旧稿を温めます

2008/05/10

黒の河

 俺は無性に腹が立っていた。お袋のこと、仕事のこと、あいつのこと、親父のこと。そして自分のこと。
 お袋は何だってあんなに年老いてしまったんだろう。この数年でびっくりするほどに痩せ衰えてしまった。
 でも、親父にすれば昨日の今日で、別段、お袋が急に老いたわけじゃないという。
 そうか、久しぶりに帰郷した俺が迂闊だったんだ。
 余計な心配も掛けたし、俺のせいで老けたんだと思うのは、俺の思い過ごし、時の流れが俺たちをも確実に何処へともしれない彼方へ押しやっていくだけのことなのだ。
 道楽息子の御帰還を喜ばせようと、不意を襲ったのがいけなかったのだ。庭先で立ち木鋏を持ったまま、唖然と立ち尽くす親父の目。

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2008/03/05

煙草に火を点けて

 街がやたらと変化していく。
 ほんのしばらく足を向けないだけで、気が付くと嘗てはあったはずの木造二階建てのアパートや古びた工場が消え去って、更地か駐車場になっている。

 俺は某町の一角にあったアパートを見るのが好きだった。
 何十年という歳月を感じさせる朽ちかけた木の塀や壁。きっと開け閉てするとギーという音がするだろうし、びったり閉まることはないだろうという窓。
 雨が降ったら、紙の家のように水が染み込み、そう、きっと廊下とか誰かの部屋のベニヤ板の天井には雨漏りの染みの痕が生々しいに違いない。
 モルタルの壁の透き間にはウレタンのテープなどが巡らせてあるに違いない。触るとポロポロ剥げ落ちる壁には、麻田奈美のポスターなどが貼ってあったりして。
(奈美の奴、あの顔で、凄い胸だった。)
 今度、強い風が吹いたら倒壊するに違いない。

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2008/02/27

放火魔

 真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。
 看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。

 静まり返った病室での楽しみは、こっそり蝋燭に火を灯すこと。

 蝋燭の焔は、今日は真っ暗闇の中に何を浮かび上がらせてくれるだろうか。

Fire

 そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。

 誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、病室という名の、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の織りなす影は、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。

 夜の深みに直面して、何を思う?

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2008/02/17

水たまり

 久しぶりに夜の町を散歩した。
 いつだったか、いつも通りに気分よく散歩していたら、警察官に誰何され、それ以来、夜中に徘徊するのを躊躇っていた。
 でも、梅雨の束の間の晴れ間で、しかも明日からはまたしばらく空が愚図付くということなので、思い切って外出することにしたのである。
 明日は間違いなく雨模様だという予報。
 けれど、歩いてみても綿のシャツがジトッとすることはない。ゆっくり歩いている分には、汗を気にせずに歩ける。なんだか、それだけで嬉しい。

 梅雨の時期の散歩は、湿気のせいで、体に衣服がベト付き、深夜に特有の尖った刃のような闇を感じないで済む。狂気も霊気も切っ先が錆び付いてしまうのである。
 けれど、今日の空気は乾いている。それだけが俺には気にかかる。

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2008/02/10

滑り台

 あれはずっと昔のこと。もう、記憶の彼方になっている。
 でも、忘れられない。
 忘れられないけれど、一体、何があったのか、自分でも分からない。
 分からないけれど、何かがあったんだと、疼く胸がハッキリと伝えてくる。

 オレは、あの日、一人で公園の滑り台で遊んでいた。その滑り台は、今にして思うと、人研ぎ滑り台という形だったと思う。
 当時は当たり前の形だったような気がするけれど、ま、そんなことはどうでもいい。

 滑り台の上に登っては、滑る。登っては、滑り降りる。降りては、駆け上っていって、天辺からまた、勢いよく滑り降りる。
 滑り台の下のほうは、傾斜がなくなっているので、降りていっても、ちゃんとブレーキがかかるようになっている。無論、滑り降りた先には砂場がある。

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2008/02/04

明けない夜に

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。

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← ジョルジュ・バタイユ【著】『聖なる陰謀―アセファル資料集』(マリナ・ガレッティ【編】・吉田 裕・江澤 健一郎・神田 浩一・古永 真一・細貝 健 ちくま学芸文庫)

 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。

 いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っている。

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2008/01/29

ふでおろし

 我が家の伝統で、息子の筆下ろし(ふでおろし)には父と母が立ち会うことになっている。

 それは、水ぬるむ5月の初めだった。
 祭日の朝、いつもより早く、突然、母が真面目な顔をしてボクを起こしにきた。

――父の書斎に来られ。

 そこでは父が、座卓に向かい何か書き物をしている。
 父は大切な人には、わざわざ硯で墨を磨り、毛筆の手紙を書いて送るのである。手紙の隅には、顔彩で山里の風景やら田園風景やら、あるいは庭の雑草などを軽く描き添える。
 我が父ながら、なんとも息を飲む見事さだ。鼻には墨の香りがツンと来て、なんとも心地いい。

 その間、ボクは坐って待たされる。
 でも、父の手際に見惚れているから退屈はしない。いつかはボクだって父のようになりたい。母もボクの斜め後ろで父が用件を終えるのを黙って見守っている。

 日頃、カカア殿下の我が家でも、書斎では父が断固、上席なのである。口を挟ませない。この四畳半の限られた空間だけが父の天下なのだ。

 やがて、用件を片付けた父が、語り始めた。
 その表情は、いつもと違う。

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2008/01/26

真冬の明け初めの小さな旅

 正確な年限などは覚えていないけれど、小生が子供の頃、雪明りの外を歩いて回るのが好きで、よく未明の朝などにこっそり家を抜け出したものだった。
 その頃はまだ雪がタップリ降っていた。平野(田圃)の片隅に位置する我が家だったけれど、ともすると一階の窓からは降り積もる雪に視界が遮られて何も見えなかったりする。

Kenchanhida

 降る雪だけではなかった。屋根から落ちる雪、雪降ろしで堆積した雪などが積み重なって、しかも、建物に面する雪の山は凍っていて、粗目(ざらめ)のような、それでいてツルツルに磨きたてられたような、形容の難しい様相を呈していた。

 不思議なのは、視界が完全に塞がれているにも関わらず、夜になり部屋の明かりが消されると、外がボンヤリとだけれど、明るく輝いているように見えることだ。分厚い雪の堆積を透かして外部の光が漏れ込む だけど、真夜中だったり明け方だったりするのだから、外は暗いはずなのだ。

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2008/01/25

雪蛍の舞った頃

(前略)窓の雪を見ていると、何か胸が締め付けられるような、自分がここにいるべきじゃなくて、何処か他にもっと自分がいるべき場所があり、そこで誰かが俺を呼んでいる…といったような、郷愁とも違う、不思議な感傷に囚われるものである。

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 小生が未だ郷里である富山で住み暮らしていた頃は、まだ雪も毎年、たっぷり降ったものだった。だから、3月になっても、さすがに降雪の日は少ないとしても、根雪は深く固く大地を覆っていた。

 特に民家の屋根などからの雪や、道を空けるために道端などに積み上げられた雪は、3月の初めや半ばだと、当分溶けそうにないように感じられる季節だったように思う。

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2008/01/23

犬とコロッケ

 あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。
 あの頃の俺は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは俺だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。

 みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。
 単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。
 だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。

 俺には何も分からなかった。

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2007/08/22

雨の夜の夢

 俺は眠れないままに闇を見詰めていた。
 じっと眺めていると、見えないはずの闇の中にいろんなものが見えてくる。分厚いカーテンの向こうの何処か靄の掛かったような夏の終わりの夜の闇が、まるで船底の罅割れから水の洩れ入るように俺の部屋を満たしているようだった。

 内と外とを厳格に分けるために、高いカネを払っておんぼろなアパートには不似合いな遮光カーテンを下げたのに、まるで役目を果たしていない。
 漆黒の闇が次第にただの闇となり、やがては遠い記憶の海の底のブルーへと変わっていく。
 俺は海中が嫌いだ。浜辺から眺めるだけなら呑気に構えていられるけれど、海の中となると、溺れる! としか思えない。
 海水が俺の体の隅々まで浸透する。俺を何処までも膨らます。俺は脹れていく。パンパンになるまで膨張して、俺は気が付いたら、裏返しにされた肺の風船、壁に張り付く皮脂、踏み潰された猫、捨てられた硬膜、ゲロを溜めたポリ袋。

 闇の底には終わりがない。
 いつか固い岩盤に降り立つという希望など無い。加速度を増す落下。それともあの世への上昇なのか。体がグルグル回り、目が回り、眩暈がし、吐き気を催し、脳味噌はメニエル病患者の円舞。

 眠れない。
 俺は救いようの無い孤独に吐き気を覚えるばかりだった。腸がひっくり返るようだった。胸が掻き毟られる。常に研ぎ澄まされた爪で身体中を引っ掻いた。夜毎、体にビュランで刺青を入れた。気が狂いそうだった。だけど、ギリギリの土壇場になると狂気の世界から引き戻される。お前はまだ、生きなければならないと誰かが告げる。そうは簡単に気を狂わせてなるものかと、闇の中ののっぺらぼうの手が俺を引っ張り挙げる。得体の知れない鉤が俺の首を吊り下げる。俺はバカみたいに足をジタバタさせる。
 くそ!俺のこの格好を見て、みんなが嗤っているじゃないか!

 みんな? みんなって一体誰だろう。俺の周りに誰かがいたことがあったろうか。俺には誰も見えた試しがなかったじゃないか。それがこの期に及んで誰かが現れたとでもいうのか。
 不意に懐かしい音が聞こえてきた。雨だ。夏の終わりの雨だ。夜の雨だ。雨が俺の胸を叩く。俺の心を濡らす。俺はビショビショになる。周囲の全てもグッショリ、濡れている。
 ああ、そうだ、みんなって、こういうことだったのだ。

 雨。

 雨の夜は切ない。
 あの遠い日のあの人を思い出させるからなのか。でも、あの人って、一体誰だ。俺に会いたい人などいただろうか。会うためなら魂を抉り出しても、その人に会いたい…、そんな人がいたのだろうか。
 何処かに誰かがいるのだろうか。
 もしかして、この世に俺一人なんてことは、ないよな。
 ないって誰か言ってくれよ。
 俺は、俺は助けて欲しいんだ。恥も外聞もあったもんじゃない。俺は崩れちまって、形がないんだよ。だから、町で行き過ぎる人も、俺がここに居ると気づくことは無い。俺は幽霊。そこにいるのに、誰にも見えない幽霊。その存在を否定はできないけど、さりとてあるというのも、憚られる曖昧な影の影。

 雨はこの世の何者をも濡らす。この俺さえも濡らしてくれる。
 雨は、部屋の中の俺さえも濡らしてくれる。俺の目。俺の頬。俺の枕。
 雨は、この世界を歪めてくれる。世界が思いっきり形を崩して、そうして俺の心と同じほどに崩れ去ったなら、その時は、俺はやっと息衝くことができるのかもしれない。

 怯えきった心。日の光をみない目。咲かない花。
 あまりに深い夜。底の見えない夜。終わりのない目覚め。堰き止めようのないダム。塞ぎようの無い亀裂。
 何者でもない俺。あの人の影。
 夜の果ての旅を何処までも続けて、やっと俺はあの人の影を見た。この世の何処にも居ないあの人は、黄泉の原に咲き誇る黄色い花を捧げ持つ。
 あの人は、静かに歩いている。
 その先にあるのは? 奥津城。誰の?
 ああ、俺のじゃないか!
 待ってくれ。俺はこれでも生きているんだ。お前の仲間などじゃないんだ。俺はお前を愛している。けれど、俺はこの世の人間のはずなんだ。そうだろう?
 ああ、早まるんじゃない。その花を手向けたなら、俺は本当に死んでしまうんだぞ。それでもいいのか?!

 けれど、歩みを止める気配はまるでなかった。あの人の氷の彫刻のような横顔が見えるばかりだった。違う。俺は死にたいんじゃない。それどころか、死ぬのが怖くてならないんだ。俺は臆病者なんだ。俺が死ぬのが怖いのは、俺は一度も生きたことがないからなんだ。お前をあの日、拒否したのも、二人で生きることが怖かったからだ。だから、お前だけがあの世で生きる道を選んだ。

 ダメだ。もう、止まってくれ。許してくれ。臆病な俺を見逃してくれ。お願いだ。俺など、どうでもいいじゃないか。そうだろう? 

 けれど、あの人は立ち止まることはなかった。不思議なことに、あの人だけは濡れていない。部屋の中にも雨が降っていたはずなのに、あの人は秋の日の高い空の下、白いドレスの裾を翻し、墓の前に立った。そして、ついに手向けの花を墓に供えた。と同時に、俺は消え

                         (03/09/17)

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