ディープ・スペース

2016/03/08

アズールの空

 ピエロの魂で生まれてきた。

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→ 「ラピスラズリ」 (画像は、「アジュール - Wikipedia」より)

 放り出されるようにして、光の世界に迷い込んだ。
 熱く赤い闇から蒼白の海へと。

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2014/10/01

臆の夢

(前略)神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在 者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、 浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均 しく注がれているはずなのである。

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← お絵かきチャンピオン 作「パブロン」 (以下、作者ホームページ:「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」)

 神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理 由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが 特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないの だと決め付けているに過ぎないのだ。

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2014/08/08

忘却は宇宙を糾合するのです

 あの星々は蒸発し去った魂の欠片たちなのに違いない。
 地上で焼き焦がされた骸の数々。
 見るも無残な変わりよう。

 ああ、でも、地上に肉片一つ残せなかった人たちもいる。
 腐臭すらなく、飛び出した眼球を手で戻すことも叶わず消え去った人々。

 道端の石ころに影だけが残っている。
 あの日の高い太陽にじりじり焼かれて、肉の形に黒々と刻まれている。

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2013/09/06

そして、やがて、あるのは

 私とは、私が古ぼけた障子紙であることの自覚。私とは、裏返った袋。私とは、本音の吐き出され失われた胃の腑。私とは、存在の欠如。私とは、映る何者もない鏡。私とは、情のない悲しみ。私とは、波間に顔を出すことのないビニール袋。

 我を打ちのめし、あるいは押し流し、何処へとも知れない闇の海の底の土砂の堆積に埋められていくことは重々分かっていても、それでも、精神の疾風怒濤の中に手を差し出し、あるいは剥き出しの我が身を、我が心を差し出してまで、不可思議そのものである精神の闇の中にほんの一筋の光明を見出そうとする。

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2009/09/23

ディープブルー

「国稚(わか)く浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて…」

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← 本作は、この絵に触発されて創作したものの一つです。絵は、なずなさんの手になります。同氏は、こんな作品が生まれようとは、夢にも思わなかった、不本意と思っている…かも。

 夢の中にいる。夢だと分かっている。間違いなく夢に違いないのだ。そんな世界がありえるはずがないし。
 でも、この世界から抜け出せない。上も下も右も左も、どっちを向いても、水である。水に浸されている。口を固く閉じているつもりだけど、つい油断して口を開けてしまう。すると、口の中に水が浸入してくる。水が口中だけじゃなく、喉にまで入り込み、内臓をも水浸しにしてしまう。

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2004/12/18

ディープスペース:ベルメール!

「ディープスペース(6):ベルメール!」


 奴は蛇の目をしていた。間違いなく、奴は爬虫類だ。冷血動物だ。いや、動物に熱い血が流れるというイメージがあるなら、興味ある対象に向かっていくのが動物というのなら、そもそも、外界に興味あるものがあるというのなら、奴は、動物ですらない。
 といって、奴が植物というわけでもない。
 奴は、大地とは何のつながりもない。根無し草ですらないのだ。
 奴の目に睨まれた連中の行く末がどうだったか、オレは知っている。みんな生気をトコトン吸い取られ、生ける屍となって、路上に転がり、目を見開いたままに息絶えていった。見てはならぬものを見てしまった、のだろうか。
 奴の目は、解剖学者の目だ。それも、医学の世界とは無縁の、忘れ去られた灰色の廃屋の一角で、人の目を盗みつつ、密やかにメスを握る人間味の欠片もない学者の目だ。心を狂わしたとしか思えない、冷酷な目。生きている相手を対象として選びながらも、対象をモノとしてしか見ることができない。モノ。しかも、メカニズムの塊としての、分析可能な玩具としてのモノ。
 が、奴には、そのモノが、ただのモノとは思えないらしかった。メカニズムの集積に過ぎないはずが、理論的には分析可能のはずなのに、いつも手の平から洩れ零れる何かの潜む、禍禍しい怪物に映るらしいのだった。
 奴の異常なまでの記憶力。奴は、一度目にした対象は、どんな微細な部分に至るまでも脳裏に焼き付けてしまう。いや、脳髄の奥の何処かに、本当に、それこそ焼き鏝でジューとされたみたいに焼印が残ってしまっているのかもしれない。
 だから、一旦、目にしたものは、瞼を閉じるだけで、見てから何日が経過していようと、完璧なまでに思い浮かべることができる。
 が、奴は、同じ対象を穴の開くほどに眺める。観察する。解剖台の上で微動だにしない検体を、しかも、奴に命を捧げた生きている献体を、トコトン、眺め入る。楕円し曲折し屈折し湾曲する肉体。毛穴の開き、幾つかの穴の開いた、皮膚という名のゴム膜の風船。
 それは眠れる美女だった。いや、眠ってなどいないのだ。奴を心底から愛する女が、冷たいベッドに横たわっている。寒々とした蛍光灯に体をこれ以上ないほどの裸に晒しているのだった。四方八方からの蛍光の明りが女に影を与えないのだ。
 神々しく、それとも空々しく輝いている女。人形のように、それとも、人形以上に人間の夢に忠実なる人形。それが女の役割だった。
 そう、女は完璧なる女を演じ通そうとしていたに違いないのだ。奴の冷血なる心の襞の襞にまで女として取り入ろうとする、打算と愛情の塊として女を黒い皮のベッドに横たえているのだった。
 情感が白い肉体となって柔らかな曲線を描き、奴の目の凍て切った心を愛撫していた。女は奴を理解していた。
 奴が、心をモノとして、そう、物体としてしか受け止められないでいることを知り尽くしていた。モノとは、心の変幻で
あり、心の集積であり、心の遺棄場であり、心の描く夢の形なのだった。
 そう、奴には心が見えないのだ。感じられないのだ。信じられないのだ。分からないのだ。そして、懇願しているのだ。
 女は、奴の冷たい目の奥に湖を見ていた。透明な湖。濁った湖。細波さえも立たない夢の中の湖。それは氷の湖、ガラスの湖なのだった。光さえもが際限もなく屈折して抜けだすことの叶わない閉じた湖だった。心が封じ込められた湖なのだった。
 奴は、肉体を信じていた。肉体にこそ、心があるのだと思っていた。肉体以外に心の在り場所、ありえないと思っていた。肉体が心なのだ。
 だからこそ、今、女を解剖しようとしている。皮を剥ぎ、神経細胞を剥き出しにして、心の伝わる経路を追おうとしていた。皮膚感覚の電気的変化の様相をグラフに写し取り、内臓の蠢きを手の平で確かめ、四肢の可動に神秘を見て
いた。
 奴の指の動きに素直に従う顔の皮膚の動きを奴は不思議な面持ちで眺めていた。
 しかし、何処にも、そう、肉体の動きのどんな部分にも心など見つかるはずもなかった。
 女の口に咥えられた肉の棒の動き。噛み切られて今にも呑み込まれそうな、断末魔の喘ぎに悶える奴の片割れ。嚥下され喉を蠢かせ、腹の奥に収まっていく不思議。五臓六腑に拡散する奴。
 奴は、女を壊れた人形だと思った。関節が外され、もがれた下肢が、血の雫のポツリポツリと垂れているコンクリートの床に落ちている。
 拾うべきか、否か。
 まっさらな骨が砕けて無慙な様を露わにしている。
 奴は、女の肉体をバラバラに引き裂き、解体して、懸命に心を探していた。
 愛情が潜んでいるはずだった。あれほどの愛情が見当たらないはずがないのだった。奴は、排泄物の山にさえ分け入って愛情を探した。泥まみれ糞まみれになって女の心を探した。脊髄を抉り出し、剥き出しの延髄に頬を当てて
みた。腸(はらわた)を抜き出し、天井に張り巡らして、滑(ぬめ)る表面の光沢に陶然となっていた。
 奴は、最後にとうとう決心した。自分も同じ格好になるべきだと思ったのだ。女と同じ姿を眩い蛍光灯の光の満ち溢れる空間に曝け出す。骨の欠片、散在する内臓の肉片。転がる眼球。血の海に漂う髪と指先。近くのテーブルの上に鋭利なメスを取り囲むように、綺麗に並べられた爪の数々。
  そう、爬虫類の目とは、怯えきった心の窓なのだ。外界の一切が恐怖の対象と映る、生まれながらに臆病者だった奴の惨めな末路なのだ。
 そんな奴だから、解剖室の中でのメスと爪との必然的なる出会いを夢見たって、不思議なことなど、何もない。
 奴は、白い部屋の中の全てを掻き集め、青いポリバケツに詰め込んだ。それを地下の巨大なダストシュートに放り込み、ついで、自分の体も飛び込ませた。その生ゴミ貯蔵庫には無数の女達の肉塊が保存されている。奴は、ついに自分の夢を叶えたのだ。
 肉の塊の腐れ行く、熱気溢れる中で窒息して果てること。思い残すことなど、何もない。
 赤い闇の海に溺れていく瞬間、奴の瞳に初めて表情が生まれ、そして消えていった。


                            (04/11/20)
[ ベルメールとは、ハンス・ベルメール Hans BELLMER (1902-1975)のことですが、名前、あるいは彼の世界(「人形」)と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。尚、テーマ的に近い作品として「ディープタイム/ディープブルー」があります。 (04/12/17 記) ]

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2004/12/12

ディープスペース:デルヴォー!

「ディープスペース(5):デルヴォー!」


 オレは、夢の中で見た女を捜していた。
 女はオレのすぐ傍にいたのだ。まるきり表情など見せてくれなかったけれど、目を閉じているオレの頬に女の肌の
温もりの放つ熱気が当たっていた。肌のかすかな石鹸の香りが脳裏を突っついていた。
 目を開けると女は、遠ざかり、窓際で背を向けている。長い髪が梳けて流れている裸の背中。丸いお尻。長い脚。真っ白な肉体が宵闇にトルソーのようだった。
 肉体というより大理石を思わせる木目の細かさが、冷酷さと紙一重の情の深さを想像させた。
 そうだ、遠い国の山の中の湖のように冷たく固い水面。もしも触れたなら、指が凍るか、そうでなかったら、水に浸した指の先が切れ落ちてしまいそうだった。
 オレは、女の肌に触れたくてならなかった。
 もう一度、あの感覚を味わいたくてならなかった。 
 あの感覚…。そうだ、オレは、ガキの頃、たっぷりとあの感覚を味わっていた。あの感覚の世界にどっぷりと浸っていた。オレはあの感覚そのものだった。
 何故なら、夜毎にあの女がガキだったオレを褥(しとね)の奥深くに招き入れ、火照る肌という褓(むつき)で包んでくれたのだ。
 オレは窒息しそうだった。快感と苦痛とが入り交じっていて、もがきながらも、気がつくと、もっと闇の奥深くへ分け入っているのだった。深みの底には、真っ赤な闇の河が流れていて、オレを溺れさせてくれるのだった。
 赤い水がオレの喉に情容赦なく流れ込む。それは長い舌先に違いなかった。情の滾る裸の心を剥き出しにした女のペニスなのだった。ベロがオレの喉の奥を、オレの体躯を、オレの足先を、そう指の先までも愛撫しているのだった。
 そこには、一分の隙もない愛惜があった。女の孤独という匕首(あいくち)の切っ先がオレをズタズタに引き裂くのだった。
 女は、ただただベロで舐めまわしているだけのつもりだったのだろうけれど、オレにしたら、刃先を全身に突き立てられているだけのことだった。
 オレは体以上に心が血の涙を流していた。あまりの快楽の洪水に圧倒されていた。幼児に過ぎないオレには、到底耐えられるはずのない、横溢する愉楽だった。
 オレの体も心も、満ち満ちた愉悦の淫靡なる液体に漲り、膨らみ、そして破裂してしまったのだ。
 なのに、ベッドを共にした翌朝には、能面の顔をした見知らぬ女が、感情の一切を示すことなく、オレを躾ようとする。礼儀作法を徹底する。行儀の悪さなど、決して許さない。完璧なる子供であることを要求する。
 母は、決して女などではなく、女性なのであり、妻なのであり、貞淑なる人形なのだった。
 部屋の中に、一粒の埃をも許さないように、オレの肩にもフケも髪の一本も落ちていることを許さない。
 そしてオレは夜の人形。玩具。無数の女達を追いかける亭主に気が狂った女の忠実なる臣下。そう、完璧なる奴隷であり主人なのだ。
 館の中の、夜の果ての旅の宿でオレたちは不即不離の、そう一心同体の夢を営んでいたのだった。
 女は窓の外にどんな風景を眺めていたのだったろう。
 女が見ていたのは、都会の一角だとは、とても思えないほどに静まり返った街の石畳だったろうか。煉瓦の壁に変幻するガス灯の気紛れだったろうか。街路を縫って漂う霧に、昼間、二人で乗った機関車の蒸気を想っていたのかもしれない。
 それとも、噴水広場の真ん中に立つ搭に、シンメトリーの極を極めた古代ギリシャ神殿の柱を想っていたのかもしれない。
 屹立する柱のエンタシス。紺碧の空の下で玲瓏なる耀きを放つ柱身の胴部の磨き込まれた表面。
 母は、いや、女は、決して自分のものとはなりえない運命を、あの遠い柱身に見ていたのだったろうか。
 そうだ、オレは、息も詰まるほど間近だったエデンの園で絶望していた。熟れ切ったリンゴの実を、今生の限り口にすることはありえないのだという、悟りと似て非なる悲しい諦めの念。
 浸っている。惑溺している。とっくに溺れて死んでしまっている心。
 なのに、決して溺れることは許されない。禁忌の彼方に女はいる。肉と肉を雁字搦めにしていてさえも、女は遠い。遠くでなければならない。
 オレは恐怖していた。自分が快楽を女から、いや、母の肉体から貪っているのではないか、貪っていることを母に悟られているのではないか、そんな二人の関係が父に、いや、世間に知れ渡ってしまうのではないか。
 否、もしかして、とっくの昔に周知の事実になって、陰で哄笑されているのではないか。
 もしかしたら、オレは、完璧なる世界を知っている。我が身心で、とことん、その至福なる球体の世界に生き尽くしてしまった。生き過ぎて、安息なる空気を吸い過ぎて、とうとう窒息してしまった。
 オレが現実の世界を恐怖するのは、球体が壊れるからではないか。
 オレは、視線が怖かった。きっと、母はオレ以上に世間の目が、父の目が怖かったのに違いない。だからこそ、感情を一切、押し殺していたのかもしれない。
 それとも、単に冷え切った愛情が心の重石となり、女を湖の底深くへ沈めてしまったのかもしれない。

 オレは、夢の中で見た女を追っていた。
 あの女は間違いなく、いる。母を真似て窓際に立って、外を眺めていた時に、遠くの町角を過ぎ去り行くのを、オレは決して見逃してなどいないのだ。
 見た瞬間、あの女だと直感した。オレの勘に狂いがあるはずがないのだ。あの女はオレに自分の存在を気付かせようとしたのだ。遠い日に禁忌の塒で絶望と歓喜の狭間で引き裂かれていた、あの…、底なし沼のような充実感。
 その漲る悲しみへの郷愁の念を、あの女は掻き立てたのだった。
 あの女に間違いない。あの女こそ、オレを救ってくれる。
 オレは女を追い続けた。探し回った。どこかにいる。オレを待っている。オレを誘っている。オレを誘惑するために、姿を垣間見せたのだもの、見つからないわけがないのだ。
 いた! やっぱりだ。オレを待っていた。石段を登りつめた天辺で、あの日のあの女のように背中を向けて、遠くを眺めている。優しげな曲線を描く肌も露わな肩、凪いだ海のような背中からお尻、柔らかな草原の輝き、誘って止まない懐かしき湿地。
 幾度、オレはあの亀裂に夢を見たことだろう。呑み込まれ、吸われて、オレの精の全てはあの世に霧消していった。
 脹脛の緩やかな膨らみ。まるでエンタシスだ。エクスタシーそのものだ。
 オレは、女を目掛けてまっしぐらに駆けていった。今、このチャンスを逃したら、永遠に出会えないと感じられた。胸は焦がれていた。やっと、禁忌の海を渡りきることができる。息も絶え絶えの、情の根の涸れた心に潤いを導くことができる。パサパサに乾き、冷え切った心に生気を蘇らせることができる。
 女の肩は、オレを待っている。微動だにしないで。オレに抱き竦められるのを今か今かと待ち焦がれているのだ。
 オレは、息を弾ませて階段を登りきり、力一杯、女を抱き締めた。
 その瞬間、夢は弾け、オレは崖から落ちていった。

                           (04/11/15 作)
[ デルボーとは、ポール・デルヴォー Paul Delvauxのことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。尚、テーマ的に近い作品として「ディープタイム/ディープブルー」があります。 (04/12/12 記) ]

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2004/12/07

ディープスペース:フォートリエ!

「ディープスペース(4):フォートリエ!」


 寝苦しい夜だった。長い長い夜の果ての、遠い幽冥の境にいた。まるで、イラクの戦闘の地を潜り抜けてきたような気分だった。
 しかも、オレは、加害者だ。空襲する側に立っている。絶対、安全な場所にいて、ボタン一つを軽く押すだけ。
 すると、目の前の液晶モニターに、綺麗な軌跡が緩やかな曲線を描いていき、ターゲットに当たると、一瞬、青白い閃光が煌くと、すぐに真っ暗闇の画面に戻る。
 それだけのことだ。ここにいるオレは、鼓動が早まることもない。
 そう、それだけのこと。まるで、ゲーセンにいるみたいだ。液晶上の軌跡の先の砕け散った肉片など、誰も掻き集めもしない。そんなことは、オレの役目じゃない。そんなバラバラの肉や砕けた骨や焼け焦げて蒸発してしまった血な
ど、時による風化に任せておけばいい。
 オレは、居心地のいい部屋で、漫画でも読むだけだ。

 生きるということは実に不思議なことだ。これほど簡単なことはないように思えるけれど、そう、昨日と同じように今日も生きればそれでいいように思えるのだけれど、そうはいかない。
 逆に同じように生きようと、暮らしていこうと思っても、意に反して生き方を何かによって問い掛けられ、時には無理にでも姿勢を変えざるを得なくなってしまう。
 淡々と生きていて、何も新しいことなど起きず、あまりに単調で退屈な日々が続いているとしか思えないでいると、ある日、思いがけない転換点に差し掛かってしまい、ガラッと周囲を見る目が変わってしまうことがある。
 何かが不意に変わったのか、それとも何気ない日々の積み重ねが、量の増大が質の転換を生むように何か新しい位相へと己を運んでいってしまったのか。何処かにターニングポイントがあったのに違いないのに、ずっと後になってやっと、そうかあの日が変わり目だったのかと分かるだけなのだ。
 この世に生きていることに気づいてから、誰でも多かれ少なかれ背負うものがある。それは外貌かもしれないし家柄かもしれないし、環境かもしれないし、肉体的あるいは精神的資質かもしれない。物心付いた時には、もう、あまりに多くのものを戴いてしまっていることに気づいて愕然とするかもしれないけれど、大概の人は、無邪気に自由が自分には広がっているような恵まれているような錯覚それとも幻想を抱いたままに、いつか頭をどやされるまで可能性という名の幻想に吊られて生きていく。
 でも、そんな幻想がない人生などというのは、想像を絶して味気ないに違いない。自分の力で現状を変えられるかもしれないという自由への幻想がない人生など、死んで生きるにも等しいのかもしれない。
 本当は自分は変わるかもしれないと期待しつつ、何も努力などしていないと分かっていても、それでも、何かを今後に期待してしまう。なんて虫のいい期待なのだろう。それでも、夢を追ってしまうのである。
 さてしかし、物心付いた時に幻想を打ち砕かれる人もいる。重いというより、重すぎる枷に呻いてしまう人もいる。
 何だか知れない闇の圧力に圧し掛かられて、顔が心が歪んでしまっている人がいる。闇の中の手は、その人の親の姿をしているのかもしれないし、もっと形の抽象的な、表現に窮するような何かの形をしているかもしれない。
 あまりに早く生きる上での重石を感じ、打ちひしがれてしまった人は、気力と胆力があれば、人生そのものに反抗するかもしれない。あるいは自尊心の高すぎる人なら、人生を拒否するかもしれない。生きることを忌避するのだ。人
生の裏側の世界へ没入していくのである。数学の世界に虚数というものが存在するように、人生にも虚の広大な世界が実在する。虚の実在。
 それとも、優しすぎたり生きることへの意志の薄弱な人なら、ひたすら重石のなすがままに己の体や心を変貌させていくのかもしれない。その心や肉体は重石の形の陰画であり、心と体の肌の表面には重石のデコボコがそっくり印刻されてしまって、呼吸をするのさえ、重石の表面のデコボコの透き間を縫って、やっとの思いで為している始末である。
 その透き間に異教徒の屍骸が埋もれている。

 今、ここでほんの少し焦点を合わせたいのは、そうした物心付いた時には既に陰画としての虚の世界を生きるしかなかった人の世界だ。
 その虚の世界だって、二つある。不毛な人生の果ての虚の世界で空回りしているオレの虚。もう一つは、爆弾で引き裂かれて蒸発してしまった異教徒の充実しすぎた虚。

 オレは、コンクリートかアスファルトで舗装された大地に住まう。その大地には息する余地さえ与えられない。それが現代における都会だ。少なくとも歪んだ心と共に生きる人には、新鮮な大気というのは、夢のまた夢なのである。
 それでも生きている限りは息をする。懸命に酸素を吸おうとする。
 海やプールで初めて泳ぐ時、息継ぎに苦労する。大概は、息を思いっきり吸おうとする。まだ肺の中の汚れた気体を十分に吐いていないのに、そこに無理矢理、息を飲み込もうとする。
 だから、段々肺の中に綺麗な空気と汚い空気が充満して、肺が苦しくなるのだ。
 肝腎なのは吸って既に吐くべき気体を吐き出すことなのだ。そうすると気体の抜けた肺は自然に息を吸うのである。動物の肺は、そうなっているのだ。
 が、大地の下の押しひしがれた生き物は、いつ大気を吸えるか分からないものだから、必死な面持ちでグッと吸い込もうとする。コンクリートに僅かな罅割れを見出して、そこから茎や葉っぱを押し出して、日の光を浴びようとする。
そうしないと生きられないのだ。
 グローバルな潮流に逆らおうとする奴は、埃だらけの、放射能で汚染されたスモッグを肺にタップリ吸い込むがいいのだ。

 軟弱だったり惰弱だったり、優しすぎる人だって、生きる以上は、生きている限りは息をする。アスファルト舗装の分厚い壁をぶち割る気力など到底ないのだけれど、それでも、何処かに透き間を探し出し、あるいは我が身を捩じらせくねらせて、重石の彼方の天を仰ごうと願う。
 きっと、そういう人は想像力が逞しくなるに違いない。失われたものの代わりは、必ず得ようとするのが生き物の常なのだから。何かが圧殺の危機に陥ったなら、その代償として他の何かを増殖させる。それが実は肥大させてはならないものであろうとなかろうと、そんなことにはお構いなしだ。そんな悠長なことは言っていられないのだ。顔を歪ませてでも、とにかく舌を伸ばして乾いた心と体のために水を得ようとする。目を皿にして何か救いの徴候がないかと必死の形相になる。髪を逆立て、神経を尖らす。
 捜しているもの、求めているものは、ユートピアなのかもしれない。恩寵の到来なのかもしれない。この世の誰にも打ち明けることのありえない、自分でも笑ってしまいそうなほどに滑稽な、でも、切実な光の煌きへの渇望なのかもしれない。そんなことがありえないと、自分が一番よく分かっている。そんなことがありえるくらいなら、そもそも、自分が苦しんだり悩んだり虐められたり追い詰められたりするはずがなかったのだから。
 神も仏も信じない。それは生煮えの世界なのだ。現に燃えている、我が家が、我が身が燃え盛っているというのに、いつの日かの恩寵などお笑い種ではないか。

 死骸が路上に横たわっている。
 犬は蛆が湧くほどに腐乱していた。お腹がそろそろ白骨が見えそうなほどに何かの動物に食いちぎられたのか、それとも腐敗し始めていたのか、いずれにしても何日間は放置されていたわけである。
 ところで、今は潔癖なほどに街中に死の気配の払拭された日本だが、ほんの数世代前には、死骸が、それも動物だけではない人間の死骸がゴロゴロしている風景が、当たり前だったことだってあったのだ。飢餓に苦しんでいたのは、そんな遠い昔のことではないのである。まして、病人が家の何処かの部屋に寝込んでいるという風景は珍しいものではなかった。
 それが、今では、病人や特に死を目前にする人の姿を近所で見かけることは少なくなった。病や死が身近なものではなく、病院の一角に追いやられる忌むべき<穢れ>になってしまったのである。死が、自分のもの、家族のもの、近所の人々のものではなく、病室での徹底して孤独なる営み、人の目からは隠しとおされるべき非日常、異常な何かとされてしまったのである。死や病は、私のもの、家族のもの、仲間たちのものではなくなったのだ。
 死だけではなく、病そのものが、もっと言うと老いることが汚らわしいことにされてしまったのである。若く見られることを至上の喜びと思う女性やご老人。実際は七十、八十なのに、「六十歳にしか見えませんね」などと言われると相好を崩して歓んでしまう。
 何故、若いことがいいことなのだろう。何故、元気でいることが最善なのだろう。遅かれ早かれ老い、病み、死ぬことが必定だというのに、そのように宿命付けられていることは呪わしいことなのか。
 だったら、老いている人、役に立たない人、病んでいる人、死を目前にしている人たちは、すべて、呪われた人たちということなのか。
 老いや病みを忌むべきものと考えれば考えるほど、いざ、自分がその立場に追いやられたなら、その業苦を自分だけで背負わなければならなくなる。忌むべきものを今更、他人と分かち持つわけにはいかないのだから。
 お釈迦さまが、生老病死を人間の四つの苦悩として示した。が、ではその四つの苦しみのない人生とは、一体、いかなるものなのか。老いや病や死を先延ばししたいというのは、人情である。小生も心底、思いっきり先延ばししたいと思う。
 けれど、そうした思うがある限り、老いる人、病む人、死に臨んでいる人たちは浮かばれないし、そうした人々との関わりに灯りが射すことはありえない。ということは、実は、遅かれ早かれそうなる定めである自分の人生との真正面からの関わりを忌避していることになるのだということに、気付いていないということになる。

 御先祖さまは、ずっと田圃を耕し土を肥やし土の成果を口にして来たのだ。そして一生を土と共に生きて、やがて土に返ったのだ。まるで野ざらしのような墓場に先祖の遺骨が納められている。火葬が常だったので、死んだ体が土に
真っ直ぐに還るというわけではないが、焼けた灰は土に戻されるし、焼けた煙は天を迷い舞った挙げ句、何処かの田か野原か川に舞い降り、土の肥やしとなったのだし、形は違っても、迷う道があれこれあっても、所詮は土に還ること
には変わりがなかったのだ。

 土を喰らう…、昔は誰もがそうして日々を暮らしてきたのだ。土の変幻した果実を口にする喜びを感謝してきたのだ。土が身近にあったのだ。
 その喜びを、やつ等に嫌って言うほど、お見舞いしてやっているだけのことなのだ。

 土の中には無数の生物が生きている。それこそ数万どころか、数億、あるいはそれ以上の微生物達が生きている。生まれつつある。死につつある。腐りつつある。食いつつあるし、食われつつある。
 大地を踏む感触がわれわれに豊かな生命感を与えてくれるというのは、実は、そうした生命の死と生との巡り巡る循環に直に触れているからではないだろうか。
 そして遠い感覚の中で幾分早くわれわれより土に還った先祖の肌の温もりを感得しているからなのではないか。
 

 闇の世界に放り出されて生きてきた以上、闇の中で目を凝らして生きる余地を捜し、真昼のさなかに夢を見る。その人の目は、この世の誰彼を見詰めている。けれど、その人の目は、誰彼を刺し貫いて、彼方の闇を凝視している。何故なら自分がこの世に生きていないことを知っているからだ。
 そして心底からの願いはただ一つ、自分を救って欲しかったというありえなかった夢だということを知っているからだ。そうした夢が叶うのは虚の世界でしかありえないのだ。だから、この世を見詰めつつ、その実、白昼夢を見るの
である。
 願うのは生きられなかった己のエゴの解放。そうであるなら、つまり叶うことがありえなかったのなら、せめて、心の脳髄の奥の炸裂。沸騰する脳味噌。
 何か、まあるい形への憧れ。透明な、優しい、一つの宝石。傷つくことのない夢。
 そうした宝石をきっと、誰でもが、遅かれ早かれ探し始めるのに違いない。
 そう、ちょっと、ほんの少し、探し始めるのが早かったのだ。もっと、たっぷり生きてからでよかったのに。
 でも、一旦、初めてしまったなら、やり通すしかない。真昼であっても闇、闇夜であっても同様の白い闇の世界の小道を、何処か深い山の奥から渓流の勢いに押し出されたヒスイの原石を求めて、終わりのない旅を続けるのだ。


                                  (04/11/09)
[ 本作品は、あるエッセイを下地に、虚構作品という特権を生かして、さらに妄想の念を高めてみたものです。元のエッセイは、「エッセイ祈りの部屋」にあります。フォートリエとは、ジャン・フォートリエ JEAN FAUTRIER.のことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。尚、テーマ的に近い作品として、「ディープスペース」シリーズ作品のほか、「ディープタイム/ディープブルー」があります。 (04/12/07 記) ]

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2004/12/04

ディープスペース:ポロック!

「ディープスペース(3):ポロック!」


 どんな表現の営為も、その表現の衝動の基盤には、自らでさえ探りえない暗くて深い、分析も、まして全体的俯瞰など論外であるような、広大なる沃野とも荒野とも判断の付きかねる世界があることを誰しも、気づかざるを得なかった。
 遠い昔、私とは一個の他人だと、誰かが喝破したのだった。
 が、20世紀になって、一個の他人であろうと何だろうと、あらゆる輪郭付けの試みの一切を呆気なく放棄せざるをえないほどに、<私>は見えなくなっている。誰かが言ったように、私とは、せいぜいのところ雲なのだ。
 下手すると霧のようにやがては日の下では雲散霧消を余儀なくされている散漫なる点の粒子のたまさかの凝集に過ぎないのかもしれない。
 私の中の得体の知れない盲目的な<意志>が、懸命に散逸しバラけていく霧の薄明を、せめて雲ほどには、そう、遠目には、一個の塊であるかのように、必死な思いで私の片鱗や欠片たちを掻き集めているのだ。
 そう、私とは、懸命に私を私と叫びたい、悲鳴に他ならないのだ。路上に撒き散らされたバケツの水なのだ。やがて蒸発し乾き去った路面に戻る。
 慌てて、自分の姿を探す。せめて、自分の影の名残か痕跡だけでも残っていないかと、路上を虫眼鏡で見て回る。なんて滑稽な!
 語っているのは依然として私に変りはないのだけれど、語っている私の姿が見えないのだ。
 他人に見える私。私に見える私。他人に見えない私。私に見えない私。
 ん? 他人に見える私って、私が他人のように見えるっていう意味かって? 
 ああ、それは誤解。他人様が見ることで成り立っている私という意味だ。以下同様で、私が見ることで何とか取り繕われている私だし、他人には見えないけれど、私にはきっと見えるだろう私であり、そして最後は、他人にも、そして私にも見えない私だ。
 玉葱の輻湊した身を一枚一枚剥いでいって、最後に何かが残るというのではなく、私とは、その剥ぐ営為の過程にしか存在の感触を見出せない、その悲喜劇なのだ、尤も、今のところはだけれど。
 が、雲は、変幻を繰り返す。雲の正体を見ようと近づいてはいけないのだ。離れて、青空を背景に遠望しないといけない。それほどに私とは、デリケートな、掴み所のないものなのだ。今は、<私>を呼ぶのに、私という言葉があるから未だ、いいけれど、そのうちにそんな言葉さえ、愚かしいとか、ナイーブすぎるとか言って、冷淡に斬って捨てられてしまうかもしれない。
 斬って捨てられるのは私という言葉?それとも雲へと凝集させる意志? 
 それとも、引き裂かれた肉片を拾い集め、血飛沫や骨の欠片などを手で掻き寄せ、もう一度、形を無理にも織り成そうという足掻き? 貫通した肉の棒を喉深く呑み込む歓喜?

 広いキャンバスにペンキなどを無闇に飛び散らして、あるいは裸の身体を転げまわらせて、その一見すると偶然性の彼方に、何か一個の個性が垣間見えることを期待する。そう、身体と精神とは、とてつもなく深い闇の宇宙と
いう海に散在しつつ遊泳するプラナリアか原生動物か、せいぜい海月かイソギンチャク。大海に漂うプランクトンというデジタルな命の表象を追っている。
 それでも、命の生きることへの渇望の強さは、ひしひしと感じていたのだ。
 それ以外に、何がある?!
 その営みの激しさを後押しするのは、やはりその表現者を圧倒する現代というとてつもなく肥大化した物質群だ。心が物質に圧倒されている。心も精神も、量子的飛躍を起こして物質へと相転位したのである。
 物質的恍惚! 心は物質に寄り添う。だからこそ、ペンキを撒き散らす!

 物質の駆け巡る際の凄まじい風圧に身体も心も圧倒されて、せめてキャンパスに、そう原爆の炸裂の際に人体の蒸発する寸前、白壁に人の影らしきものくらいは映る、ちょうどそのように、飛沫の散逸の彼方に人間味の欠片の名残くらいはある…ものと祈ったのか願ったのか。
 けれど、そんな営為も、アール・ブリュ=生の芸術の営為も遠いセピアの光景に成り果ててしまった。
 今、心も身体さえも、霧よりも粒の小さい、不可視の粒子へと拡散してしまった。視野を不透明にする雲さえ、懐かしい。私とは「わ」「た」「し」であり、つまりは、風に吹かれて舞う浮遊塵なのだ。あらゆる人の名残を掻き集めて、やっと黄砂ほどには大気を濁らせることができる。
 散弾銃で吹き飛ばされた身体なら、せめて肉片や血飛沫くらいは手で掻き寄せることができる。でも、仮想の粒子となった身心というのは、位相空間の中のほんの戯れの果てに、遥かな宇宙の空間に飛散する。<私>にはもう、デジタル空間の点粒子として生きるしか残された道はないのだろうか。
 だとして、どうやって<私>へと凝集させたらいいのだろう。
 ああ、飛び散ったペンキの飛沫の偶然性に己の実存を夢見た日よ何処へ。


                            (04/11/08 作)

[ 本作品は、あるエッセイを下地に、虚構作品という特権を生かして、さらに妄想の念を高めてみたものです。元のエッセイは、「エッセイ祈りの部屋」にあります。ポロックとは、ジャクソン・ポロック Jackson Pollockのことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。尚、テーマ的に近い作品として「ディープタイム/ディープブルー」があります。 (04/12/04 記) ]

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2004/11/30

ディープスペース:バスキア!

「ディープスペース(2):バスキア!」


 オレは、街中をやたらと歩き回った。何かを求めて? それとも、何かから逃げるために?
 そのどちらでもあり、どちらでもない。
 オレは、壁の落書きを見て歩いた。他に見るものなど、何もなかったからだ。空の青? 公園の緑? 今更、都会で風景など眺めたって、何の新味があるものか。所詮は、作り物の自然、刈り込まれた、自然とは名ばかりの、冷たく乙に澄ました他人行儀な植木じゃないか。
 小奇麗で洒落たショーウインドー? 聳え建つ高層ビル群? 高速道路とモノレールと地下鉄と運河の立体交差する湾岸の眺望? 瀟洒な豪邸の居並ぶ高級住宅街? 昔ながらの佇まいを残す古びた住宅街? 
 ああ、そのどれもが反吐が出る。退屈の極みだ。今更、何十年も昔の漫画の中で夢見られたような光景を目にして、何を思えばいいのか。流線型のモービルが空間と格闘する姿は感動的だとでも言うのか。運河をゆったり走っていく旅客船が優雅だと、口を開けて眺めていろとでも。
 街中を行く顔の退屈なこと。が、その退屈さは自分の浅ましさを映し出している。そうだ、だからオレは歩く。
 居たたまれないわけじゃない。ジッとしていることに耐えられないわかじゃない。ここじゃない何処かに自分の居場所があるはずだと、うろついているわけじゃない。どこをどう歩いたって、自分がそこにくっ付いて歩くことは、もう、嫌
ってほどに分かっている。
 それは晴れた月夜の晩の月のようなものだ。まるでオレを見張るかのように、オレを見守るかのように、オレの心を見透かしているかのように、何処をどう歩いても、オレの空の一角に鎮座し、オレに影を与える。
 オレは影など要らない。要るのは、そう、ある種の感覚。ある種の空間。ある種の手応え。ある種の空白。ある種の欠乏。ある種の隈なき形。
 オレは、もしかしたらオレと似た奴を探し求めているんじゃないかと思ってみた。プラスとマイナス、凸と凹、男と女、断ち切られたアンドロギュノスの片割れ。
 違う。オレはただ、壁の落書きを探していた。何時だったか、夢の中で見たあの落書きを。
 それは、あまりに魅惑的だった。壁の悪戯書きに過ぎないと、夢の中でさえ気付いていたのに、それでも、オレはそのアートに惹きつけられた。魅せられるようにして、オレは、闇に突進していった。闇の奥に、沈黙の海の彼方に、それは密やかに佇んでいる。
 佇んでいる…。なのに、それは実は、灼熱に白く変色していた。オレの中の意識の渦巻きを中心にして猛烈な勢いで自転していた。周囲の空間との摩擦熱が遠く離れたオレの頭蓋さえ、赤熱しているのだった。
 オレは首を闇の割れ目に突っ込んだ。真っ赤な闇の透き間に顔を捻じ込むようにして突っ込ませたのだった。それでも、闇の海の奥の壁には届かない。オレは顔を歪ませ頭蓋を拉(ひしゃ)げて、さらにベロを思いっきり延ばして、壁に迫った。
 嬉しかった。壁にベロが届いたのだ! 舌の先に壁の焦がれて熱いような、それでいて凍て付くような、一体、実際のところはどうなのかまるで分からぬ感触があった。
 ほんの一瞬、小学生の頃、村祭りの夜に、近所のガキどもが集まって、そうしてその晩の犠牲となった女の子を丸裸にし、検分し、やがて指と目の先は向かうべき場所に向かい、割れ目を指で開き、兄ちゃんたちの真似をして、恐る恐るベロを突っ込んだ時の、あの眩暈のするような快感を思った。あのオシッコの臭いのした女の子は、眠った振りをしているだけだと、後で教えられた。

 引っ込めるべき? それとも、さらに舌先をナメクジのように壁を這わせるべきなのか。
 壁には、ジャン・ミッシェル・バスキアがスプレー塗料で描く、あまりに生々しい抽象画が刻み込まれていた。抽象的なのに、過度にエッセンスが直截に示されていた。吹き付けられた塗料の偶然性に酷似した、しかし怜悧なまでに計算され尽くした、深刻さと紛らわしいほどに近似した滑稽な悲しみが突きつけられていた。
 そこには妥協の余地がなかった。フォートリエが描く泥の中に埋められ遺棄された捕虜の骸がケタケタと笑っていた。真っ暗闇なのに、あっけらかんとした笑みが宙に浮いているのだった。
 その笑みは、オレが橋から投げ棄てた女の笑みに似ていた。えげつないほどの抽象性、それはつまりは魂の性格そのものではないか。見える者には見える。目を閉じても、耳を塞いでも、心を閉ざしてさえも、見える、そんな救いようのない見え方なのだ。
 柳の枝垂れる細い葉っぱの後ろであいつが立って、こちらを伺っている。オレの来るのを待っている。純粋なる形となったあいつ。魂だけが凝縮された、それは幽霊。
 そうだ! オレは、あいつから逃げ回っているのだった。夢の中に現れ出る奴から必死になって逃げ惑っている。奴は月よりも執拗にオレを追い掛け回す。雲が出ようが、雨が降ろうが、槍が降ろうが、恭順の印にと目の玉を抉り出そうが、胃の腑を裏返すほどに反吐を浴びせ掛けようが、そんなことに一切頓着することなく、オレの目の前に立って、そうして、恨めしげにジッとオレを眺め上げる。
 そうだ! オレは、街中に、あの夢で見たあいつの姿の刻み込まれているだろう、壁を探しているのだ。


                          (04/11/05 作)

[ 本作品は、あるエッセイを下地に、虚構作品という特権を生かして、さらに妄想の念を高めてみたものです。元のエッセイは、「エッセイ祈りの部屋」にあります。バスキアとは、ジャン・ミッシェル・バスキアのことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。(04/11/30 記) ]

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