小説(タクシーもの)

2007/10/06

闇に浮ぶ赤い花

 何年か前の秋口のこと、タクシー稼業で<経験>したちょっと怖かった話をする。
 但し、一瞬、錯覚したというだけの話である。

 日付はとっくに変わっていた。
 何処かの出口で高速道路を降り、市街地を走っていた。
 高速道を走っていた間は姿を見せていた月影も街道を走り始めた頃には隠れてしまった。

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→ 月影が雲間に次第に呑み込まれていく。

 お客さんの指示に従い、幾つかの角を曲がる。いつしか住宅街を通り抜け、林というには繁りの分厚そうな木々の立ち並ぶ道を走る。
 
 街灯も古い白熱灯が点々とあるだけなので、闇を照らし出すヘッドライトが唯一の頼りという気になってくる。
 人影などあるはずもない。
 ああ、何処まで行くのだろう。人気のない道を何処までも走る、いつの間にか自分が得体の知れない世界へ引き込まれていくような、闇に飲み込まれていくような感覚を覚え始めている。
 運転しているのは自分。そう、ハンドルを握っているのは確かに自分なのだ。
 けれど、行く先を決めるのは自分の意志ではない。

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2005/08/18

白いドレスの女

 あれはいつのことだったろう。忘れてしまった? それとも思い出したくない?

 久しぶりの長距離のお客さんだった。常磐自動車道の谷田部ICで降り、さらに走ること十数分。田舎道をお客さんの指図に従って幾度となく曲がったが、とにかく目的地に到着。
 しかも、支払いは現金だった。チケットだと、あとで不正のものだったりして、その負担が運転手に、というケースがありえるのだ。
 タクシー稼業で、唯一、気の休まるのは、長距離のお客さんを下ろして、自分の縄張りまで走る数十分という時間。高速だし、お客さんを求めて神経を擦り減らす必要もない。
 順調に走れば、3時前後には都内のICを降りることができる、はずだった。
 どうしたものか、オレは道に迷ってしまったらしいのだ。どう走っても、谷田部ICに着かない。どうも風景が違う。田舎の道をグルグル回っているうちに、それでも、谷和原ICを示す標識に遭遇した。
 よかった。このまま、真っ直ぐだ。谷和原ICは東京から見ると、谷田部ICの一つ手前だが、そんなことはどうでもいい。
 
 が、何故か、どれほど走っても谷和原ICどころか、高速道路にぶつかる気配がない。それどころか、段々、道が細くなる。細くなるどころか、いつしか舗装さえされていない道に突入してしまった。
 さすがに変だと感じたオレは、林道との分かれ道で方向転換して、さっきの標識のあるところまでもどることにした。土地感のない場所で迷ったら、下手に走り回らないで、少々走っても、分かるところまで戻ることが大切なのだ。

 が、Uターンしたはずなのに、尚更、細い曲がりくねった道になっていくのだった。しかも、雨。
 天気予報では空模様が怪しいとはいっていたが、こんな時に限って当たるのだ。降り出したら、あっという間に土砂降りになってしまった。しかも、音は聞えないが、稲光で空が一瞬、眩しく輝く。
 雨粒がフロントガラスを叩く。ワイパーも利かないほどの雨だ。ワイパーに弾かれた雨水がフロントを滝のように流れ飛ぶ。
 篠突く雨の闇の中ではヘッドライトも、墨を流した闇夜の行燈ほども役に立たない。しょぼくれたような光が申し訳程度に躊躇っているだけ。

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2005/06/27

行く先は何処

「○×」まで。お客はただそれだけ言う。「横浜の、ほら、▲◆で有名な」
 小生、分からない。聞いたことがあるような、ないような。大体、話がよく聞き取れない。随分とお酒が入っていらっしゃるようで、ご機嫌な様子だ。
「えっと、横浜のどの辺りでしょう」
「なんだ、知らないのか。お宅、何年、運転手、やってんの。大丈夫、オレが道、知ってるから走らせろ」
 走らせろと言われても、一体、どの方向に走ればいいのか検討が付かない。小生、必死でお客さんが言われた地名を脳裏に響かせて、横浜のどの辺りかの見当を付けようとする。皆目、見当が付かないのだけど、やるしかない。
「あの、高速を使いますか。」
「そうだよ。だから、○×だってば。」
 小生、そろりそろりと走らせ始める。とはいっても、いきなり右折か左折の選択を迫られるのだが、小生は左折を選んだ。
 薄ボンヤリだが、あの辺りかもしれないという気がしてくる。随分と頼りない話だが、お客さんがそのうち怒り出すような気がする。トラブルだけは御免だ。
 車を走らせて、交差点での信号待ちに賭ける。僅かな信号待ちの時間の間に地図を見て、お客さんが言った地名を探す。きっと、高速道路のどこかのインターの名前に決まっている。

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2005/03/19

今日も走るぞ! 一人相撲篇

[読まれるに際しては、予め、別ページの注意書きをどうぞ、よーく、お読みください!]

[運](あああ、今日もダメだー。世の中、どうなってんじゃ! おいら、干上がっちまうぞ。えっと、さっき、お客さん、降ろしたの、いつだっけ。日報は…っと。おげー、一時間十分前! 探しても探しても、走っても走っても、ダメじゃ。やっぱ、無線、取っかなー。でも、当たりがないしな。あれは、手が早くないとダメだしなー。
 大体よ、今日はさ、給料日の3日後だぜ。幾らなんでも、まだ、懐が寂しくなったってこと、なかろうにさ。
 あーあ、暮れてきたよ。さっきは、夕焼けがやけに眩しかったなー。心に沁みたなー。なんだかさ、空がさ、おいらに同情してくれているみたいでさ。はやく、おうちに帰んなよ。どうせ、今日はダメだよ。帰って、泣き寝入りしないよって、メンタマがさ、涙ぐんだりしてさ、真っ赤になってさ、目玉の夕焼けっちゅうか、夕焼き1丁、出来上がりってか。
 しゃ、あんめい。あの繁華街に行くかな。あそこは、客、柄が悪いけどなー、背に腹は変えられないしナー。
 ととと、出てきたよ。おいおい、まだ、夕方だぜ。もう、出来上がってるぜ。困った奴だよ。背広なんか、着ちゃってさ。ネクタイは、おっかチャンに締め上げられたみたいに捩れちゃってよ。見苦しいったら、ありゃしねえ。
 ああ、でも、おいらたちは、やつ等のお蔭で飯(まんま)が喰えるんだしな。
 せいぜい、飲みな、食べな、で、乗りなって。
 よし、車をちょいと曲げて……。あ、しまった! 割烹の脇に止めてる車で前に行けない。やばい! 早く行かないと、他のタクシーに取られちゃう。ダメ。お客さん、行かないで。そっちの水は甘くないよ。こっち、おいで。
 おりゃ、あのやろ、よろよろとしちゃって、路地、入ってくよ。なんだ、立ちションか?!
 くそ! 早く、この車をかわして、あの男の脇に行かなくっちゃ。
 あああ、ダメだ。路地から出てきた奴ったら、あっちへ行っちゃう。こっちに来て! 来て! 来てってば。来(こ)、来(き)、来(く)、来(く)る、来(く)れ、来(こ)よ、だったっけ。ああ、首、括れだよ、全く。ああ、来て、お願い。ぎゃああー。あっちから、個人が来たよ。来ちゃったよ。ああん、ダメ、そこ、ダメ。ああ、ああ、乗っちゃっちゃ、ダメ。ああ、ああん……、乗っちゃった。取られちゃった。あの客、万は固かったな。悔しー。
 やっぱ、今日はダメな日だな。タクシーは、水物、当たり外れがあるってぇけど、外れっ放しじゃ、下手なパチンコ屋より、拙いじゃん。仕方ない。また、何処かの駅に付けるかな。ま、とりあえず、誰かに乗ってもらって、流れを変える! それっきゃないね。
 あーあ、今頃になって、違法な駐車の車、動いたよ。遅いっちゅうねん、オイラも中年ってか。
 えっと、この近くの駅ってえと、ああ、あこか、あそこなら、近場のお客さんが多いから、手頃だな。とにかく、嫌な流れを断ち切ってしまわないと、ホント、やばいぞ。二十時間も営業して、四万どころか、三万だって危ないかもしれない。営業所の窓口の連中の目線が怖い。ま、やつ等も、売り上げの悪い運転手の落胆振りには慣れてるはずだけど、やっぱりなー、どうだ!って感じで日報、提出したいもんなー。
 あーあ、明日の朝も、涙と共にパンをって結果になるのかな。
 でも、ベテランの人が言ってたっけ。諦めちゃいけないって。とにかく、コツコツ、やることだって。当たりを期待するより、マメにやるほうが大切だって。大口を狙ったのが悪かったんだな。下手な鉄砲、数、撃ちゃって、タクシーは弾(たま)が発射できるわけじゃないからな。せいぜい、発車ー、オーライだもんな。なんたって、往来でやってる商売だからな。ストリートがールじゃなくって、ストリートカーだ。もう、いっそのこと、ストリーキングでもやるかって、オイラも古いな。年がバレルナ。
 お、あの交差点の信号機、歩行者用の信号が赤になった。黄色が点滅し始めた。角にコンビニがあるぞ。
 コンビニの前の交差点は、止まれるものなら、先頭で止まるのが大切なんだよな。信号待ちの数十秒の間、自然に付け待ちできるようなものだし。ダメもとだしさ。スピードを調整して、後ろから空車のタクシーに先を越されないよう注意して。よし、誰も来ないな。オイラが先頭だ。誰か、来ないかね。
 ととと、コンビニから女性が出てくる。お姐さん、青信号、点滅してるよ。もうすぐ、赤だよ。止まんなさいよ。ととと、あーあ、走り出しちゃったよ。短いスカートで、太股も露わにさ。ライトを浴びて、なんとなく艶かしいね。一杯、買い込んじゃったね。
 もうすぐ、信号が青になる。ダメ元は、やっぱり、ダメか。
 コンコン。えっ、コンコンだって。ゆーきや、コンコンじゃないぞ、窓を叩く音だぞ。ミラーで、後ろを見らー。女の人が立ってる。間違いない、お客さんだ。二時間ぶりのお客さんだ。もう、お客さんを乗せる感覚、忘れそうなほどだったぜい。
 ありゃ、信号が青になっちった。後ろからバイクが来ないか確認して、ドアーを開けてっと。)
[運]「はい! どうぞ!」
[運](わりゃ! 後ろからクラクションの音が凄(すげ)え。何も、そんなにブースカ、ブースカ、鳴らさなくったってさ、分かってるよ。オイラだって信号が変わってることくらい、分かってんだよ。そのうち、実が出るぞ!でもさ、ああ、お客さん、ゆっくり乗るなー。状況を見たら、急いで乗らないと拙いってことくらい、分かりそうなもんなのに。)
[運]「はい! 宜しいですか。ドア、締めますよ。」
[客]「……」
[運](なんだよ、沈黙か。返事は、別にいいけどさ。お客さんあっての商売だし、愛想を振り撒くのは、オイラのほうだだしな。)
[運]「えっと、どちらまで」
[客]「由比ヶ浜まで、お願い」
[運]「はい、由比ヶ浜ですね」
[運](って、ゆ、ゆ、ゆ、由比ヶ浜だって、何を言(ゆ)いがはまだよ、ホントかよ。こんな時間に都心から由比ヶ浜なんて、初めてだぞ。ああ、でも、驚く素振りを見せちゃ、いけない。冷静に、淡々とってのが大切なんだよね。焦るところ、見せると、新人だと思われて、下手すると降りられるってこともあるし。ここは、ベテランを装ってと。間違っても、内心は、びっくりして、オドオドしているなんて、見せちゃいけないよっと。)
[客]「ええ、遠いかしら。でも、お願い。」
[運]「勿論、行かせてもらいます。」
[運](夜中なら、遠距離もあるけど、宵の口に、それも、こんな若い娘(こ)が…。なんだって、まー。カネ、あんのかな。大丈夫かな。)
[客]「ありがと。」
[運]「あの、どっちから行きましょう。」
[運](この問い掛けの仕方が大切なんだよな。道っちゅうか、ルートを訊いてるんだけど、道が分からないから訊いてるんじゃなくって、いろんなルートが思い浮かびますけど、そのうち、どのルートをお宅様は望んでおられますかって、その感じを滲ませるのが大切なんだよな。道を知らないと思われると、降りられないまでも、甘く見られるからな。甘く見られちゃ、あとあとが響くからな。あくまで、こっちゃ、プロなんだってこと、見せておかないとな。)
[客]「うーん、お任せするわ。早いほうが、いいわ。」
[運]「はい、分かりました。それではですね。今、下の道は帰宅ラッシュで混んでますけど、首都高を使うと、ちょっと回り道になるし、高速も今は混んでいるようですから、目黒通りを使って第三京浜、横浜新道、国道といったルートを選びたいのですが、宜しいでしょうか。」
[運](おっと、この「早いのがいい」ってのがミソなんだよな。早いって、時間的に早いほうがいいって意味もあるし、距離的に早いほうがいってこともある、言外に料金が安いほうがいいってことを意味しているケースがほとんどなんだよな。でも、中には、ホントに時間のみを念頭に置いて言う人も居るから、難しい。お客さんの顔色とか語調とか、年齢、乗った場所柄、雰囲気、あれこれの情報の欠片を拾い集めて、で、ない頭で目一杯考えて、最も的確なルート、走行方法を割り出さないといけない。そうしないと、後で運転手が泣きを見るんだな。「わたし、あっちのルートのほうが良かったんですけど…」って、後から文句を言うんだ。それだったら、初めに、これこれこういうルートでって言ってくれれば、何の問題もないんだけど、言わないんだよなー。我が儘。でも、それがお客さんなんだな。とにかく、あとでゴタゴタ言われないよう、細心の注意を払って走らせなくっちゃ。
 もう、頭がフル回転だよ。
 ととと、さっきのクラクション、鳴らしてた、車、こっちを睨みつけながら、行っちったい。ごめんね! この野郎めってか。スモークのウインドーの外車か、碌な稼業の野郎じゃないね。でも、仕事とはいえ、冷や汗もんだな。とにかく、速断即決が大事だ。長くても、お客さんが乗ってから十秒以内にスタートさせないと、プロじゃないね。こちとら、蕎麦屋より早く決断しないと商売にならないんだって。
 それにしても、この若い女の人、おカネ、大丈夫かな。どうして、こんな早い時間に由比ガ浜なんだろな。道、渋滞があまりひどくないと、いいな。3時頃に仮眠を取っといて、よかったな。トイレのほうも、しばらくは大丈夫だし。体調も悪くないし。)
[客]「うん、そうなのよー。」
[運](えっ、何、いきなり、何? あっ、電話か。一言、電話しますって言ってくれないかな、こちとら、びっくりしちゃうよ。お客さんと運転手の二人だから、お客さんが喋ったら、その相手は、オイラかって、思っちゃうよな。ま、いいや、こっちから語りかける必要も、向こうのお喋りに付き合う必要もないんだから。)
[客]「うん、だからさー、急に思い立ったんだもん、仕方ないじゃん。夕方の天気予報でさ、明日は晴れだって、カンカンの晴れ! えっ? 気紛れだって? 何よ、今更、わたしがどんな女かってこと、あなた、知ってるでしょ。ふん。でね、だから、えっ、だから、やりたくなったんだもの、しっかたないじゃん。サーフィン、今、凝ってるんだもん、やっとさ、この前、でっかい波に乗れたのよ。すっごい気持ちよかった。あれより、よかった。あれよ、あれ、あれより、すっごい、いいの。わたし、乗るほうが好きなのかも。もう、今日はまだ、時間がありそうだから、夜、乗れるんじゃん。波もそこそこにありそうだから、早く行ったら、今夜もたっぷり乗れそうだし。明日? 明日は朝早くから、目一杯、やるわよー。当たり前じゃん。明日、逃したら、今度、いつサーフィンできるか、分かんないし。仕事、忙しいもん。日曜祭日、関係なく働いてるし、ご褒美よ、ご褒美、自分へのね。さすがに、フィリピンとかハワイには行けないし。あっちへ日帰りなんて、バカみたいじゃん。」
[運](おー、おー、そうだったのか。サーフィンかい、サーファーギャルなんだね。ギャルってのも、古いか、今時。カネ、あるってことか。仕事、やってんのね。どんな仕事だろ。水商売? キャリアガール? それとも、愛人? 愛人は仕事じゃないか。いや、立派な仕事だな。労働対価を貰ってんだろうし。芸能人かな、それとも。今時の若いタレント、オイラ、顔、見ても、分かんないしな。
 今夜も、乗るって。波に、それとも、何に? 若いなー、羨ましいなー。
 おー、おー、道、意外と空いてんじゃん。夕方のラッシュが始まる、ちょっと前だったんだな。ラッシー、じゃない、ラッキー。目黒通りは、この前まで工事、工事で大変だったからな。みんな駒沢通りとかに迂回していたからな。おっと、迂回なんて言葉は禁句だ。迂回じゃなくって、適切なルートをお客様のご理解を得て選んだんだよな。
 ふぉれ? 急に静かになった。お喋りは終わりかな。相手は誰だろ。恋人か、パパさんか、兄弟とか親って感じじゃなかったな。ま、どうでもいいけどさ、関係ないし。)

 途中、運転手の独り言があまりに冗長なのと、顰蹙を買う内容なので、省略します。
 いつの間にか、湘南の香りが窓の外に漂っている…。

[運](さて、湘南だし、そろそろ、由比ガ浜だな。懐かしいな。あれは、いつだったろ。でも、仕事で来たのは一度か二度だけってのは寂しいね。そーいや、昔、オイラ、バイクで何度も来たなー。夏場って言うと、バカの一つ覚えで湘南だったからな。加山雄三なんて、気取って。いや、ウソウソ、バイクに加山雄三は似合わないね。)

 ♪シャラシャラシャン♪ 

[客]「ん、わたし、えっ? 何? えっ? そうなの?! あら、ダメじゃん。今夜、来るって。来なくていいよー。わたし、一人で大丈夫だから。心配だって? 何が心配なのよ。わたし、浮気なんかしないから。バカね、何、勘ぐってんのよ。そんな軽くないわよ、わたし、見かけと違うんだから。えっ、食事? 何処で? えっ、あそこ。ああ、あの店ね。何よ、あなた、付き合いがあるって、言ってなかったっけ。キャンセル? いいの、そんなことして、出世に響くわよ。もう、だから、わたし、乗りたいんだって。ん? 分かったわよ。じゃ、来れば。しょうがないなー。付き合ってあげるわよ。その代わり、明日は朝から解放してね。サーフィン、すっごい、やりたいんだから。…あっ、財布。あれ? …どうしたっけ、私。」
[運](お、彼氏か、予定変更か、今更、キャンセルして東京、帰りますって言われても、運賃、まけないよ。ふーん、彼氏が来るのね。じゃ、やっぱ、今夜は波に乗るんじゃないのね。それにしても、もう、由比ガ浜はすぐそこだよ。ちゅうか、もう、浜に来てんじゃないかなー。
 でも、彼女、財布って口走ったな。なんだ、どういう意味だ。まさか、財布、忘れてきたってこと? あああ、気になる!!)
[運]「あの…。」
[運](あ、まだ、話中か。困ったな。しょうがない、手振りで、近付いたってこと、教えとこ。教えなくたって、お客さん、分かってると思うけど、ま、義務だからな。とにかく、やるだけのことはやっておかないと、後腐れがあると困るしな。)
[客]「あ、運転手さん、予定、変わったの。平塚、行って。」
[運]「はい、平塚ですね。」
[運](って、平塚だって。戸塚じゃないよな。平塚だよな。まだ、ずっと先じゃん。いいのかな。予定、変更だってえー。大丈夫かな。でも、運転手は、ただ、黙って、淡々と言われた通りに運転すればいいんだよな。
 でも、さっきの財布って、どういうこと。おいら、財布のこと、問い質したいよー!)
[客]「そ、平塚。彼氏が来るっていうのよ。もう、こっちは、サーフィン、楽しみにしてたのに。今夜はおじゃんね。」
[運]「それは、どうも、残念でしたね。」
[運](って、言いつつも、こっちはありがたいけどね。平塚なら、このまま、まっすぐだし。近辺に行ったら、あとは、お客さんに道を訊くだけだ。平塚の地理のこと、知らなくたって、東京のタクシーなんだし、誰にも文句は言われないよな。
 とにかく、淡々とだ。安全、的確、迅速、そこに快適が加われば文句のつけようがないけど、快適ばかりは、お客さんによって求めるものが違うから、難しいんだよな。気心が知れていたら、それなりに工夫の余地もあるけどさ。
 おひょ、そうこうしているうちに、平塚まで2キロって看板が出たぞ。お客さんに言っておかないと。
 ああ、でも、何? 今夜はおじゃんねって。それって、財布と何か関係あるの? ああ、どういう意味か、訊きたい! 確かめたくてならないぞ!)
[運]「お客さん、そろそろ平塚ですけど…。」
[客](ZZZZZZZZZZ)
[運](返事がない。拙い。起こさなくっちゃ。妙に静かだと思ったら、寝てたのか。危ない、危ない。ちゃんと基本に忠実に、目的地に近付いたら、事前にお客さんに確認だ。長距離でお客さんに話し掛けるのは、お客さんが寝ていないかを確認するのが目的なんだよね。っちゅうか、寝ていたら起こす、眠そうにしていたら、あと僅かなんだから、なんとか起きててもらうのが目的なんだ。結構、気を使うんだよ。ノウハウもあるし。)
[運]「お客さん、平塚ですよ。あとはどうしますか。」
[客](ムニュ…。えっ、あ、着いたのね。」
[運](おー、すぐ起きてくれた。夜中と違って、お客さんは、寝ててもすぐに起きてくれるのが助かる。特に女性は、よほどでない限り、熟睡してても、ちゃんと起きてくれるんだよな。緊張してるのかな。油断しないってことか。女性のお客さんだと、体を揺すって起こすわけにはいかないからな。)
[運]「はい。あとは、どうしましょう。」
[客]「えっとね、もうちょっとしたらコンビニがあるのよ、その角を曲がってもらいます。」
[運]「コンビニですね。はい、分かりました。」
[客]「で、ね、運転手さん、買い物したいから、コンビニの前で止めてくれる?」
[運]「はい、分かりました。」(おっ、あそこだな)「ここですね。」
[客]「ええ、待っててね。」
 バタム!
[運](止めるのは、いいよ、構わないよ。待てって言われりゃ、待ちますよ。もう、おいら、あなたの忠犬ハチコーですよ。待つわー、いつまでも待つわー、だ。これまた古いな。でも、財布はどうしたの。買い物するってことは、おカネがあるってことかな。それとも、コンビニでおカネをおろす? あああ、最悪、乗り逃げってことも考えないといけないのか。買い物するふりをして、車、降りてって、で、そのままドロンって奴。あああ、こっちゃ、お客さんを信用するしかないんだよな。買い物に付き合いましょうか、なんて訳にもいかないしさ。車を降りて、コンビニの前で店内を見張っているってえーのも、難儀だし、店の人や、第一、お客さんには不快だろうし。仕方ないや、信じるしかない、待つしかないんだ。でも、財布が気になる。彼女のことじゃなくって、電話の相手の話だったのかな。
 それにしても長い。買い物が多いのか、お客さんが多くてレジで待たされてるのか。ん? トイレってこともあるな。最近は、コンビニでもトイレを貸してくれるところ、結構、増えてるし。
 あああ、長い! コンビニの前で街灯の鉄柱に繋がれてご主人さまのお帰りを待って、哀れに鳴きつづける犬…、おいら、あの心境だ。来るか来ないか分からないで不安で一杯のお犬様。ああ、ご主人様、おねげえですだ、おねげえですから、帰ってきてくんろ。帰ってきてくれたら、おいら、何でもします。靴だって何だって、舐めろと言われたら嘗めます。這いつくばって、平伏しちゃいます。鞭で叩かれるんなら、それだって、いいんです。ハイヒールの踵で踏まれたって、いいんです。こちとら、ご主人様が帰ってきてくれれば、もう、それだけで嬉しいんです。嬉し泣きして、ちびっちゃいます。
 なんで、ここまで卑屈になるかね。確かにタクシー強盗、増えてるけどさ。
 信じて待つしかない心境…、分かんないだろうーなー。
 ま、いいや。別に命が獲られるわけじゃなし…。
 ん? 待てよ。さっきの彼女の電話、気になるぞ。もしかして、彼女、彼氏と打ち合わせしてたんじゃないか。カネがないから、車を降りた先に彼氏が待ってて、カネの代わりにナイフか棍棒なんて、振り回して、おっかねー、なんて怖い目に遭うとかよ。
 おいら、カカアが家で待ってるんです。家じゃ、ガキがお腹を空かしてビービー泣きながら待ってるんです、なんて泣きを入れたら、命だけは助けてくれるかな。ああ、もう、こうなったら、無事で帰れればそれでいいや。料金を支払ってくださいなんて、言わない。
 それにしても、長い。永井の海苔みたいに、長い! ああ、ここからじゃ、店内全体を見渡すわけにもいかない。死角が多すぎる。車を降りて覗きに行きたい。でも、ここは我慢だ。男はじっと我慢の子じゃて。これも、古いな。年を取ると昔のことばかり、思い出されるって、ホントだね。
 喉が渇いてきた。不安で一杯って証拠みたいなもんだ。烏龍茶、飲も。お客さんの前で飲むなんて、そんな失礼なこと、できないし。
 ととと、おおー、出てきたよ。嬉しいね。姿が見えてきたよ。なんだか、二週間ぶりに宿便が出た時より嬉しいな。あんときゃ、ひどかったなー。思わず、彼女の手、握って、感謝の言葉なんぞ、懸けてあげたくなるほどだよ。ドアを開けてっと。お客さんにドアを叩かれなくても開けるってのがプロの仕事だってば。)
[客]「すみませーん、お待たせしました。ありがとー。」
[運]「いえ、とんでもないです。いいですか、閉めますよ。」(いいんだよ。こっちは嬉しいの。許されるなら、抱き締めてあげたいほど、喜んでるの。随喜の涙がちょちょぎれそうなほどだっての。とりあえず、戻ってきてくれた、それだけで、こんなに嬉しいなんて、因果な商売だね。お互いの信頼関係たって、運転手とお客さんとは、ほぼ常に初対面だもの、我々の信頼関係って、運転手がお客さんを信用するしかない、一方通行の信頼、信じるしかない信頼関係なだよな。)
[運]「で、あと、どうしましょう。」(ホント、あと、どうしたらいんだろう。戻ってきてくれたけど、この先が不安だ。不安で小さな胸が張り裂けそうだ。平塚近辺なんて、まるで地理なんて分からないし。地の利は、皆無ってのは、運転手は羽をもがれたようなもんだ。あなた任せで走るしかない。)
[客]「えっとね、その角、入るでしょ。その後は、私が案内するわ。」
[運]「はい、分かりました。宜しくお願いします。」(いつもながら、思うけど、日本は広いなー。何処、行っても、家があるもん。どうみたって、平塚の繁華街じゃない。住宅街だ。それも、もうちょっと走ると、山、郊外だよ。なのに、駐車場が多いし広いとか、家も塀のあるのが大概だとか、空き地がでっかいとか、学校の校庭が、都会とは違うけど、道はずっと舗装されてるし。ああ、ここにも生活があるんだな。ほとんどの人は、地元で終日を過ごしている。おいらたちとは全く無縁の生活がここにも繰り広げられている。なんだ、眩暈がしそうなほどだ。
 って、そんな感慨に耽っている場合じゃない。運転に集中しないと。
 でも、こんなこと、考えるってのも、不安な心の裏返しなんだよね。弱気の虫が、ピーヒョロロって鳴いてんだな。ん? ピーヒョロロは、なんだ、鳥か、ヒバリだったっけ。ん? カラス? トンビか? ああ、どうでもいいことばかり、考えてる。思考回路が塞がっちゃって、考える気力が失せている。オシッコも溜まってきたみたいだ。ウズウズしている。早く、降りてもらって、何処かの公園に車を止めて、トイレを済まして、新鮮な空気なんか吸ってさ、ああーなんて、背伸びとかしてみたりさ、早く、そういう場面に自分が居たい!
 おお、神様、日頃の不忠をお許しください。アーメン、ソーメン、ツタンカーメン、冷やしソーメン、浸け麺、御免だよ。)
 ♪シャラシャラシャン♪ 
(ありゃ、また、電話だ)
[客]「あ、あたし、え? もうすぐ。待って、運転手さん、あそこの交差点で右折ね。」
[運]「はい、あの信号のところですね。」(と、返事がない…。電話だから仕方ないか。ルームミラーでお客さんの様子を見てと。頷いてるね。)
[客]「だからー。財布がさー。●※▲#でさー。*?@@◆&なのよ。」
[運](なんで、声、顰めるの? ボソボソ、喋っちゃって、内緒話。別に、こちとら、お客さんのプライバシーに干渉するつもりはないの。ただね、財布って言葉が気になるだけなの。あああ、段々、家が疎らになってきた。雑木林が見えてきたぞ。一体、何処まで行くのやら。このまま、車は天国へーって感じなのかなー。おいらの運命も終わりか。花の命は短くてって、オイラを花に喩えるのは無理があるかな。でも、いいよね。最後なんだから、少しくらい、見栄、張ってもさ。儚い命だったんだから…って、どこまで暗くなってしまうんだろうー。気分は最悪だ。喉がカラカラだ。さっき、呑みたかったな。呑もうかなと思った瞬間にお客さんが来ちゃったからな。あああ、家がない。人影なんて、とっくに皆無になっちゃってるし。雑木林だよ。事に及ぶにゃー、恰好の場所だな。おいらの死に場所はここかな。死体が発見されなくて、下手すると白骨化したオイラが見つかる。太った腹が分からないのは助かるけどさって、そんな問題じゃないな。)
[客]「あ、ちょっと、スピード、緩めて。もう少ししたら、曲がってもらうから。分かり辛いし、道が細いのよ。御免ね。えーと、杉林の中に、突然、郵便ポストが現れるはずだから。」
[運](民家もないのに、郵便ポスト! 郵政さん、凄いね。優勢だね。お! あった。懐かしいねー。いかにも、ローカルって感じの昔ながらのポストじゃん。昔の名前で、じゃなくて、昔の恰好で立ってます、だね。)
[客]「あ、そこね。その先、左に入って行って。道、細くって済みません。」
[運]「はい、ここ、左折ですね。」(おいら、左折って聞くと、すぐ、挫折を連想するってのは、どうしてだろうか。オイラの人間性なんだろうか。ま、いいや、そんなこと考えてる場合じゃないね。と、ホントに細いや。車がやっと通れるほどだ。おいらの体だと、木立に遮られて、通れないほどだよ、全く!)
[客]「えっと、あそこね。あの、竹林のあるとこ、そこに入り口があるから、入って。」
[運]「はい、分かりました。」(ああ、いよいよ、運命の時だ。鬼が出るか、蛇が出るか、ジャガーが出るか、いっそのこと、ジャガイモが出て来るとかって、なんで、こんな時、駄洒落が出てくるかね。病膏肓(やまいこうこう)に入(い)るってか。おいらはここに居るってか。ああ、神様、どうか、無事で帰れますように。そこに、怖いお兄さん、現れたりしないように。
 ふぉれ! なんて、でっかい駐車場だ。っちゅうか、庭が広い! どうみたって、民家だ。なのに、この庭のでっかさ。東京ドームが丸ごと、入っちゃいそう、なんてのは大袈裟か。)
[運]「お待たせしました。ここで宜しいですね。」(って、ここでなきゃ、何処なんだよ! なんて、一人で突っ込んでみたりして。)
[客]「ありがとうー。遠いところまで、御苦労様ね。でね、財布、家の中にあるの、ちょっとクラクション、鳴らしてくれる。御免なさい。少し、待っててね。」
[運]「はい、クラクションですね。いいですか。」

 プップー

[運](おりょ、ミスった。オイラの屁みたいな音になった。ここに来て、ドジするなんて、おいららしいぜ、全く。もう、ここまで来たら、開き直るしかないね。矢でも鉄砲でも、持ってこいってんだ。…でも、気になるから、玄関のほう、窺っておこうっと。
 ととと、出ましたよ。出て来ましたよ。怖いお兄さんどころか、とっても可愛い男の子じゃん。誰? あの子。)
[客]「たくー、遅いじゃん。運転手さん、待たせてるでしょ。玄関で待っててって、言っといたでしょ。」
[?]「だって、待ってたんだよ。でも、電話して、すぐって言ってたのに、五分以上も経ってるよー。」
[客]「タクヤったら、何、言ってんの。五分なんて、経ってないでしょ。で、財布は?」
[?]「んー、これー。」
[客]「んー、これーじゃないでしょ。人前じゃ、ちゃんと話しなさいって言ってるでしょ。あ、運転手さん、お待たせしました。えっと、お幾ら?」
[運]「♀≒∬円です。」(この子、タクヤってのか。タクシー運転手になるにゃ、いい名だ。略したらタクちゃんだもんね。)
[客]「あら、この前より、安いわね。そっか、この前は、夜中からだったか。あの時は、大変だったわ。なんとなく、運転手さん、怖くって、私、主人に家の前に立っててもらったもの。わざわざ起きてきてもらって。住宅街から離れてるでしょ。家には息子しかいないし。あの時は、亭主に叱られたっけ。遅すぎるって。でもね、女一人で人影のないところで、おカネの支払いするって、ちょっと緊張するのよね。」
[運]「なるほど。そうですね。」(って、相槌、打って、いいのかな。そうか、考えてみたら、逆の立場からしたら、女性の方も不安なんだろうな。タクシー運転手は、会社名も、おいらの名前もプレートで表示してあるけど、人間性までは表示できないしね。前科者かもしれないし。碌でもない奴もいるかもしれないし。それにしても、この人、奥さんなの? 結婚してるの。こんなに若いのに。しかも、小学校に入りたてみたいなガキも、いや、息子さんもいる! 家がでっかい。どういう人なんだろ。なんて、余計な詮索は無用だ。とにかく、今のところ、無事で済みそうだ。領収書とお釣りを渡して、と。)
[運]「はい、どうぞ、領収書とお釣りです。お確かめ下さい。」
[客]「確かに。あの、これ、どうぞ。まだ、冷えてると思いますから。」
[運]「えっ、そんな、申し訳ないですよ。」(おお、見たところ、缶コーヒーだ。嬉しいな。)
[客]「いいんですよ。今日は優しい運転手さんで、安心だったし。途中、居眠りまでしちゃったわよ。」
[運]「そうですか。それじゃ、戴いておきます。ありがとうございます。」(おっ、冷たいよ。さっきのコンビニで一緒に買ったんだな。おいらに呉れるために、わざわざ買ってくれたのかな。涙、ホンマに、ちょちょ切れそうだよ。)
[客]「帰り道、分かります。御案内、しましょうか。」
[運]「いえ、滅相もない。帰り道は得意ですので、大丈夫です。」
[客]「そうですか。じゃ、気をつけて帰ってくださいね。」
[運]「ありがとうございました。忘れ物、ないですね。それじゃ。」

 バタム!

[運](よかったなー、いい人で。可愛かったなー。あれで奥さん? 七歳ほどの息子さんが居る? 信じらんないね。いいなー、あんな優しい人、奥さんに欲しいな。それなのに、訳の分からん心配なんて、しちゃって、おいら、どうかしてるぜ、全く。おりょ、今頃、冷や汗が出てきた。さっきまでは汗も出る余裕がなかったのかな。
 そっかー。考えてみたら、そうだよな。若い女性にしたら、おいらたちのほうが、よほど、不気味なのかもな。初対面なのはお互い様だものな。こっちが余計な心配、しすぎたってことか。
 悲しいかな、ドライバーって、全幅の信頼を得るには、ちょっと程遠いところもあるし。
 喉がまだ、渇いてる。せっかくだから、缶コーヒー、呑も。何処か、公園とか土手とか、ないかな。一服しよ。早く、トイレ、済まして、風に吹かれながら冷たいコーヒー、飲もっと。
 たまにゃ、こんないいこともないとな。一年に一度は贅沢か。
 それにしても、帰り道は得意です、は、ないよな。最後の最後に余計な科白を吐いちゃったな。ま、おいららしくて、いいか!)

 というわけで、運転主君、運良く見つけた土手に立ち、風に吹かれて、しばし、爽快な気分に浸ったのだった。何もなくて、良かったね。ちょっとだけ、休んだら、次の仕事、待ってるよ! 多分?!

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2005/03/07

今日も走るぞ! 近場ですが篇

[読まれるに際しては、予め、別ページの注意書きをどうぞ、よーく、お読みください!]

[運](あああ、今日もダメだ。もう、三十分も走り回ってるのに、一人も乗せられない。さっきは惜しかったなー。もうちょっとだったのになー。前の車が突然、止まりやがるもんだから、こちとら追い越せなくって、オレの後ろの奴(タクシー)がオレを追い越しやがって、仕方なく、奴の尻を追って走ったら、すぐに客が見つかりやがんの。クソ! 忌々しい。運のない時はこんなもんかなー。また、売り上げの最低を更新しそうだ。ホムペの更新もサボってるってのに、売り上げのマイナスの更新だけは、順調かー。世の中、変だぞ! うん? 変なのはオレか。あああー。)

 本日も運転主君、快調な滑舌(かつぜつ)のようである。天気もいいし、風はないし、交通量も多からず、少なからずといったところ(交通量が少ないのは不吉。町中に人の出、人影も少ない恐れもあるので)。でも、運転主君、やや弱気になってきたようだ。寄る年波もあって、愚痴っぽくなっているようでもある。この分だと、何処かの駅に車を付けそうである。ああ、やっぱり!

[運](ちぇ! しゃ、あんめいよ。駅に付けっか。小さい駅なのに、また、十数台も空車が並んでんだろうなー。ととと、あれ、数台しか並んでないよ。時間はっと。十一時半か。昼間だから、昼食前だから、お客さんが多いってこと? ってことは、一人も乗せられないオレは、よっぽど、運が悪いってことか。これだったら、最初から駅に付けとけばよかった。)

 愚痴を零している間もなく、運転主君、いよいよ列の先頭である。彼、新米じゃあるまいに、未だに先頭になると、ドキドキするようで、バックミラーを覗く目はキョロキョロ。まるで挙動不審者の目である。どんなお客さんが乗ってこられるのか、楽しみなような、怖いような。

[運](お、駅の階段をトコトコ歩いてくる人が居る。あれは、お客さんかな。歩く様子がお客さんっぽい。急いでいるようだ。ビジネスマン風だし。昼前に、何処か行き着く必要があるんだろう。約束の時間がギリギリなのかな。ととと、奴、行っちゃったよ。素通りか。また、空振りだ!)

 コンコン、と、窓を叩く小さな音。運ちゃん、驚く。

[運](しまった! 奴に気を取られている間に、お客さんに窓をコンコンされちゃった。悔しいな。ご年輩の御婦人だ。)
[運]「どうぞ!」
[客]「はい、近場で申し訳ないですけど、お願いします。」
[運]「いえいえ。いいんですよ。で、どちらまで」(この駅は、ターミナル駅ではないから、ロングのお客さんは期待できない。だから、近場のお客さんであっても、全然、、ガッカリしないんだよって、説明できたらいいなー。)

[客]「※▲なんです。すみませんねー、近くって」
[運]「※▲ですね。いいんですよ、距離など関係ないんですから。」(この不況なんだ。何処かの首相とか経済閣僚が景気は底をついたとか、上向きに転じたとか言ってるけど、何を頓珍漢なこと、言ってやがんだろう。こちとら、一人のお客さんを見つけるのにこんだけ苦労しているってのによ。それにしても、未だに近場だってことを気にして乗ってこられる人が多いこと。)

 この運転主君は、「近場ですが」が、とりわけ、嫌いな言葉のようだ。可哀想に
 これには、それなりの訳がある…。
 おやおや、お客さん、窮屈そうな様子である。無口になっている。運転手君もお客さんの居心地の悪そうな雰囲気を察知してか、気まずいものを感じている。

[運](この御婦人、近場だからって、申し訳なさそうだったなー。そんなこと、ないんだけどなー。でも、殊更、近場だからって遠慮することないですよ、なんて言うのも、わざとらしいしな。オレの様子に何処か、不機嫌さを感じたのかな。かりにそうだったら、プロじゃないよなー。不機嫌かー。不況のせいなんだよな。っていうか、お客さんを乗せないタクシーほど、惨めなものはないよな。開店休業のラーメン屋さんみたいなものか。オレがダメなのかな。出来る人もいるしな。)
 
 運転手君、ブツブツと胸の中で愚痴っている。一方、お客さんも、ずっと窮屈そう。運転手、とうとう我慢がならず、普段は語りかけたりしないのに、言葉をかける。そう、タクシーの車内空間を、束の間の時間であっても、少しでも居心地良く過ごしてもらいたいのだ。

[運](なんだか、可哀想になってきた。乗りなれた奴だと、勝手に煙草は吸って床を汚すは、突然、大声で電話して煩いわ、平気で屁やゲップをするわなのに、たまに乗る方だと、タクシーはこういうものだという古臭い偏見に固執されていて、近場だと運転手が嫌がると思い込んでいるんだな。むしろ、そのように言われることが不機嫌を誘うことのほうが多いのに。もっと、普通に乗ってもらえないかな。まだ、無理なのかな。クソ! 流儀に反するけど、何か、こちらから喋るか。やっぱ、天気に限るな。無難だからな。)
[運]「いやー、今日はいい天気ですね。昨日の夜は、雨が凄かった!」
[客]「あれ、そうですか。東京は雨だったんですか。」
[運](あちゃ、外れた。でも、話には乗ってくる人だな。よしよし。)
[運]「お客さん、どちらかからいらしたんですか。」

 本来は、運転手がお客さんに質問するのは、行き先に付いて以外はタブーである。あくまでお客さんが運転手に語りかけるなら、それに対し、社会的常識の範囲内で応じるのが筋なのである。
 だから、敢えて聞くにしても、さりげなく、当り障りのないことを尋ねる。返事がなくても、間違ってもムカッとすることがあってはならない。

[客]「わたしですか。長野から来たんですよ。息子に会いにね。あっちはね、昨日は晴天で、で、東京も晴れでしょ。気分がいいなって思ってたんですけど、昨日は雨だったんですね。」
[運]「長野ですか。いいですね(何がいいのか分からないけど)。行ってみたいですね。長野オリンピックの時は、できれば行きたかったけど、休みが取れなくて(あーあ、嘘、こいちゃったよ。オレ、雪、ダメなんだよな。寒いの苦手なんだよなー。ま、いっか。大体、何年前の話、やってんだ、オレ)。」

 運転手、やや、赤面している。もともとは不器用なほうなのである。話題作りは苦手なタイプなのだ。愛想が悪いから、接客業なんて適していないのに、タクシーを選んだのが不幸の始まりだ。

[客]「ああ、あの頃は、長野も賑やかでね。でも、サッと、潮の引くように賑わいが消えちゃいましたけど。そうですか。長野へ来たかったんですか。長野はいいですよ。温泉もあるし、スキーもできるし、眺めはいいし。どうぞ、是非、いらしてください。」

 そこまではよかった。その後は、お客さん、喋りっ放しである。言葉が途切れない。運転手、相槌を打つのが精一杯。走行中、長野のこと、上京した理由、天気のこと、息子のこと、見物に行く予定の芝居のこと、体調のこと、ご主人の酒癖が悪いこと、などなど、延々と話が続くのだった。終いには、目的地に着いて勘定をしている最中も、お喋りが止まらない。

[運]「◆◎円です。」
[客]「そうですか。安いですね。あの、千円札で申し訳ありません。」
[運]「千円ですね。はい、御釣りと領収書。忘れ物のございませんようにー。」
[運](安いって、基本料金なんだから、当然なんだよね。)
[客]「はい、確かに。でね、うちの亭主ったら、昨日もね、呑みに行って、帰ってきたのが真夜中過ぎ。寄り合いがあったからって、そんな、ねー。奥方が息子に会いに東京へ行くっていう前日ですよ。なのに、夜中に帰ってきて、相手させられ、お茶漬けを出せとか言われ、朝は朝で、昼食の用意までさせられて、さんざん。いいけどさ。」

 運転手、お客さんのお喋りに釣られて、思わず、「毎度ありー」などと言いそうになったりしている。
 お客さん、タクシーを降りて、釣銭を財布に仕舞いながらも、まだ、お喋りが続く。
 それでも、ようやく、彼女、運転手を解放してくれた…と思ったら、振り向いて、長野へ是非! と、まだ話し足りない風情である。刑事ものドラマで、犯人のもとに捜査に来て、さんざん、聴取して、さて、やっと帰りかけたかと油断したら、また、振り向いて、あー、すみません、あと一つだけ、質問させてください、という、あの場面を連想する。
 度重なる質問に辟易している中、やっと帰ると油断した瞬間、あと一つと言われると、犯人は、刑事に立ち去ってもらいたい一心で、ぞんざいな返事をしたり、思慮に欠ける情報をつい漏らしてしまったりする。
 そんな場面である。短気なこの運転主君なら、プッツンするところだろう。

[運](ひえええー。いつまで話が続くんだ。オレをいつになったら、解放してくれるんだ。あれだったら、亭主が帰りたがらないのも、無理はないな。旦那さん、可哀想。桑原、桑原だ。ととと、お、ようやく、奥さん、去ってくよ。ああ、助かった。ま、いっか、とりあえず、お客さんの、申し訳なさそうな気分だけは吹き飛んだはずだし。これで良しとしようっと。)

 というわけで、運転主君、気分を切り替え、次のお客さんを探しに、車をブブーと走らせたのだった。
 早く、次のお客さん、見つかると、いいね!

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2005/02/27

今日も走るぞ! ここは何処?篇

[読まれるに際しては、予め、別ページの注意書き をどうぞ、よーく、お読みください!]


[運](あああ、今日は不調だ、客が見つかんねえや。今日は、じゃねえな、今日も、だ。このままじゃ、一時間も空気、運んじゃう、辛い! 仕方ねえや。何処かの駅に付けるか。何処がいいか。近場だと…、あ、○▲駅がいい。あそこはターミナル駅じゃないから、そんなに空車のタクシーの列も長くないし…。)

 ターミナル駅とは、複数の(鉄道)路線の交差している駅で、新宿駅、東京駅、品川駅などを指す。

[運](長くないと思ってたのに、付け待ちの列がやたらと長い! 不況なんだなー。みんな、考えることは同じか。それに、集配のトラックとか、送り迎えの自動車などが多くて、止めるのも容易じゃねえな。クソ!)

[運](さっき、お客さんを降ろしてから、一時間以上も経過しちゃったよ。日報にブランクが。休憩もしてないのに、一時間半も乗せていない時間帯があるなんて、情ねー。さて、このお客さんは、何処かな。サラリーマン風。近場は間違いない。いいんだ。とにかく、まずは、乗って貰って、仕事のリズムを変えることだ。自分じゃ行かないような場所にお客さんに連れてってもらえるし…。)
[運]「はい、どうぞ!」
[客]「運転手さん、近場で悪いけど、◆○ビルまで頼むよ。」
[運]「はい、◆○ビルですね。」(いいのよ、いいの。近場だって、遠慮しないで乗ってね。空気よりはずっとましなんだから。大体、ターミナル駅じゃない駅だと、客さんってのは、大概が近場なんだから、こっちもそのつもりなんだけどなー。ま、お客さんは、そんな事情、知らないから、人のいい客、普段、タクシーに乗り慣れない客だと遠慮がちになっちゃうんだよねー。)

 タクシーは走り出す。目的地、目指して…。が、あまりに長く、お客さんを乗せなかったせいか、それとも、何か考え事をしていたせいか、いや、もしかしたら、さっき、目の前を通り過ぎた女性が素敵で見惚れてしまったせいか、いずれにしろ、つい油断したせいで、とんでもない事態が発生した!

[運](やっと、お客さんだ。とりあえず、目的地まで走らせて、無事、お届けして、走行のリズムを変えて、流しでお客さんを拾えるようになったら、いいなー。……、はて?)

[運](あ、まずい。目的地が何処か、分からなくなった。町の名前だったっけ、ビルの名前だったっけ、それとも、交差点の名称? ああああ、まずい。地名が吹っ飛んじゃったぞ。)

 運転主君、パニックである。コメントしようにも、目的地を忘失した原因が不明。まして、何処へ走らせるべきか、告げる術(すべ)もない。自業自得だ、頑張るしかないね。さて、奴、どのように苦境を打開するか。それとも、打開できずに瓦解するかな。

[運](ダメだ。完全に消え去ってる。なけなしの脳味噌を掻き削っても、何も出てきやしねえ。お客さんに、もう一度、聞くか。あの、わたし、何処へ行けばいいんでしょう。まさか、そんなこと、言えるはずがない。あああ、何処だ? オレは何処へ行けばいいんだ?)
[客]「(無言)」
[運](お客さんの顔を見て…も、分かるはずないし。えっと、車はこっちを向いている。この方向だと、あの交差点とあれと、あれと…。ビルだと、あれかこれか、それか、どれか。分かるわけねえや。とにかく、走り出した瞬間は、間違いねえはずだ。ああ、一体、何処へ行けばいい。あと少し走ったら、交差点だ。信号がある。頼む、信号機よ、赤になってくれ。赤で信号待ちしている間に、きっと、思い出すから…。おお、天の恵みか、日頃の行いがいいせいか、黄色だ、赤に変ったぞ!)

 お客さんは、相変わらず、無言のままである。そりゃそうだ。一人の方だし、携帯電話を使っていないし、一人でブツブツ喋ると、反って怖い!

[運](こうなりゃ、お客さんの口から聞き出すしかない。ええと、どうやって口を割らせるか。そうだ、天気だ。きっかけはー、ライブドアじゃない、フジテレビってんだ。ちと、古いか。さて、この客は、話に乗るか。それとも、逸るか、だ。)
[運]「今日は、いい天気ですね。夕べの雨が嘘みたいですね。」
[客]「ああ、ゆんべは、凄い雨だったね。」
[運](ゆんべだって、あんた、何処の在所じゃい、なんて、そんな茶々を入れてる場合じゃない。おーおー、このお客さん、乗ってくるよ。いいね。オレッチのタクシーに乗って、話にも乗る。ダブルでラッキーだねって、そんな場合じゃないっちゅーの。)
[客]「ゆんべはさ、オレさ、仕事でさ、外回りで大変だったよ。で、あの雨だろう。パンツまでずぶ濡れさ。」
[運]「ほー、それは大変でしたね。」と相槌を打つ。
(あああ、信号が点滅している。青になっちゃう。直進か、左折か。それとも、挫折か!)
[客]「でさ、あの雨、パッと上がったじゃない。オレ、営業先のHビルから出るとき、うっかり、傘、置き忘れちゃってね。だってさ、すっかり上がってんだもん。誕生日に女房に貰った、高級な奴でさ。忘れました、じゃ、済まないんだよ。これから取りに行かなくっちゃいけないんだ。」
[運](傘、取りに行く…? Hビル…。あ、Hビルだ、思い出した! 右折だ、右折。ウインカーを出さないと。信号が青になっちゃった。)

 運転主君、慌ててウインカーを出すと同時に右折開始。急な進路変更で、後ろの車が警笛を鳴らし、アクセルを吹かしながら勢いよく脇を走り抜けていく。

[運]「そうでしたよね。春の雨は気紛れですものね。なーるほど、奥さんからのプレゼントですか。そりゃ、大切にしないと。」(ああ、心臓がバクバクしている。どうなることかと思ったよ。お喋りの、いいお客さんでよかった…。)と、いい加減な相槌。語調などは平静を装っているけれど、内心は、安堵の胸を撫で下ろしている。
[客]「そうなんだよ。今朝、女房の奴、機嫌が悪そうだったから、傘、置き忘れたの、気付かれてたのかなって。とにかく、早めに取り返しておかないと、先々が心配でさ。」
[運](傘を取り戻しにHビルに行くのか! ああ、こんな客もいるんだな。ありがたいというべきか、分からんけど。よしよし、ビルの前は、今日はタクシーを止めるスペースがあるぞ。滑らかに止めてっと。)
「ここで宜しいですか。」と、声が弾んでいる。
[客]「ああ、いいよ。ああ、運転手さん、万札だけど、いいかな。」
[運]「大丈夫ですよ。」(この際だ、万札だろうと、馬券だろうと、偽造の金券だろうろ、なんでもいいさ。無事が何より。やっと、心臓が落ち着いてきたよ。)
[運]「660円ですので、御釣りは*#円です。領収書、どうぞ。」
[客]「領収書はいいよ。それより、悪いねー、近場なのに、万札で。」
[運]「いいえ、とんでもないです。ありがとうございました。」

 バタム! とドアの閉まる音。車内が静かになった途端、運転手の心臓の音が聞えてくるようでもある。心臓に毛が生えているわけじゃなし、まだ、実は鼓動が早い。こんなことが何回もあったりしたら、早死には間違いない。まあ、とりあえずは、一件落着である。終わりよければ全て善し、と、この場合、評していいものか、判断が付きかねる。運転主君、くれぐれも、同じ失敗を繰り返さないように。目的地は、惰性で復唱するだけじゃ、ダメなのよ。日頃、やっているように、脳裏に走行すべき地理の情景を明確に描かないとね。
 やがて、運転主君、気まずい失敗を拭い去るようにアクセルを強めに吹かして、走り出すのだった。さあ、気持ちを切り替えて、次ぎのお客さんを早く、探そうね。

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2005/02/20

今日も走るぞ! ブヤ篇

[「今日も走るぞ!」 本編はタクシードライバーの書くに書けない日誌です。でも、虚構ですので真に受けてはいけません。信じたら魔に受けて笑われます!

 キャスト:  [運]=中堅どころの運転手(弥一ではありません)
        [客]=お客さん(多分、あなたではないでしょう)。
        [?]=冷やかしの客紛い
 走行場所: 東京23区がメイン(+武蔵野市+三鷹市+郊外)
 場 所:   主にタクシーの車内、たまに路上かも
 時 間:   日中だったり夜間だったり未明だったり
 時 代:   平成十年代以降(特に規制緩和以後)
 注意事項:
  1.()内は胸中の思い、あるいは独り言です。
    相手(不特定多数を含めて)が居ての発言ではありません。
    言葉遣いが荒かったり、雑だったりしても、大目に見るように。
  2.「」内の言葉は科白で、誰彼に向かっての発言です。
   (困るのは意が通じないこともしばしばだということ:独り言)
  3.重ねて断っておきますが、実際にあった話ではありません。
  4.時折聞える雑音はラジオや無線、街頭のざわめきなどです。
   (たまに耳鳴りがしましたら、病院に行ったほうがいいかも)
  5.斜字体の部分は、背景などの説明や雑音です。]
  6・言うまでもなく筆者である弥一は、タクシー業界を代表するものではなく、よって、文中に書いてある内容についても、業界の正式な見解を代弁するものでもない。それどころか、標準的な見解ですらない可能性が大である。あくまで個人的な見解(時に偏見とも呼ばれることがあるが、それは、ちと、あんまりであろう)に止まる。


『今日も走るぞ! ブヤ篇』

[運](ああ、今日も暇だ。客が見つかんねえや。ラジオでも聴くか。あっちゃー、リミックスがどうとか言ってるよー。おじさんにゃ、そんな音楽、分かんねえっちゅーの。ブチッ! ざま見ろ、切ってやったい。シーン…。ああ、沈黙に耐えられない。やっぱ、何か聴いとくか。ラジオは運ちゃんの車内での唯一の友だっちゅうの。ととと、後ろから空車のタクシーが猛スピードで来やがった。クソ! 追い越されてなるものか。そうだ、前の車で追い越されないようブロックしちゃおう。ととと、あそこにこっちを向いているのは…、あれは客だな。うん、あのそわそわ感は、間違いない。よしよし、後ろから来たタクシーに奪われなくってよかったって)
   「はい、どうぞ!」
[客](無言)
[運](こいつ、喋れないのか?)
   「どちらまで」
[客]「……」(何か呟いたらしい
[運](ああ、ボソッと喋るから、何、言ってんだか、分かんねーや)
   「すみません。申し訳ないですけど、もう一度、お願いします。」
[客]「おめ、新米か。地理、分からんのか。」
[運]「いえ、すみません。話が遠かったもので。もう一度、お願いできませんか。」
[客]「…ぶやだよ!」
[運](あああ、渋谷(しぶや)か日比谷(ひびや)か、聞き取れない。ブヤ…、まさか蚋(ぶよ)じゃあるまいし、ぶやって、言ったようだから、渋谷かな)
   「渋谷ですね。」
[客](無言)
[運](何も言わないってことは、渋谷で正解だってことだろうな。そうだ、念を入れておこう。でも、渋谷ですかとは聞き返せないぞ)
   「渋谷は駅で宜しいですか?」
[客]「…うん。」
[運](よし、よし、やっと、返事したぞ。間違いない。お客さん、短気そう。怒られないよう、そうっと、丁寧に、恙無く、運転しないとな…。おや、煙草、吸い出しやがったぞ。断りもなく。ま、禁煙車じゃないから、我慢するしかないか。窓くらい開けろよな。と思ったら、開けたか。車で煙草、吸うの慣れてそう。と思ったら、吸殻、窓から捨てやがった。ああ、躾とか人間性がばれるね。お、あの店の先に一方通行の道がある。あそこを通るべきかどうか。お客によっては、多少、渋滞してても大通りを走るほうが好きだっていもいるし、逆に裏道が好きだって人もいる。さて、この客はどうなんだろう。顔つきとか表情じゃ、読めない。まだ、ベテランとはいえないなー。ここは勘でいくしかないな。いや、それはまずい。これまでの経験からして、好みの道じゃないと、あとで文句を言うに決まってるんだ、こういうタイプの客は。)
   「あの、こちらの方を通りますが、宜しいでしょうか?」
[客]「…うん。」
[運](よし、よし。やっと、客のタイプが読めてきた。下手(したで)に出ておけば、細かいことは言わない人だ。短気そうだけど、自分が熱中していることが邪魔さえされなければ、あとは良しなにってタイプだね。うん、うん。とにかくスムーズに、安全に、的確に)
   「はい、着きました。ここで宜しいでしょうか。」(とにかく、丁寧が第一だ。感情の地雷原を踏まないよう、細心の注意を払って勘定も済ませないと)
[客]「…運ちゃんよ、大きいのしかないけど、いいか」
[運](あんれ、ま。今度は、お客さんのほうが、丁寧な言葉遣いだよ。最初の勢いはどうしたんだ。そっか、短気そうだけど、結構、気が小さくて不器用な人だね。だから、無愛想に振る舞っちゃうんだね。いんだよ、おカネさえ、払ってくれたら、お客さんなんだからね)
   「はい! 大丈夫です。」(慌てず、騒がず、勘定を間違えないよう、ちゃんと計算して、と)
   「はい、お釣り、○×▲円です。レシートはどう致しましょうか。」

 会社ではレシート(領収書)は必ず毎回、発行しろと言う。でも、客の半数は要らないという。で、レシートを渡し返すか捨て去る。仕方ないので、節税対策に使う…じゃないくって、不要なレシートは捨てるしかない。紙が勿体無い。だから、現実的には、その都度、お客さんに必要かどうか窺うしかないのである。

[客]「いらね」
[運](おお、ちゃんと会話できるじゃん。この人、顔見知りするタイプなんだね。優しく接したら、結構、お喋りが弾むかもね)
 バタム! と、ドアが閉まった。
[運](あーあ、これでやっと、五人目のお客さんだ。つらいなー。今日の売り上げも期待できないなー。でも、頑張らなくっちゃ。家じゃ、女房が鬼の形相で待ってるし。いや、鬼じゃない。この頃、やけににこやかに迎える。何かあったのか…。今更、浮気じゃあるまいし。と、そんなこと考えてる場合じゃない。次のお客さん、探さなくっちゃ。でも、オレ、渋谷は苦手なんだよね。松涛とか円山町とか、裏道が複雑で、未だに理解できないでいる)
 という、わけで、車は、ブブーと渋谷の町を走り去ったのであった。


[もしかしたら、続くかも]

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