創作:紀行

2008/10/01

伊香保へいかほ

[ 本稿は「03/06/05」付のメルマガにて公表したレポート(?)。一昨日アップした拙稿「「千木のこと」「竹樋・懸樋」追記」にて、小生が泊った「伊香保温泉 千明仁泉亭」のことを話題にしたので、ブログに載せることにした。リンク以外、本文は公表当時のまま。…が、肝心の温泉に着いてからの記事が書かれていないままだと今日、気づいた! (08/10/01 記)]

伊香保へいかほ
 この数年、友人達と会うというと、その場所は温泉となっている。やはり、年のせいなのだろうか。日本人の遺伝子に刻まれた温泉嗜好が熱を帯びてきたというべきなのだろうか。

 ただ、小生自身は温泉が好きとか嫌いとかではなく、ただただ怠け者というか腰が重くて、誘われない限りは、温泉に限らず、何処へも出かけない。温泉どころか近所の銭湯にさえ、足が向かない。困ったものだ。

 何処かへ出かけるくらいなら、自室でロッキングチェアーに腰を埋めて、気の向くままに読書したり居眠りしたりしているだけで、なんとなく時間が経っていく。満足してるわけではないが、それほど不満というわけでもない。こうして緩慢に老化していくのかな、これでは拙いと、ふと思うこともないではないが、だからといって何をどうするわけでもない。ほんの瞬間、チクッという痛みらしきものを覚えるのだが、それも眠気や怠惰や不快に至らない程度の気鬱などの中に紛れていく。

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2008/01/26

真冬の明け初めの小さな旅

 正確な年限などは覚えていないけれど、小生が子供の頃、雪明りの外を歩いて回るのが好きで、よく未明の朝などにこっそり家を抜け出したものだった。
 その頃はまだ雪がタップリ降っていた。平野(田圃)の片隅に位置する我が家だったけれど、ともすると一階の窓からは降り積もる雪に視界が遮られて何も見えなかったりする。

Kenchanhida

 降る雪だけではなかった。屋根から落ちる雪、雪降ろしで堆積した雪などが積み重なって、しかも、建物に面する雪の山は凍っていて、粗目(ざらめ)のような、それでいてツルツルに磨きたてられたような、形容の難しい様相を呈していた。

 不思議なのは、視界が完全に塞がれているにも関わらず、夜になり部屋の明かりが消されると、外がボンヤリとだけれど、明るく輝いているように見えることだ。分厚い雪の堆積を透かして外部の光が漏れ込む だけど、真夜中だったり明け方だったりするのだから、外は暗いはずなのだ。

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2007/12/30

蝋燭の命

 一本の蝋燭の焔に照らされ浮かび上がるものとは一体、何なのだろう。

 何かの雑誌を読んでいたら、こんな一文に出会った。

「闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめないことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるいは望ましいと思う焔の形を演出しようとする。」

 だからだろうか、ある女性のことが思われてしまった。その人は絵を描くのが好き。しかも、深い闇の中で初めて画布に向う気になれるという不思議な人である。深い闇。決して薄明の中で目を懸命に凝らして、ボンヤリと浮かぶ何かを見詰めて、そうして描いているわけではない。

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→ ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour) 『悔い改めるマグダラのマリア』 (ナショナル・ギャラリー (ワシントン)) (画像は、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール - Wikipedia」より)

 彼女は真っ暗闇の中で何かを描いているのだ。
 そう、彼女は盲目なのだ。何も見えないのである。灯りがあろうがなかろうが、最初から関係ないのだ。彼女の傍には誰が置いたのか、一本の蝋燭がある。その蝋燭の焔が彼女の孤独な姿を浮き彫りにしている。
 一体、彼女にとって蝋燭など、まして蝋燭の焔など何の意味があるだろう。気休め? それとも、孤独な闇の底特有の寒さを、その蝋燭の焔の放つ熱でほんの少しでも凌ごうとしている?

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2007/10/30

自明性の喪失

[以下は、小生の手になる書評エッセイ(からの抜粋)である。途中からはもうまるで書評でもなければ感想文でもなく、無手勝流の想像が闇の時空を舞い狂っている!]

 が、小生は、そんな用語などすっ飛ばして、もっと直感的に、さらに言えば、共感を以って『自明性の喪失』を読んでいた。否、その中の患者の症例に身につまされるものを実感していたのだ。
 観念連合の弛緩といい、現実との生ける接触の喪失といい、あるいは自明性の喪失という曖昧な、しかし他に表現の方法のないある心の事態。

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 現代においては、精神医学が発達して、かなりの精神的な病が投薬などで治療ないし対処されることが多いらしい。また、精神的な疾患などというものは、所詮は脳の先天的な異常か、いずれにしろ脳内の不具合に帰着するに違いないと見なされている。
 癲癇にしろ、病には違いないのだろうし、その発作がなんらかの肉体的異常(それがたまたま脳内の部位に局在しているだけのこと)の精神的な発露・爆発なのだろうと言われれば、それはそうなのだろうと、一応は認めるしかない。

 ここで気になるのは、肉体的異常の結果、では、その人がどのように振る舞うか、あるいは場合によっては精神的所産を為すのかどうかは、全く理論的には整合的に説明できないだろうという点である。

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2005/11/08

誰もいない森の音

 そのつもりはないのだが、仕事柄もあり、望まなくとも徹夜してしまう。夜を起き通すのが珍しくない生活を送っている。 連休で在宅していても、日中、疲れを取るために寝込むため、その余波で夜中になっても眠気がやって来ず、それどころ逆に目が冴えてしまったりする。
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← 11月初め、羽田空港からの帰り、某休憩所にて。小さく、でも目には眩く一番星が…。 

 仕事では、どこで夜を迎えるか、分からない。夕刻の淡い暮色がやがて宵闇となり、さらに深まって、真夜中を迎える場所が都会の喧騒を離れる場所だったりすると、耳にツーンと来るような静けさを経験したりする。
 が、仕事中は方々を移動するので、時間的な変化と場所の変化とが混じり合って、時の経過につれての夜の様相の変化の印象を掴み取るのは、さすがに少し難しい。
 それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。 夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
 理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくるからに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。

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