小説

2012/10/22

ある日

 フッと気がついた。無限に毒々しく広がる暗闇の中空を一匹の無様な虫が蠢く。ヒルだという直感。目を開けた、つもりなのだが闇は退いてはくれない。もしや盲目になったのでは……胸を突く恐怖……違う、目が見えないのではない、光がないと表現した方がいい、目の一寸先を真っ黒な物体が覆っているとも思える。彼の体。彼には横たわっているように感ぜられた。起きようとする。

(あれ!どうしたんだ、体がやけに重い、体全体が重くくるまれ圧されている風じゃないか!)と彼は思った。
 彼はもがいた、むやみにジタバタさせていた。と、一条の光がまぶしく彼の目を捉えた。日光が差し込んだのだ。朝、フトンの中のあがき……。

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2011/11/21

天使の分け前

 武治はベランダの先に広がる夜景を眺めていた。
 真向かいには澄子が固く沈黙を守っている。
 テーブルの上や台所には、綺麗に食べ尽くされた皿やカップやボウルばかりが目立っている。
Red_wine_glas
 久しぶりに二人とも何の予定もない週末を迎えていた。いつもはどちらかが仕事で外出を余儀なくされる。それがこの週末は、全く何も入ってこない。長い長い朝と昼と夜とがあるばかりなのだ。
 どちらともなく、ワインに似合うような食事を作ることを考えていた。凝った料理。気の遠くなるような時間を埋め尽くすには、とにかく手間の掛かる料理に取り掛かるのが一番なのだ。

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2009/04/09

猫、春の憂鬱を歩く

 春である。近所の犬コロどもも盛りの血が騒ぐ春である。我輩の可愛いお鼻もあちこちから春風に乗って漂ってくる匂いにヒクヒクしている。でも、臭いに関しては、犬コロどもには、ちょいと敵わない。
 まあ、それだけが奴等の取り柄なんじゃから、自慢気に大地をクンクンさせておけばよいのだよ。
 その代わり、我々猫族は、なんたって耳がいい。犬コロどもだって、人間には比べものにならないほどに音に敏感だ。そう、ドアの閉まった家の中にいたって、表から響いてくる足音で、ご主人様の草臥れかけたドタッドタッという足音、近くのガキどもの元気闊達なタンタンという足音を聞き分けているよね。

090214neko

 それでも、俺様たち猫族には、ワンコロも裸足で逃げだすに違いない。って、犬コロはいつも裸足だったっけ。
 ネズミだってゴキブリだって、人間さんたちには姿が見えない限り、退治しようがないんだろうけど、我々はネズミが天井に潜んでいようが、ゴキブリが台所の流し台の隅っこの透き間から出入りしていようが、見逃しはしない…、もとい、聞き逃しはしないのさ。

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2008/12/30

冬のスズメ

 茫漠とした空を見上げた。
 枯れて裸になった枝の先にスズメたちが止まっている。一心に何処かを見遣っている。
 あの木は何だろうか。降り積もった雪で近寄ることが出来ない。
 桜? そう、桜の木だ。寒さに凍えているけれど、それでもスズメたちの止り木になって春を待っているのだ。
 みんなに嫌われるスズメ。だけど可憐なスズメ。あのスズメ達を見ていると、心が憂鬱になる。何故だろうか。

Suzum3_2

↑ スズメたち   by kei


 私を支える木はどこにあるのだろう。あの人は今、何処にいるのだろう。でも、あの人は遠い。会おうと思えばいつでも会える。そう、今日だって会ったばかりなのだ。あの人と言葉を交わしさえした。
「おはよう」そして「さよなら」と。
 そうそう、「これ、届けてきて」と言われたっけ。書類を手渡しさえ、された。あの人は、煙草を燻らせたままで、こちらを見向きもしなかった。

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2007/05/05

五月晴れの空へ

 彼は足元の枯葉を蹴った。長い信号だった。
 気がついたら、他の人は歩き出している。
 なのに、彼はためらっていた。
 
 やっぱり、ダメだ!
 
 彼は踵(きびす)を返して美紀のもとに向かった。枯葉が驚いたように舞った。
 
 あのままじゃ、ダメだ。絶対にダメなんだ。

 初めは早足だったのが、次第に足が速まっていく。
 幾度となく待ち合わせした公園の脇の近くのサツキの植え込みのある家の傍に差し掛かったとき、足が止まった。

 何日か前の美紀との他愛もない会話を思い出したのだ。

 これはサツキって言うの。

 えっ、これって、ツツジじゃん。
 どう見たって、ツツジだよ。

 ううん、ツツジはツツジだけど、違うの。ほら、葉っぱがちょっと小振りでしょ。

 云われて見ればそんな気もする。でも、彼にはどうでもいい。

 要するにツツジの仲間なんだろう!

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