妄想的エッセイ

2008/04/21

嗤わぬ月

 毎日ではないが、夕方から真夜中過ぎまで、そう草木も眠るという丑三つ時頃まで、富山の町を車でウロウロしつつ働いている。
 昨晩は見事な月を折々に愛でることができた。暖かな日差しに恵まれた日中は、それでも吹き渡る風がやや強かった。東京など関東や東日本では突風というのか強風が吹き荒れていた。
 その風も夜には収まっていた。

Blue03

 風が空の塵や埃や花粉の類いを綺麗に拭い去ってくれたようで、夜気が澄み渡って感じられる。
 夕方になって仕事先へ向う道すがら、夜になって雨にならないかと天蓋を眺めてみると、月影が清かである。ほぼ満月の月。今夜どころか明日も雨の心配はなさそうである。
 月が地上の世界を明るくしている。夜空を横切る筋状の雲を背後から照らし出して真っ白に、そして薄い真綿のように見せている。
 そんな透き通るように眩く輝く雲よりも月は煌々と照っている。

続きを読む "嗤わぬ月"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/05

煙草に火を点けて

 街がやたらと変化していく。
 ほんのしばらく足を向けないだけで、気が付くと嘗てはあったはずの木造二階建てのアパートや古びた工場が消え去って、更地か駐車場になっている。

 俺は某町の一角にあったアパートを見るのが好きだった。
 何十年という歳月を感じさせる朽ちかけた木の塀や壁。きっと開け閉てするとギーという音がするだろうし、びったり閉まることはないだろうという窓。
 雨が降ったら、紙の家のように水が染み込み、そう、きっと廊下とか誰かの部屋のベニヤ板の天井には雨漏りの染みの痕が生々しいに違いない。
 モルタルの壁の透き間にはウレタンのテープなどが巡らせてあるに違いない。触るとポロポロ剥げ落ちる壁には、麻田奈美のポスターなどが貼ってあったりして。
(奈美の奴、あの顔で、凄い胸だった。)
 今度、強い風が吹いたら倒壊するに違いない。

続きを読む "煙草に火を点けて"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/27

放火魔

 真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。
 看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。

 静まり返った病室での楽しみは、こっそり蝋燭に火を灯すこと。

 蝋燭の焔は、今日は真っ暗闇の中に何を浮かび上がらせてくれるだろうか。

Fire

 そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。

 誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、病室という名の、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の織りなす影は、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。

 夜の深みに直面して、何を思う?

続きを読む "放火魔"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/04

明けない夜に

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。

4480089829

← ジョルジュ・バタイユ【著】『聖なる陰謀―アセファル資料集』(マリナ・ガレッティ【編】・吉田 裕・江澤 健一郎・神田 浩一・古永 真一・細貝 健 ちくま学芸文庫)

 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。

 いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っている。

続きを読む "明けない夜に"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/11/28

「蜘蛛の糸」を裏読みする

[本稿は、「藤原作弥…香月泰男…蜘蛛の糸」から「蜘蛛の糸」関連の部分を抜粋したものです。]

『蜘蛛の糸』(くものいと)は芥川龍之介が1918年(大正7年)に雑誌「赤い鳥」に発表した子供向けの短編小説」だという。

102503

→ 芥川龍之介/著『蜘蛛の糸・杜子春』(新潮文庫 新潮社

 有名な話なので、今更ネタバレもないだろう:

 カンダタは大泥棒や人殺しと様々な悪事を行った為に地獄に落とされてしまいました。しかし、生涯で一度だけ善い事をした事がありました。それは小さな蜘蛛を助けたこと。そこでお釈迦さまは、地獄の底のカンダタを極楽への道へと案内するために、一本の蜘蛛の糸を、カンダタに下ろしました。
カンダタは蜘蛛の糸をつたって、地獄から何万里も上にある極楽へと上り始めました。ところが、糸をつたって上っている途中でカンダタはふと下を見下ろすと、数限りない罪人達が自分の上った後をつけていました。このままでは糸は重さによって切れて、落ちてしまうとカンダタは思いました。そこでカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ。」と喚きました。次の瞬間、蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がっている所から切れてしまいました。カンダタは再び地獄に落ちてしまいました。
 お釈迦さまは極楽からこの一部始終をご覧になっていました。自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が、お釈迦様には浅ましく思われたのでしょう。

 とっても、深い内容の、教訓に満ちた子供向けの話…。

 が、小生はこの話を初めて知った時、お釈迦は実に厭らしい人だと思ってしまった。童話の形に易しくされた本を読み聞かされたりした、あるいは劇(漫画)で見た際、お釈迦様は老獪な方だと感じたのだ。

続きを読む "「蜘蛛の糸」を裏読みする"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/19

誕生日に寄せて

 以下は、物語でも虚構作品でもありません。数年前、ある人の誕生日に寄せて書いた、やや感傷的なエッセイです。既に公表済み。
 ただ、エッセイと言いつつ、一読すれば分るように、薄っすらと虚構の隠し味があったりする。
 
 つい先日、ある方が誕生日を迎えられたので、遠くからの囁きめいたメッセージとして贈ろうかと思ったけど、メッセージとしては長過ぎるし、ある意味、誰彼へというより自分に向けてという気味が紛々と漂ってくるようで、ちょっと気後れして、気がついたら誕生日を数日も過ぎてしまった。

続きを読む "誕生日に寄せて"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/06/15

仮面の舞踏

 わたしが初めて化粧した時、どんな気持ちを抱いたことか。

 自分が女であることを、化粧することを通じて自覚していたような気がする。
 最初はただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたに過ぎなかった。
 その前に、祭りだったか七五三などの儀式の際に、母の手によって化粧が施された幽かな記憶があるけど、不思議な感覚にとろんとしたようだけど、でも、あの時はわたしはただのお人形さんだった。

 誰もいない隙を盗んで、母の鏡台の前に座って、鏡を眺めた。
 自分。鏡の中の自分。鏡の外の自分。手を鏡の中に突っ込んで、確かな自分を探し求めた。

 鏡を前に、薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
 そうだ、一度ならず何度もわたしはみんなのいないときに自分でない自分を作り出そうとした。
 ここにいるわたしはそれこそ、眉墨一つで他人の顔になる。冷たい、感情のない目で自分を見る。
 美しい!
 美がそこにある。
 美は幻想。

 でも、美は化粧の腕次第で醜にあっけなく成り果てる。

続きを読む "仮面の舞踏"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/05

水母・海月・クラゲ・くらげ…

 小生は海に住む動物で海月が一番好きである。どんなところが好きなのか、自分ではよく分からない。
 何だか掴み所がないし、ふわふわくねくねしているし、ただ波というか水流のままに流れているだけで、奴には意志の欠片もないように思える。そこがいいのだと思える人もいるだろうし、水槽や水族館で見ている分には刺される恐れもないし、ユーモラスな感じがあって、お気に入りだという人もいるだろう。

448400406209

← 並河 洋/楚山 勇著『クラゲガイドブック』(ティビーエスブリタニカ) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 予め、念のために断っておくと、クラゲといっても、その一生はポリプから始まっていく変遷(メタモルフォーゼ)を経てクラゲとなる。
 小生がここで扱うのはクラゲとなった段階のクラゲである。ポリプからストロビラ、そしてエフィラの段階のクラゲは、また、別の機会に譲る。

 さて、半透明のクラゲ。なんとも幻想的というのか、この世ならぬ生き物とさえ感じられたりする。ぬらぬらしているし、形が定まらないようで、それもそのはず、奴らには、骨もない代わりに、脳もないのだとか。なんたって、体の95%以上、ことによると98%が水分なのだとか。これでは、水の流れに身を任せるしかないわけだ。
(人間は時の流れに身を任せるのが理想のようだが、彼らは時のみならず水の流れに身を任せている。我々人間は彼らに生き方を見習うべきなのかもしれない?!)

続きを読む "水母・海月・クラゲ・くらげ…"

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2007/04/03

「光陰矢の如し」の周辺

 先日、またまた光陰矢の如しという諺が浮かんだ。但し、小生のことである。そんなに深い感懐に浸ってのことではない。
 念のために断っておくが、またまた…浮んだのである。たまたま…浮んだのではない!

 ま、確かに今年も既に早くも8月を迎え、この夏をなんとか乗り切ると、秋が待っている。秋が来ると、秋の日は(笑福亭)鶴瓶落とし…じゃなかった、釣瓶落とし、一気に冬が来て、債権者達が大口を開けて待つ師走がやってくる。
 つまり、今年も終わりになるのである。

 しかし何もそんなに急ぐことはないだろう。

 この歳になると確かに歳月の過ぎるのがやたらと早く感じるものだが、しかし、同時に体力の衰えもあり、年を越せるかという前に、そもそも夏を乗り切れるかどうかだって怪しいのである。
 時間の過ぎるのが早いと嘆く前に、とにかく日々を生き延びるのが先決だというわけだ。

 さて、しかし、小生、繰り返しになるが、そんな含蓄深い人生訓の類いをここで述べようと思ったわけではない。滋味ある読み応えのある文章だという自信があったら、エッセイの部屋に書く!

 実は、光陰矢の如しという諺を聞くと、前々から、すぐに碌でもない駄洒落が浮かんでならないのである。言うまでもない。そろそろ吐き出しておかないと、憤懣が溜まりすぎ、欲求不満のあまり、脳味噌が腐ってしまいそうな気配さえ、漂ってきたのだ。
 そう、小生が連想してならない駄洒落の数々とは、光陰が荒淫に繋がり、荒淫やりすぎの如しとか、荒淫サルの如しとか、まあ、そんな類いである。

続きを読む "「光陰矢の如し」の周辺"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/02/17

ヒトはいかにして人となったか

 別窓では、やや妄想の気味のある<学説>が繰り広げられます。
 間違っても、由緒ある説として引用などされないように!

続きを読む "ヒトはいかにして人となったか"

| | コメント (0) | トラックバック (0)