれにしろ、問題の奥行きの深さを改めて感じずにはいられませんでした。
 あ、ところで、小生のパソコンですと「ぶらく」と入力したらすんなり「部落」と変換されました。小生の所有するパソコンは、結構、ナイーブなパソコンだということなのでしょうか。
 では、また。


                     (02/04/24)


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トールキン『指輪物語 1』

「トールキン『指輪物語 1』を読了して」


 小生はここ数年、読書のテーマの一つとして昔話や童話が加わっている。アンデルセンもそうだが、グリム童話が面白い。過日、グリム童話を読み終えたと思っていたら、なんとその角川文庫にはⅡがあるのだと、Ⅰを読み終えて気付いた。
 昔話や童話を昔は読み浸ったはずなのに、そんな遠い自分の過去はすっかり忘れていた。
 そもそもガキの頃は読書など好きではなかった。まず、誘いがあれば外で鬼ごっこや草野球をして遊ぶのに忙しかったし、10歳を前にして我が家にやってきたテレビには、一気にその魅力の虜になってしまったし、何と言っても自宅では漫画の本にどっぷりと浸かっていたのだ。
 小学校の高学年だったか、豪華本のアンデルセン童話をクリスマスか誕生日かのお祝いに貰った時、顔では喜ぶ表情を何とか作っていたが、内心、戸惑っていたのを覚えている。なんで、本なんてプレゼントするの? と、当惑するばかりだった。本なんかより漫画の本かお菓子か、遊びの道具のほうがよっぽど当時の小生としては喜んだはずだのに。 
 きっと(後になって思うことだが)、あまりに勉強嫌いの何事もやる気のないガキだったので、本のプレゼントを切っ掛けに、勉強を少しでもやってくれたらという親の切ない願いが篭っていたのかもしれない。
 尤も、勉強は嫌いだったが、貸し本屋さんから本は毎日のように借りていた。その大半が漫画の本であるのは言うまでもないが、それでも小学校の終わりから中学に入る頃には、SF小説ではあるが、本らしきものも借り始めてはいたのだ。
 そんな自分を見て親は単純に小生のことを本好きと誤解したのかもしれない。
 実際にはSF小説には、挿絵がたっぷり添えられていて、読み進みながらも、その挿絵の頁に辿り着くのが励みというか楽しみだったのを覚えている。中学生になって、自分で本を買うようになっても、図鑑とか天文学の写真が数多く掲載されている、つまりは当人としては漫画の延長のような感じで本を選んでいたように思われるのだ。
 そうした本嫌いの小生の前史として、昔話とか童話があるわけだ。
 但し、あまり記憶にない。お袋に童話などを読んでもらったこともない。そもそもお袋は本を全く読まないほうだったから、無理な注文だったのだ。だから昔話を膝に抱かれて読んでもらったといった、懐かしさの伴う記憶が皆無なのである。
 だとしたら、あくまで読んで面白かったかどうかだけが記憶に残るわけで、結局は、物語の世界に没入できなかったようだと推測するしかない。
 が、では、全く物語の魅力に惹き込まれかったかというと、そうでもないから、話はややっこしい。かちかち山の狸の話とか舌きりスズメの話とか、なんだか妙にリアルに感じながら読んでいた、少なくとも絵本の絵に見入っていたことは、確かに覚えているのだ。白雪姫の話やらシンデレラの話も、その中のかぼちゃの馬車の話も、それからディズニーの漫画も、真っ正直にその物語世界の中にはまり込んでいた、確かにそうだった。
 さて、年も大台に乗って、今、改めて童話や昔話を折々に読んでいる。特に冒頭で触れた『グリム童話』には、下手な文学作品より余程奥行きの深い、しかもリアルな人間像が垣間見られるようで、子供相手の文学作品とは到底思えないと感じつつ、読み進めているのである。
 そんな中、近頃、映画でも童話絡みの作品が続々ヒットしている。どうやら童話の世界に癒しなるものを求めているらしいのだ。残念なことに、小生は「千と千尋の神隠し」も「ハリーポッター」も「ネバーデンディングストーリー」も、ともかくそもそも映画を近頃、まるで見ていない。
 また、それらの活字本も目を通していない。つまりは新しい作品を全く知らないということなのだ。だからファンタジー系統の映画に癒しがあるのかどうか、小生はまるで語る資格がない。
 で、実は、このトールキンの『指輪物語』は、小生にとって、新しく作られたファンタジーノベルとしては、初めて読む本なのである。
 新しいといっても、既にこの本は原作が最初に作られてから半世紀近く経過している。日本語訳が登場してからでさえ、四半世紀になる。でも、アンデルセンやグリム童話に比べると新作だと言うだけの話である。
 肝腎の読書感想を書く遑がなくなってしまった。小生がもう少し若ければ読み進めるかもしれないが、この長い小説の第一分冊を読むだけで終りそうである。この最初の一冊は、まだ旅立ちをしようかどうかという、いわば導入部なのだ。
 だから、この時点で『指輪物語』の評価を下すことは、意味を持たないと言える。
 ただ、グリム童話ほどに今の小生を惹き付けてくれないのである。『グリム童話』は『グリム童話 Ⅱ』になると、やや教訓譚めいた作品も目立つようになるが、それでも読み手次第では意味深な物語に満ちているのである。
 つまりは小生は別に、童話や昔話に教訓めいたお話やら癒しやら、魔法が解けてメデタシメデタシという結末などを最初から求めてはいないのである。
 もっと他のもの、人間の業というと、やや話が大袈裟になるが、昔から語り伝えられてきた話の中に人間のエゴや深い願望(欲望)へのリアルな洞察といったものを求めているらしいのである。
 この辺り、機会があれば、グリム童話のどれかの話に基づいて具体的に探ってみたいと思う。
[最後にグリム童話を扱うネット上のサイトを紹介しておく:
           http://www.catnet.ne.jp/kanran/grimm.htm  ]

                  (02/03/25 記)

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柴田練三郎著『地べたから物申す』

柴田練三郎著『地べたから物申す』(シバレンなどを)


 この前、ゴミ捨て場に数十冊の本が捨てられてあった。ひもじい小生は、早速、それらの本を持って帰った。昨日から、そのうちの一冊を読み始めている。
 やはり本というのは趣味性・実用性の高いもので、なかなか読む気になれる本は、拾った本などの中には見当たらない。
 占いとか人相の本とか、人生訓とか、偉い坊さんの講話とか、語学の本とか、漫画で読む歴史だとか、長谷川慶太郎のバブルを煽る本とか、ちょっと自腹を切る場合には、決して手を出さない類いの本がほとんどなのだ。 
 でも、皆無というわけではない。車の中の徒然に読むには、まあ、なんとかという本もあった。その一冊が、柴田練三郎著『地べたから物申す』(集英社文庫刊)である。奥付けを見ると、95年11月とある。刊行されたのは、割と新しい。但し、当然、故人の本で、書かれたのは70年前後。
 でも、天下のシバレンこと、柴田錬三郎である。あの、「眠狂四郎」の作者である。あの、むっつりした顔で、ニヒルを装った顔で、生前は結構、人気があったのだ。
 しかも、小生は映画「眠狂四郎」が好きだった。市川雷蔵が演じる眠狂四郎には、ガキの小生ながらも痺れるものがあった。
 はっきりとは覚えていないのだが、この「眠狂四郎」の映画(か、それともジェームス・ボンドの「007」、あるいは勝新太郎の「座頭市」だったかな)を小父さんに連れられて映画館で見て、純情なる子供には刺激が強かったのか、初めての夢精を当夜か、翌朝、経験することになったのだ。
 若死にした市川雷蔵は、日本の俳優でほとんど唯一といっていい、小生の好きな俳優である。なんだか、「眠狂四郎」を久しぶりに見たくなったな。なんで、昔の映画っていいんだろう。それとも、小生の感受性は、当時は瑞々しかったってこと(初々しかったってことかも)?
 うーん、たまにはゴミ捨て場で拾う本を読むのもいいもんだ。癖になりそう。
(02/01/30)

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